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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区神楽河岸4

  牛込揚場跡碑
 江戸時代には海からここまで船が上ってきた。全国各地から運ばれてきた米、味噌、醤油、酒、材木などがこの岸で荷揚げされたので、この辺は揚場と呼ばれた。
 昭和47年(1972)に都の市街地再開発事業として、ビル建設が決定され飯田濠は埋め立てられることになったが、濠を保存してほしいという都民の強い要望から、ビルの西側に飯田壕の一部を復元すると共に、以前水面があったことにちなんで約230メートルのせせらぎを造った。
 小濠の水は、このせせらぎの地下水路を通って昔のとおり神田川に注いでいる。
 昭和59年(1984)3月 東京都

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所在地 新宿区神楽坂3丁目と4丁目の間 

  本多横丁

 その名の由来は、江戸中期より明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、碌高1万5百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。
 神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。
 後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したが、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。
 石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。
 昭和60年(1985)7月 本多横丁商店会


所在地 新宿区神楽坂5

  寺内公園(行元寺跡)
 この「寺内公園」」の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。
 江戸中期の天明8年(1788)、境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政4年(1857)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治4年(1871)には、行幸寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和26年からは「神楽坂5丁目」になっています。)
 行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し、大正元年(1912)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、毘沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。
 文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正4年作(1915)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。また、喜劇王柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。
 日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。
 平成15年(2003)3月吉日 新宿区


 「当時の寺内の風俗を描いたといわれる」
ノエル・ヌエット仏画「神楽坂」(昭和12年) 作品提供/クリスチャン・ボラック


所在地 新宿区西早稲田1-1-2

山号    禅英山
院号    了心院
寺号    宝泉寺
本尊    薬師如来
宗派    天台宗
本山    比叡山延暦寺
宗祖    伝教大師(最澄)
開山年   弘仁元年(西暦810年)

宝泉寺は、和漢三才図会(江戸時代の百科事典のようなもの)や吾妻鏡などによると、西暦810年頃の草創と伝えられます。また承平年間(西暦931年から938年)平将門の乱を平定した藤原秀郷(俗称、俵藤太)の草創とも伝えられ、そのどちらをみても千年の歴史を持つ古寺であることがわかります。南北朝の動乱で荒廃しましたが、文亀元年(西暦1501年)上杉朝良が荒廃を嘆き私財を投じて伽藍を復興しました。しかし戦国の動乱により再び荒廃してしまいます。その後、牛込時国が天文19年(西暦1550年)に再興します。江戸時代になりますと、隆盛を極め、本堂(本尊薬師如来)、毘沙門堂、常念仏堂、鐘楼を擁し、なかでも毘沙門堂は藤原秀郷の念持仏の毘沙門天が安置されていたことで有名になり、江戸で最初の富くじが行われた寺としても伝えられています。また隣接していた水稲荷神社の別当(寺が神社の代わりに行事を行う)となり、そこには、高田富士という模造の富士山が在り多くの信者を集めました。
境内には、3代将軍家光が名付けたという守宮地(いもり池)もあり、春には、梅や桜の名所とされ、江戸の人々の憩いの場となりました。当時は、広大の土地を有し現在の早稲田大学キャンパスの大部分が寺領であったと伝えられます。江戸時代、幾度かの火災にあい、明治に入り寺領も縮小され、そして第二次世界大戦の空襲により、そのほとんどを消失してしまい、唯一現存しているものとして梵鐘があります。今もなお、往時の響きを伝えております。昭和41年に現本堂の建立、墓地の整理等が行われ、その後庫裡、客殿が建築され、境内の整備により、戦後の復興となりました。
現在の早稲田大学キャンパスの大部分が宝泉寺であったということで、早稲田大学とは、たいへんご縁のあるお寺でもあります。この縁を大切にし、新たな歴史を築き早稲田の宝泉寺として多くの方に知っていただき、地域の平安を願い仏法を広めるよう努めております。

 宝泉寺境内には『梵鐘』があります。


所在地 新宿区西早稲田1-1-2 (宝泉寺)

新宿区登録有形文化財(工芸品)
 宝仙寺の梵鐘
     平成12年(2000)3月2日登録



 宝泉寺第六世玄海の発願で、正徳元年(1711)7月に、江戸鋳物師西嶋伊賀守藤原正重により鋳造された銅造の梵鐘。
 総高136センチメートル、口径79センチメートル。竜頭は両頭式、乳(突起)は108個を配し、撞座は2ヶ所設けられている。江戸鋳物師の技術が頂点に達した正徳年間に鋳造されたもので、仏像が表現されるなど、入念かつ斬新な仕上がりとなっている。
 銘文からは宝泉寺の歴史や梵鐘鋳造の経緯がわかり、史料的価値が高い。それによると宝泉寺は、承平年中(931~938)平将門の乱を平定した藤原秀郷が草創。南北朝の動乱で荒廃したものを文亀元年(1501)扇谷上杉朝良が復興するが再度戦国の動乱で荒廃、天文19年(1550)牛込氏が再興したが梵鐘は鋳造されなかった。そのため玄海は、住職就任草書から梵鐘再興に努めたが、なかなか実現せず、住職を辞した宝永7年(1710)私財を投じて梵鐘を鋳造させたという。
 江戸時代の梵鐘は、太平洋戦争中の供出により現存数が少なく、技術的にも史料的のも価値の高い梵鐘として貴重である。
 平成12年(2000)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区西早稲田1

 グランド坂(早稲田グラウンド坂通り・ワセダグラウンド坂通り)

 


所在地 新宿区西早稲田2-1-11

  穴八幡神社(穴八幡宮)

御祭神 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后



 江戸時代初期に創建され、享保13年(1728)には徳川将軍家男子の誕生を祝う流鏑馬やぶさめ(新宿区指定無形民俗文化財)が奉納されるようになった。これは走る馬上から的を射る行事で、今でも毎年10月10日に行われる。また境内にある布袋像の水鉢も新宿区指定文化財になっている。



 穴八幡神社境内には『高田馬場の流鏑馬』、『神武天皇遥拝所』、『随身門』、『保護司顕彰碑』、『早稲田ミョウガのレリーフ』、『布袋尊像』があります。



所在地 新宿区西早稲田2-1-11 (穴八幡神社)

新宿区指定無形民俗文化財
 高田馬場の流鏑馬
     昭和63年(1988)3月4日指定

 享保13年(1728)徳川将軍吉宗が世継嗣の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ奉納した流鏑馬を起源とし、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝に高田馬場で流鏑馬が奉納された。
 明治維新以降中断し、昭和9年(1934)に皇太子(現天皇)誕生祝のため再興され、数回行われたが、戦争のため中断された。昭和39年(1964)流鏑馬の古式を保存するため、水稲荷神社境内で復活し、昭和54年(1979)からは都立戸山公園内に会場を移し、姪とし10月10日高田馬場流鏑馬保存会により公開されている。
 古式豊かで勇壮な高田馬場の流鏑馬は、小笠原流によって現在に伝えられており、貴重な伝統行事である。
 平成4年(1992)8月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区西早稲田2-1-11 (穴八幡神社)

 布袋尊記



穴八幡宮は康平年間八幡太郎義家が奥州の乱を夷げ凱陣の途に創祀す。慶安元年三代将軍徳川家光江城鎮護の為宏壮なる社殿を再興幕府の祈願所として重んぜらる。明治維新の後は 皇室歴代の御蟲封を謹修し奉る。神徳彌光を増し崇敬年々数を加え手水舎は昭和二十年の戦災にて本社詣殿守と同時に類焼し延實再建の時大森信濃守の奉納せる巨水盤亦破碎し了ぬ。今茲氏子崇敬者の篤志に依て手水舎の新築成就す。内に境内南麓霊窟の傍に磐座せし布袋の尊像を移して安置せり。この像は始め江戸城吹上の御庭にありしを慶安二年社殿竣工の節家光将軍奉納に係る東都随一の霊像にして古来信仰者最も多し。もと手水鉢たけし由縁を以て此所に移すに當り縁起を畧述して碑に刻す。
 昭和四十四年九月吉日 穴八幡神社宮司 齋藤直成題並誌

所在地 新宿区西早稲田2-1-11 (穴八幡神社)

 江戸時代、早稲田村はミョウガの産地としてその名を知られ、周辺の農家の人達は豊作祈願に当社を訪れていました。
 当神社の北を流れる神田川流域にはかつて水田が拓け、また、神田川へのなだらかな北斜面には、昔からミョウガが自生していました。
 ミョウガはショウガ科の多年草で、保水力がよく、しかも水はけのよい所で、品質の良いミョウガがそだちます。
 徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828)にも紹介された早稲田のミョウガは、土地柄から大振りで香りがよく、全体に赤みが美しいので、薬味のほか漬物や汁の具などに用いられました。
 ミョウガを食べると物忘れをするとおいう言い伝えがあるものの、独特の風味は江戸庶民に好まれ、江戸後期には畑で栽培されていました。
 明治15年(1882)に大隈重信によって東京専門学校(後の早稲田大学)が創立された以降は、宅地化が進み、水田とともにミョウガ畑も減少の一途をたどり、今では早稲田のミョウガを味わう事はできなくなってしまいました。
 平成9年度JA東京グループ
 農業共同組合法施行50周年記念事業

     THE AGRICULTURE OF EDO&TOKYO
              Waseda Myoga (Japanise ginger)
 According to the record of 1828,Waseda village was known for its myoga production.Farmers around this shrine used to come here to pray for good crop for the year.
 There were many rice paddies along the Kanda River to the north of this shrine and,from olden days,myoga grew wild over the gentle northern slope of the riverside.
 Waseda myoga is larger in seize,rich in flavor and has a beautiful reddish color.Its unique taste and flavor was relished by the people as spices,pickles or garnishings for miso soup.It was cultivated in the field toward the end of Edo Era.


所在地 新宿区西早稲田2-1-11 (穴八幡神社)

更生保護
 保護司顕彰碑
     白根松介 謹書



   碑誌
保護司は 社会奉仕の精神によって 困難の多い更生保護の聖職に 無給で献身している篤志の国家公務員である 先に昭和二十五年五月二十五日保護司法の施行によって 戦前からの司法保護委員制度の本旨を承けて保護司制度が置かれて以来 保護司はそれぞれ所属の全国各保護区において 特志家の中から送はれて其の任に就き 人生の歩みの中で非行に陥り又は犯罪者となった人々の更正の保護者として 鋭意挺身これが保護善道に努め 其の再犯を防止し其の更生をを助け 累年営々篤区行を積んで社会に多大の貢献ををしている 殊に我が新宿区においては 近年この地域の目覚ましい発展を市井の殷賑繁華の蔭に非行犯罪の多発が認められるに際し 全区の保護司が銘々よくその重要な役割■深く使命感のもとに常に更生保護の完遂に努めさらに進んで世論を指導■地域の非行犯罪の予防をはかる もって我が新宿区の区民福祉の維持増進に寄与することから極めて着実且つ深甚である この時に当り新宿区保護■会々長北原唯一この保護司の崇高偉大な功績を永く鎮仰するため 保護司顕彰碑の建設を主唱し同会総会の決議をもって茲にこの保護司顕彰碑を建立し■て■故保護司各位の芳名を刻んで永久にその遺徳を顕彰するものである
■の建碑に対して 高松宮喜久子妃殿下より額面更生保護の四字の御染筆を賜わりさらに区政当局並に区民有志及び其他江湖の有識諸賢から多大の協力を与えられたことは我等一同感激措く能わざるところである
■碑面の名号は新宿区保護観察協会々長白根松介の謹書による昭和四十八年五月吉日
  元東京保護観察所長 大坪與一撰
  新宿区々長 山本克忠書


所在地 新宿区西早稲田2-1-14

高野山真言宗
 威盛院 光松山 放生寺

 放生寺は寛永18年(1641)威盛院権大僧都法印良昌上人が高田八幡(穴八幡宮)の造営に尽力され、その別当寺として開創されたお寺です。
 良昌上人は、高野山奥の院、安芸宮島さらには諸国を修行していた折の寛永16年(1639)2月霊夢の中に老翁現れ、「将軍家の若君が辛巳の年の夏頃御降誕あり、汝祈念せよ。」と告げられ、直ちに堂宇に籠もって大願成就まで祈願致したところ、同年厳有院殿(4代家綱公)が御降誕されました。その後、このことが上聞に達し、大献院殿(3代家光公)が当山に御参拝になり正保3年(1646)御厄除の御祈祷を厳修、慶安2年(1649)良昌上人より寺社の由緒も聞かれ、「威盛院光松山放生会寺」の寺号を賜り付近一帯は放生寺門前と称されていました。爾来、将軍家の崇信殊の外篤く徳川家代々の祈願寺として葵の紋を寺紋に、また江戸城登城の際には寺格として独礼登城三色(緋色、紫色、鳶色)の衣の着用を許されました。
 さらには、御遊猟の際に当山を御膳所に命ぜられるなど、徳川實記には放生寺と将軍家との往来が詳細に記されております。
 開創当時から明治までは、神仏習合により穴八幡別当放生寺として寺と神社は同じ境内地にあり、代々の住職が社僧として寺社一山の法務を司っておりましたが、明治2年(1869)、当山16世実行上人の代、廃仏毀釈の布告に依り、境内を分割し現今の地に本尊聖観世音菩薩が遷されました。
 このように当山は、徳川家由来の観音霊場として広く知られ殊に本尊聖観世音菩薩は融通虫封観世音と称され、御府内88ヶ所霊場第30番札所、江戸33観音第15番札所として多くの人々の尊信を集めております。



   一陽来福の由来
 現在暦や易占の礎となっている書物は「宿曜経」と云い弘法大師空海が平安時代に初めて中国から我が国に伝えたものであります。当山授与の一陽来福は冬至(陰極まって一陽を生ずる)を示す一陽来腹に因み、観音経の「福聚海無量」と云う偈文より「福」の字を結んで一陽来福と名付けられました。一家の居間に、毎年定められた恵方に向けて貼り、資生招福・金銀融通を祈願する霊験あらたかな観音さまの御札です。
 江戸天保年間に、冬至前7日間真言密教による観音法の御祈祷を修して、別当放生寺が信徒に授与したのが始まりです。以来、今日に至るまで御修法を師資相傳継承し、冬至より節分迄の間授与致しております。一陽来福が当山由来でありますことは、虫封じと共に古老諸彦の熟知される所であります。
 光松山 放生寺



 境内には『放生供養碑』、『馬頭観世音菩薩』、『地蔵菩薩』、『神変大菩薩』があります。


所在地 新宿区西早稲田2-1-14 (放生寺)

 神変大菩薩は、もとの名を役の小角または役の行者と申され、いまより1300年程前に大和国葛上郡掖上(わきがみ)村の高加茂家にお生まれになりました。御一代記に依れば、大和の葛城山を根拠に吉野金峯山、大峰山、冨士山等合わせて90余峰を開き、神仏習合に基づいた修行をされ修験道の開祖と仰がれた方で、法力の霊験不思議なこと古今を絶すると称されております。
 寛政11年(1799)光格天皇より神変大菩薩の諡号を賜りました。山野を駆けめぐって修行されたことに因み、特に足腰の弱い方をお救い下さると云われており、当山では「ぞうり」の懐中御守、「祈願の絵馬」を本堂にて授与しております。
 光松山 放生寺


所在地 新宿区西早稲田2-1-14 (放生寺)

 お地蔵さまはそのお名前が示すとおり、大地のように踏まれても怒ることなく、屈することもなく大きな慈悲心で全てのものを育み救ってゆこうとする無尽蔵の力をもった菩薩さまであります。
 左手に蓮華宝珠、右手には鍚杖を持つ僧形で、お地蔵さまの御誓願は生と死の両界において、危ない処や淋しい処また、子供のように弱い者に対して力を貸してゆこうとするものであります。鎌倉時代、民間信仰にとり入れられ賽の河原では童児の救済者として和讃にまで唱えられ子育地蔵・子安地蔵の名で古くから信仰されております。
 光松山 放生寺


所在地 新宿区西早稲田2-1-14 (放生寺)

 観世音菩薩化身の内、唯一の忿怒像であり怒りが強い程、内には人を救うお力(慈悲の心)も大きく、また馬は大食いであるということから人々の悩みや苦しみ(煩悩)を喰べ尽くすと云われます。   光松山 放生寺


所在地 新宿区西早稲田2-1-14 (放生寺)

 放生会とは元々は殺生を戒める宗教儀式でありました。当山では全ての生きとし生けるものに対して命の貴さと慈悲の心を願い放生会を厳修しております。
 私達は多くの生きもののお陰で生命が養われています。現代はそれらの生きものに感謝する気持ちが薄れ、それらが当然であるかのように思いがちですが、これらの生きものがなくては私達は生きていけません。経典の中に「六道の衆生は皆是れ我が父母なり」とあるように、全ての生きもは私達と同じ生命を生きています。放生会とは、全ての生とし生けるものに感謝し、私達の為に貴い命を与えてくれた禽獣魚介類の霊を供養する法会です。この行事を通じて、生命の貴さ、大切さを思い、生ものに対する優しい心が育つことを願い、境内にある放生池に稚魚を放ち(後に秋川に放流)放生碑に塔婆を供えて御供養いたします。
 当山に於いては開創以来この放生会を修しており、徳川三代将軍家光公より、威盛院光松山放生会寺の寺号を賜ったことが「江戸名所図絵」及び「新武蔵風土記」に記載されております。


所在地 新宿区西早稲田3-5-43

  水稲荷神社  天慶4年(941)創建
御本社   大宮女大神
御祭神   豊受姫大神 佐田彦大神
例大祭   9月9日
初午祭   旧初午日




 水稲荷神社境内には『堀部安兵衛の碑(堀部武庸加功之遺跡碑)』、『太田道灌の駒繁松』があります。


所在地 新宿区西早稲田3-5-43 (水稲荷神社)

  堀部武庸加功之遺跡碑

文   東京信夫
筆   正五位 日下部東作
篆額  正二位勲一等 西園寺公望

 高田馬場は東京都城北と掴むラニある。武士が馬術の調練をする所として有名であった。ここに堀部武庸の加功の事を記す。武庸は通称安兵衛。本姓は中山氏越後の新発田の出身。江戸の遊学し、剣を堀田正春に学ぶ。叔父の菅野六郎左衛門が同僚(村上庄左衛門)と不和を生じ、高田馬場で決闘をすることとなった。六郎左衛門は単身決闘に臨んだが、堀部武庸は、六郎左衛門の妻から事情を聞き、駆けつけると縦横無尽に奮戦し二人を斬り倒した。六郎左衛門は深手を負い血を流しながらも庄左衛門と切り結んでいたが、危うしとみた安兵衛は加勢し、庄左衛門をも斬り伏せた。
叔父を解放して某屋敷の別邸に入って休んだが、そのうち六郎左衛門は深創のため息絶えた。4人が死んだこの決闘でただ1人生還した安兵衛は、たちまち天下の著名人となった。
赤穂藩士堀部金丸はこの話に感じいり、安兵衛を養子に迎えようとしたが、安兵衛は他人の姓は欲しないとしてこれを拒んだ。金丸の主君浅野長矩高田馬場の決闘の話を聞き、安兵衛の武勇は無比であると認めた。金丸は再三人を介して交渉した結果、遂に3年を経て堀部家の養子となった。浅野侯は事件によって死を賜り、国を召し揚げられた。これにより四十七士の復讐が行われた。安兵衛もその1人となった。ああ、一族の難に功を加えることを一族にこの人有りといい、一国に変事がありてこれを復讐することを一国にこの人有りという。今安兵衛の一身にこの2つの大きな難がふりかかったことからすれば、忠孝、節義をまっとうする豪傑の士といわないはずはないではないか。
村人行田久蔵は元禄以来の旧家である。武庸加功の地はその敷地周辺にある。現在は往時と異なり開拓され、家屋も多く、人はこのことを知らない。
赤穂義士のことは常に顕彰するけれど、最も感じ入るのはこの助太刀加功のことである。また、他の話として、金丸の娘幸は母とともに雑司ヶ谷鬼子母神の参詣の帰途、高田馬場で決闘に出会った。安兵衛ののタスキが無いのを見て腰紐を解いて渡した。これが縁で堀部家の婿となったという。
元禄5年(1692)安兵衛20歳。赤黒い絹の腰紐を渡した幸は僅かに5歳という。
この技師の談義は往々にしてかくの如き誤りとして伝わるものだ。
  明治四43年(1910)晩秋中旬


所在地 新宿区西早稲田3-5

  甘泉園公園
 甘泉園公園の地は、江戸時代、徳川御三家の1つである清水家の下屋敷があった場所であり、明治時代になって相馬家が購入し、屋敷や庭園を整備しました。昭和に入り早稲田大学の所有となり、学校関係者等に利用されていました。
 その後、昭和32年(1957)に都市計画公園として計画決定がなされ、東京都が用地買収を行い、昭和43年(1968)から公園瀬日工事が行われました。完成後に新宿区が東京都から移管を受け、昭和44年(1969)7月、新宿区立甘泉園公園として開園しました。



 公園名は、かつてこの地の湧水が清冽で常時枯れず、又お茶に適するところから「甘泉」と呼ばれていたことに由来しています。



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