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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区西新宿7-12-5

    日蓮宗

 福聚山 常圓寺(常円寺)

         通称  成子の常圓寺



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所在地 新宿区新宿7-12-5

新宿区指定史跡   指定年月日 昭和61年(1986)10月3日
   便々館湖鯉鮒狂歌碑(べんべんかんこりふきょうかひ) 
 江戸時代中期の狂歌師便々館湖鯉鮒(1749~1818)は本名を大久保正武といい牛込山伏町に住み、始めは福隣堂巨立と号し、のちに便々館と改めた。
 この狂歌碑は自然の青石に彼の代表作

三度たく米さへこはしやはらかし
  おもふままにはならぬ世の中

が刻まれている。
 書は狂歌中興の祖大田南畝(蜀山人)の揮毫で文政2年(1819)に建立された狂歌史上貴重なものである。
 平成5年(1993)1月  東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区西新宿6-7-43

  成子子育地蔵尊
 成子子育地蔵尊は、享保12年(1727)に成子坂に北面して建立、その後天保年間に再建、以来二百数十年霊験あらたかに其の名も高く近郷近在の崇敬の対象となっていましたが、昭和20年(1945)不幸にも戦災の為壊滅の悲運にあわれました。
 しかし、昭和26年(1951)11月14日有志の協賛を得て、現在の慈悲深く温和な尊容のお像と木造のお堂が再建されました。爾来50余年、子宝祈願や家内安全を願う近隣庶民の拠り所となって参りました。
 昭和46年(1971)頃よりこの一帯は超高層ビル街に生まれ変わり、平成14年(2002)当地区も西新宿6丁目再開発地域として一新し、それを機にお堂も不燃化造りに建て替えられて安置され、入魂法要が執り行われました。
 平成14年(2002)7月18日

 


所在地 新宿区西新宿1-6-1 (新宿エルタワー)

東京都指定旧跡
 策の井むちのい
     昭和16年(1941)11月指定

 当敷地内に存した「策の井」は江戸時代より名井として知られ、天和年間(1681~1683)に出版された戸田茂睡の「紫の一本」(むらさきのひともと)に「策の井は四谷伊賀の先にあり、いま尾張摂津下屋敷内にあり、東照公鷹野に成らせられし時、ここに名水あるよしきこし召し、おたづねなされ、水を召し上られ、御鷹の策のよごれをお洗われたる故、この名ありという」と書かれている。この地は尾張摂津下屋敷であった所であり、また、享保年間(1716~1735)に出版された「江戸砂子」(えどすなご)という本にも同主旨の文章が見られ「策の井」が名水とうたわれた。
 平成元年(1989)6月建設 東京都教育委員会


所在地 新宿区西新宿6-7-1

  東京医科大学病院

 東京医科大学病院には『東京医科大学校歌碑』があります。


所在地 新宿区西新宿6-7-1 (東京医科大学病院)

  東京医科大学校歌碑

  建碑のことば
本校歌は大正14年(1925)土井晩翠氏により作詩 平野主水氏により作曲された 以来本学々生同窓生に広く愛唱されその士気を鼓舞してきた 子年は本学創立70周年 新病院の落成および維持会設立35周年に当りこれを記念し本歌碑を母校に寄贈 永く後世に伝えることとした
 昭和61年(1986)3月15日 東京医科大学維持会 峡邨謹書

  校歌 
一、
ヒポクラテスの 名によれる
ギリシャの昔 斯道の
光明 西のあさぼらけ
東亜は更に はるかなる
神話の蔭に にほう跡
源流二つ 彼と此
世々に広めし いさをしの
仰がざらめや 尊さを
二、
その千歳の遠きより
洋々の末 はてしなく
知の一切を 科として
万物の 霊人類の
病を救ふ 仁の術
修め学びて 帝城の

北の一隅 幾百の
青春の子等 睦み合ふ
三、
威を官学の 名に借らず
ただこれ力 誠より
湧き来る励 身を駆りて
倣ふは三たび 肱折りし
いにしへの跡 世にいでて
藁屋の中も 玉楼の
上も等しき 人の子の
生の恵を 補はむ
四、
道の蘊奥 理の極み
深きに限あらずとも
歩々の進に 人界の
福利次第に増すものを
滄海のうち一滴の
貢献われの責として
功成るとき わが校の
名に光明を 増さしめむ
   信山書






所在地 新宿区西新宿2-11

  新宿中央公園



  十二社
このあたりは以前十二社と呼ばれました。地名は、公園西隅の熊野神社に因んで名付けられました。熊野神社の建立については、戦国時代に紀州熊野にある十二の権現を勧請したことによります。建立者は、中野長者鈴木九郎とも、土地の名主渡辺家の祖与兵衛ともいわれています。社を「そう」と読むのは、一つの社に十二の神様を一緒にまつった十二相殿からといわれ、十二相、十二双、などとも書かれました。江戸時代、神社に隣接した十二社池や那智の滝になぞられた十二社の滝は、江戸有数の景勝地でありました。境内には景勝をたあえた「十二社碑」が建立されていまう。明治にはいり、淀橋浄水場の建設で滝はなくなりましたが、遊興地として発展し、第一次大戦後には、60軒もの料亭が並んでいました。昭和7年(1932)、淀橋区十二社となりましたが、昭和45年(1970)、西新宿の一部に合併されました。十二社池は昭和43年(1968)に埋められました。

  Juniso
The area was used to be called Juniso.
It wasnamed after the Kumano Shiine dedicated to 12 deities "Juni"denotes "12" and "so" denotes "Shrine".



 新宿中央公園には『写真工業発祥の地碑』、『久遠の像』があります。


                               新宿ナイアガラの滝・新宿白糸の滝


                                       平和の鐘


                                 髪


                                              瞭


                                         燮
   燮
やわらぎ。ゆっくりと溶けあう。母と子の間の温い火のように、めぐりあう心と心をあ■かに煖めあおう



                                 


  絆(きずな)
このモニュメントは、人間と自然を地域社会と人々というテーマを”絆”という形で表現した作品である。
 1990年5月 作 三沢憲司 
 東京新宿ライオンズクラブ 東京新都心ライオンズクラブ


所在地 新宿区西新宿2-11 (新宿中央公園)

  久遠の像



 山吹の里伝説
この像は江戸城を築いた太田道灌が武蔵野の原で狩をした時の伝説の一情景であります
 1978年4月



 


所在地 新宿区西新宿2-11 (新宿中央公園)

  写真工業発祥の地碑
 この地は、明治35年(1902)5月、小西本店(現・コニカミノルタ)が、写真感光材料の国産化を図り、研究所と工場(六桜社)を建設し、製造を始めたところである。同社は、さらにカメラの製造も始め、写真フィルムの国産化にも成功した。その後、昭和38年(1963)、新宿副都心の建設事業により、八王子・日野へ移転した。今日わが国は、世界の写真王国となっているが、その礎は、この地で築かれたものである。
 昭和58年(1983)5月1日 新宿区


所在地 新宿区西新宿2-11-2

  十二社熊野神社



 十二社の熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二社権現をうつし祠ったものと伝えられます〔一説に、この地域の開拓にあった渡辺與兵衛が、天文・永禄(1532~1569)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祀ったともいいます〕。



 鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
 九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、地震の産土神である熊野三山より若一王子宮を祀りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祀ったといいます。



 この十二所が、昭和45年(1970)までこの地の町名であった十二社と読み変わったものとされますが、別に複数の社を1つに祀る相(双)殿形式で十二の社を祀った十二相(双)殿からきたという説もあります。江戸時代の文献にはこの他、十二處・十二荘・十二叢・十二層などの記述が見られます。



 神社は、江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
 また、享保年間(1716~1735)には8代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。


              角筈村熊野十二所権現社(『江戸名所図会』より)

 明治維新後は、現在の櫛御気大神(須佐之男命の別名)・伊邪那美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
 氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。


                 十二社菖蒲の図  松斉芳宗 万延元年(1860)

  十二社の池
 十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社西側、十二社通りをへだてて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにありました。
 大池は、南北126間・東西8~26間とされ、湧水があったようです。十二社の中池、上の溜井と呼ばれたほか、中野長者の娘が婚礼の夜1匹の蛇に変わり、この池に投身した伝説から蛇池とも呼ばれました。また、この池のくびれた奥の部分は別に上池と呼ばれたようです。


         角筈村熊野神社絵図面(明治初年頃、国立国会図書館蔵)

 池の周囲には享保年間(1716~1735)頃より多数の茶屋ができ景勝地として賑わい、文政3年(1820)の熊野神社の祭礼の時には角乗・筏乗などの見世物ができたりしました。


                        十二社大池の舟遊び(『淀橋誌考』)

 明治時代以降は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形舟・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968)7月に埋立てられました。
 小池は、大池の北側に隣接し、下池、下の溜井と呼ばれました。
 大池を分水したものえ、南北50間・東西7~16間ありました。
 昭和初期より一部の埋立てが行われ、水質の汚濁により昭和16年(1941)7月には多数の鯉が死んだため「こひ塚」が建立され、現在は熊野神社境内の池のほとりに建っています。小池はその後間もなく宅地化のため埋立てられました。


十二荘(江戸名所図会より)二代歌川広重 文久2年(1862)

  十二社の滝
 熊野神社の周囲には、いくつかの滝があり、あたりの風致に彩をそえていました。
 記録や古老の話から、つぎのような6つの滝の話が伝えられますが、それぞれの正確な位置やあった時期などははっきりしません。
①大滝
 『江戸名所図会』『江戸砂子』などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、高さ三丈・幅一丈と伝えられます。この滝は寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け造られた神田上水助水堀(現在の新宿区立区民ギャラリーと熊野神社の間の道あたり)が熊野神社東端の崖から落ちるところにできたものです。
 池とともに、江戸中期以来景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の『怪談乳房榎』の中で、この滝を登場させています。
 しかし明治25年(1892)頃、淀橋上水場の工事に伴い埋立てられました。
②小滝
 『江戸土産』に記載があり、大滝に付設していた小規模な滝とされます。
③熊野神社神楽殿裏より小池(下池)にそそぐ滝
 「角筈村熊野神社絵図面」に記されている滝です。熊野神社西側斜面にあったものと思われます。
④大池のイチョウ脇にあった2つの滝
 古老の話によるもので、大滝の遊興街の大イチョウの脇に4m程の高さの滝が2本あったとされます。明治時代に茶屋が客寄せのため造ったもののようで、男女別があり人々が滝に打たれていたそうです。
⑤十二社にちなんだ十二の滝
 古老の話で、かつては十二の滝が存在したというものです。そのうちの3つが、熊野神社の甲州街道への参道の脇に、水の出ない赤土の滝として残っていたとされます。
⑥熊野神社南側、旧小西六工場付近の滝
 熊野神社の南東側には、明治35年から昭和38年(1902~1963)まで、この地の良質で豊富な水を使い、小西六写真工業(サクラフィルム)の工場が操業していました(写真工業発祥の地として説明板あり)。この工場のあたりにも滝があったと言われています。

 十二社熊野神社には『弁天社』、『こひ塚』、『延命陀羅尼二千一百万遍読誦碑』、『角筈胡桃下稲荷社』、『式三番奉納額』、『七人役者図会馬』、『十二社の碑』、『神輿蔵』、『清水長雄胸像』、『倉稲魂碑』、『大田南畝の水鉢』、『天野桃隣句碑』、『纏の碑』、『能勢嘉門賛碑』、『島川玄丈人壽兆碑』、『大島三社』、『大島三社の狛犬』があります。


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

 延命陀羅尼二千一百万遍読誦碑えんめいだらににせんひゃくまんぺんどくじゅひ

 元治元年(1864)に延命陀羅尼経を唱えたことを記念して建てられた記念碑で、神仏習合の時代を物語る資料です。
  新宿区



所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

新宿区指定有形文化財(歴史資料)
 式三番奉納額しきさんばんほうのうがく
     平成5年(1993)3月5日指定

 上部に式三番の図が描かれている奉納額で、拝殿内に2枚が掲げられています。向って右側は宝暦14年(1764)に9代目市村羽左衛門が、左側は弘化4年(1847)に12代目市村羽左衛門がそれぞれ奉納したもので、ともに板地着色、縦90.7cm、横31.4cmあります。
 図柄は、江戸三座のひとつ市村座で、11月の顔見世興行と正月の初春興行に、初日から三日間演じらrた式三番を描いたもので、座元の羽左衛門地震が翁を演じるのに因んで奉納されたようです。
 式三番は、歌舞伎舞踊のひとつで、祝賀や追悼の時に行われた能の「翁」を舞踊化したものです。
  新宿区


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

新宿区指定有形文化財(絵画)
 七人役者図会馬ちにんやくしゃずえま
     平成5年(1993)3月5日指定

 安永2年(1773)4月に、当時の若手歌舞伎役者の吾妻富五郎と大谷谷次が奉納した大絵馬で、拝殿内に掲げられたいます。
 板地着色で、縦136cm、横180cm。図柄は桜の大木の下に七人の歌舞伎役者の扮装姿と十二支の動物が描かれています。
 図中の役者は、当時の名優三世大谷広次や後に12代目羽左衛門を襲名する市村亀蔵らを中心とした市村座の役者たちです。
 この絵馬の作者一筆齋文調は、江戸時代中期、明和から寛政にかけえ、優れた役者絵を描いて活躍した浮世絵師です。
  新宿区


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

新宿区指定史跡
 十二社の碑じゅうにそうのひ
     昭和59年(1984)11月2日指定



 ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1851)3月に建てられました。
 高さ210cm、幅119cm。江戸時代末期に江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』の著者寺門静軒と中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、西郊の名所として有名になった十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は262字あります。
 また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したものえ字数は286字に及びます。
 なお、書は中川憲齋(名は大彭、日本書堂は号)によるものです。
  新宿区


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

  神輿蔵
 神輿は、神社の例大祭などで氏子区域を巡幸するもので、古くは奈良時代の記録に見られます。
 普通は木製黒塗で、四角造・六角造・八角造・お宮造などの形式があります。主に屋根・胴・台輪の三部分からなり、屋根上には鳳凰を置き、台には2本の棒を貫きます。神社祭礼の神輿は、通常この棒を肩でかつぐ形です。
 この神輿蔵には、神社の宮神輿(大神輿)と、熊野神社の氏子の組織である睦の町神輿(大人神輿と子供神輿)が保管されています。
 宮神輿は、昭和3年(1928)に十二社と淀橋の氏子により製作されたもので、大祭に巡幸します。
  新宿区


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

  清水長雄胸像



 碑文
あなたは明治33年(1900)10月山梨県北巨摩郡明野村に生を享けられ、幼少より叡智衆にすぐれ人を卆いる徳望は齢十有九歳にして早くも明野村青年団長の選ばれ、次で立憲青年党を組織してその充実を図り、青年の政治意欲を鼓吹されましたが、このことはまたあなたの今日を約束づけるものでありました。大正10年(1921)あなたは公務員を志して群馬県庁に奉職されましたのを第一歩として、内務省、兵庫県、警視庁、商工省、及び軍需省の各要職に歴任、往くところ可ならざるはなき名声を博し、その精勤は報いられて、正五位勲五等に叙せられました。
昭和20年(1945)官を辞して金属回収統制株式会社代表取締役に就任されまし
たあなたは、政府の方針に従い全国戦災跡地の整理と十億に及ぶ債務の整理に努力せられ戦後の復興に大なる貢献をいたされました。昭和22年(1947)推されて東京都議会議員に立候補されましたあなたは政治に対する関心と熱意に加えて、多年官界民間に
あって蓄積された才腕と人徳は衆望翁然とあつまり見事に当選。爾来蛟龍の雲雨を得たるごとく、忽ちにして都政界の重鎮となられ、議長、副議長、委員長、都議会自由民主党政務調査会々長、同幹事長、その他各種と正の枢機に参画されまた全国都道府県議会議長会々長等の要職にも就かれ、この間欧米各国を歴訪されること二回。つぶさに行政制度の調査オリンピック大会東京招致の要請等に努力せられ、東京都はもとより全国の地方自治行政の発展に貢献されるとともに地元新宿区の繁栄のため終始尽力され、遂に新宿副都心の計画に成功する等、その功労まことに大なるものがありました。またあなたは全国知事会、全国都道府県議会議長等、地方六団体の財政確立対策協議会委員として常にその職責完遂に努力されておりますが、議長として在任中、政府の昭和34年度地方税財政措置策定の過程においては、その代表として地方自治財政確保のため寝食を忘れてこれが貫徹に邁進され、遂に目的を達成せしめました功績は地方六団体が感謝状を贈って衷心よりその心労を多といたしたところであります。この度、議長を辞せられるに当り東京都議会はあなたの偉大な功績に報ゆるに胸像一基を贈り、深甚なる感謝の意を表します。
 昭和35年(1960)3月
 清水長雄殿   東京都議会議長 内田道治


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

新宿区指定有形文化財(工芸品)
 大田南畝の水鉢おおたなんぽのみずばち
     昭和59年(1984)11月2日指定

 文政3年(1820)3月に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師大田南畝(蜀山人)(1749~1823)の書による銘文が刻まれています。
 外部は幅150cm、高さ60cm、奥行64cm。内部の鉢の部分は幅126cm、深さ23cm、奥行40cmあります。



 銘文は次のとおりです。
 正面
熊野三山
十二叢祠
洋洋神徳
監於斯池
 大田覃
  印 印

 右側面
「文政三年庚申」暮春

 左側面
奉納 淀橋

  新宿区


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