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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区赤城元町1-10

 赤城神社は平成22年(2010)9月に新しい社殿が竣工しました。



 言い伝えによれば上野国(群馬県)にある赤城神社の分霊を、弘治元年(1555)牛込氏が現在地に移したという。境内の尾君清風亭という貸席があり、坪内逍遥が文芸協会の前身である易風会の会合を開いたところである。

 赤城神社には『赤城出世稲荷神社・八耳神社・葵神社』、『螢雪天神』、『狛犬』があります。

 


 昔の赤城神社

 

 当神社は後伏見天皇の正安2年(1300年)に群馬県赤城山麓大胡の豪族、大胡氏が牛込に移住の際本國の鎮守であった赤城神社の御分霊を、牛込早稲田村田島(今の早稲田鶴巻町、元赤城神社の所在地)にお祀りし、寛正元年(1460年)に太田道灌が神威を尊び牛込台に遷し奉り、其の後、弘治元年(1555年)に至り大胡宮内少輔(牛込氏)の尊信特に深く現在の地に遷し奉ったものと伝えられております。

 < 境内末社 >
八耳神社
  <御祭神> 八耳大神
           (合殿) 大国主大神・丹生大神・菅原大神
出世稲荷神社
  <御祭神> 保食命
螢雪天神(旧北野神社)
  <御祭神> 菅原大神
葵神社

 < 付属社 >
元赤城神社 (新宿区早稲田鶴巻町568) 
  <御祭神> 岩筒雄命
天祖神社 (新宿区早稲田鶴巻町530) 
  <御祭神> 天照大神
稲荷神社 (新宿区榎町56)
  <御祭神> 倉稲魂命
北野神社(天神様) (新宿区天神町75-13)
  <御祭神> 菅原道真公
秋葉神社 (新宿区矢来町1)
  <御祭神> 迦具土神

 昔の赤城神社境内には『螢雪天神(旧北野神社)』、『東宮殿下碑』、『大山巌碑』、『出世稲荷神社』がありました。

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  平成22年(2010)9月に新社殿が竣工しました。

所在地 新宿区赤城元町1-10 (赤城神社)

  赤城出世稲荷神社
 ご祭神  宇迦御霊命 保食命
創記は詳らかではありませんが、赤城神社が当地にお遷るする以前(弘治元年〔1555〕)から地主の神と尊ばれ鎮座。出世開運のご利益があるとして大名・公家の崇敬を受けておりました。
また穀物・食物を司る神様として、五穀豊穣、衣食住、商工業繁栄のご神徳を備えておいでです。現在は神楽坂商店街などの商売繁盛と近隣サラリーマンの崇敬を集めております。戦前まで5月5日の例祭日にはお神楽が奉納されていました。

  八耳神社
 ご祭神  上宮之厩戸豊聰八耳命(別称・聖徳太子)
戦火で焼失した昔の「太子堂」です。この八耳様は「あらゆる事を聞き分ける天の耳」を持つ聖徳太子であり、聡明な知恵を授かることができます。なにか悩み事のある時は「八耳様・八耳様・八耳様」と3回唱えてからお参りすると、自ずと良い考えが浮かぶと伝えられる。また耳の神様として広く信仰を集め、耳の病気や煩いを治してくれるとして、全国各地から参拝に訪れている。合殿に大国主大神、丹生大神、を祀ります。

  葵神社
 ご祭神  徳川初代将軍徳川家康公
牛込西五軒町の天台宗宝蔵院に鎮座していたが、明治元年、神仏混合を廃止された際に當境内へ遷座。徳川初代将軍として江戸時代の政治、文化の礎を築き、近代日本の発展に多大な貢献をされました。かつては江戸市民の家康公への振興の対象でしたが、現在は神楽坂の「東照宮」として親しまれ、学問と産業の祈願成就を願って、参拝する方に心の安らぎを与えてくれます。


 昔の赤城出世稲荷神社

 当社は宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)をお祀りしてあります。一般にお稲荷さんと言われ、福徳開運の威をそなえた衣食住の守護神であります。
 創祀の年代は詳らかではありませんが、伝説によりますと、赤城神社が当地にお遷りする<弘治元年(1555年)>以前から当地に鎮座されて地主の神と尊ばれていたと伝えられ、もとは毎月5日が縁日で5月5日の例祭日にはお神楽が奉納されていたということです。
 昭和20年(1945年)4月戦災により全焼以来仮のお社にお祀りしてありましたが、昭和37年(1962年)10月信仰篤き有志の方々の御盡力により現在の社殿が造営されました。



所在地 新宿区赤城元町1-10 (赤城神社)

 螢雪天神 本宮は平成22年(2010)9月に新社殿が竣工しました。
 

 ご祭神  菅原道真公
古来より天神様として広く民衆に崇め奉られております。
ご祭神は『学問の神様』菅原道真公を祀ります。この神社はかつて横寺町に鎮座し朝日天満宮と称されておりました。江戸二十五社の一つに列しておりましたが、その後信徒なき為、明治9年(1876)3月當境内にご遷座。
その後、戦災により焼失したものを、平成17年(2005)10月現在横寺町にある旺文社の御寄進により『螢雪天神』として復興しました。
社名額には社長赤尾文夫奉納の銘がある。『螢雪』とは中国の故事で、苦労して勉学に励む事を意味します。全国の受験生の皆さん、螢雪天神はそんな皆さんを応援しています。


 昔の螢雪天神

 江戸中期、学問の神として崇められている菅原道真公を祀り、横寺町に鎮座して北野神社又は朝日天満宮と称されていたが、氏子、信徒なく、明治9年(1876年)3月当境内に遷座。
 
その後、戦災により焼失したものを、平成17年(2005年)10月、現在横寺町にある、旺文社の御寄付により、全国の受験生への合格祈願の守護神『螢雪天神(けいせつてんじん)』として復興したものである。

 <現在の赤城神社には見当たりません。>

所在地 新宿区赤城元町1-10 (赤城神社)

< 昭 忠 碑 >

元師陸軍大將大勲位功二級侯爵大山巖篆額

于磋是明治甲辰匸巳■■陣■之碑乎■■也振古■未曽有而死者■不少無死者生者者何以■■功是故  朝廷■■祀之史官書■詩人詠■畫家像■市童邨婆■皆榮羨欽慕況生同■ ■死■遺族者何曽志之是東京牛籠區■■以連■碑顯其忠節也本區■既■兵事奨励會送迎将卒出入救恤家属窮乏護傷病■尸骨遂及■■郷黨相助之誼莫不畫■■以窺全國一心敵王愾奏大功之一斑■■内戦亡病■將校十九人下士七人卒四十八人勒其姓名■背属余書其由■碑面且作銘曰

忠魂■魄 曷来曷■ 故郷有侍 榮之敬之 一片碑碣 維君錦衣  

  明治三十九年■在丙午八月

     東宮侍講■四位勲三等文學博士三島毅撰

     ■五位日下部東作書

 

                           井■泉刻

 <現在の赤城神社には見当たりません。>

所在地 新宿区赤城元町1-10 (赤城神社)

  〔碑文〕

大正十年三月  東宮殿下御渡歐は前古来曾有乃盛事にして之小因りて愈國交■親善を進■益“國威の發揚■見るす至れり”  殿下乃英風髙徳■實に内外人の齋しく膽仰し奉る所な■茲■於て一■■永遠に此乃盛事を記念し一■に敬神■誠意を表顯せん■た■當時氏子各町總代及氏子総代等熟慮協議し社前小壮麗■る石燈籠壹對を建立さんこと誠企圖せし  小幸に熱誠なる諸彦乃賛襄■得奉納金額豫算■超過せしを以て別に拝殿向拝■青銅製吊燈籠壹個■新調し幣殿内部を修飾し且側面參道に石階を改築し尚其剩餘■之■基本財産■繰入るるこ■は協定■■惟ふ小此乃成蹟を見■■得■る■全■神徳に深厚と諸産乃熱誠とに因る■乃な■を以て金拾■以上奉納者の芳名を此乃碑面小勒し叺て不朽に傳布と云爾
    大正十一年九月十六日
         社司  從七位朝賀喜一識

所在地 新宿区神楽坂6-2

天台宗
 医光山 長寿院 安養寺

江戸三十三観音16番札所
山の手三十三観音霊場10番札所

大沸薬師如来(厄除・除病)

大聖歓喜天(開運・繁昌)

所在地 東京都新宿区神楽坂5-36

日蓮宗
 鎮護山 善國寺(善国寺)

山手七福神 毘沙門天



 善国寺は、文禄4年(1595)徳川家康により創建された。
 日蓮宗。本尊の毘沙門天像は、新宿区指定文化財となっている。明治時代、毘沙門天の縁日が東京中から参詣客をあつめ、大変にぎわった。東京で縁日に夜店が出るようになった。東京で縁日に夜店が出るようになったのは、ここが最初であったという。

善國寺の毘沙門天』があります。

 所在地 東京都新宿区神楽坂5-36 (善國寺)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
 新宿山の手七福神

  毘沙門天 
     昭和60年(1985年)7月5日指定

 「神楽坂の毘沙門天さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。
 木彫で像高30cm、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は宝町時代頃かと推されるが、作者とともに詳しくは不明である。
 
善国寺は、文禄4年(1595年)徳川家康により創建された。この像は、初代住職である日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白白昭実公より贈られたと伝えられる。
 
毘沙門天は、またの名を多聞天と称し、増長天・持国天・広目天と共に天の四方を守護する四天王の一つであり、北方を守るとされる。
 
善国寺の毘沙門天は江戸の三毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、特に明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。
  平成3年(1991年)1月 新宿区教育委員会

所在地 東京都新宿区神楽坂

 神楽坂かぐらざか



 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。
  平成14年(2002)3月 新宿区教育委員会



      歌川広重 天保11年(1840)頃 坂上から江戸城 牛込御門を臨む

所在地 新宿区揚場町・神楽坂2

  軽子坂かるこざか
 この坂名は新編江戸志や新撰東京名所図会などにもみられる。
 軽子とは軽籠持の略称である。今の飯田濠にかつて船着場があり、船荷を軽籠(縄で編んだもっこ)に入れ江戸市中に運搬することを職業とした人がこの辺りに多く住んでいたことからその名がつけられた。
  平成15年(2003)3月 新宿区教育委員会

所在地 新宿区築土八幡町2-1

 昔、嵯峨天皇の御代(今から約1200年前)に武蔵国豊嶋郡(こおり)牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現れたもうたことを知り、すぐに注連縄(しめなわ)をゆいまわして、その松を祀った。
 
その後、伝教大師(でんきょうだいし)がこの地を訪れた時、この由を聞いて、神像を彫刻して祠に祀った。その時に筑紫の宇佐の宮土をもとめて礎としたので、筑土八幡神社と名づけた。
 
さらにその後、文政年間(今から約500年前)に江戸の開拓にあたった上杉朝興が社壇を修飾して、この地を産土(うぶすな)神とし、また江戸鎮護の神と仰いだ。

 現在、境内地は約2200㎡あり、昭和20年(1945年)の戦災で焼失した社殿も、昭和38年(1963年)氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、築土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽可視・神楽坂4丁目・神楽坂5丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。

御祭神  応神天皇
       神功皇后
       仲哀天皇

大祭   9月15日


                                   江戸名所図会より

 江戸時代には築土八幡宮といった。築土の名は、築き立てた地の意味とか、筑紫宇佐八幡宮の土をとりよせたことに由来するという。
 境内には『石造鳥居』、『庚申塔』、『宮比神社』があり、また童謡「金太郎」などの作曲家『田村虎藏先生顕彰碑』があります。

所在地 新宿区築土八幡町2-1 (築土八幡神社)

 田村先生(1873~1943)は鳥取県に生まれ東京音楽学校卒業後高師付属に奉職言文一致の唱歌創始し多くの名曲を残され、また東京市視学として日本の音楽教育にも貢献されました。
  
1965年 田村先生顕彰委員会

所在地 新宿区築土八幡町2-1 (築土八幡神社)

新宿区登録有形文化財(建造物) 
 築土八幡神社の石造鳥居
     平成9年(1997年)3月7日指定

 石造の明神型鳥居(みょうじんがたとりい)で、享保11年(1726年)に建立された区内で現存最古の鳥居である。高さ375cm、幅470cm、柱径35cm。
 
柱に奉納者名と奉納年が刻まれており、それにより常陸下館藩主黒田豊前守(ぶぜんのかみ)直邦により奉納されたことがわかる。
  
平成9年(1997年)5月 新宿区教育委員会

所在地 新宿区築土八幡町2-1 (築土八幡神社)

新宿区指定有形民俗文化財 
 築土八幡神社の庚申塔
     平成9年(1997年)3月7日指定

 寛文4年(1664年)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ186cm。最上部に日月、中央部には一対の雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
 二猿に桃を配した構図は全国的にも極めて珍しく、大変貴重である。
  
平成9年(1997年)5月 新宿区教育委員会

所在地 新宿区築土八幡町2-1 (築土八幡神社)

 御祭神は宮比神(みやびのかみ)で大宮売命(おおみやのめのみこと)・天鈿女命(あめのうずめのみこと)ともいわれる。古くから下宮比町一番地の旗本屋敷にあったもので、明治40年(1965年)に現在地に遷座した。現在の社殿は戦災で焼失したものを飯田橋自治会が昭和37年(1962年)に再建したものである。

所在地 新宿区四谷1丁目~千代田区

     (橋下 JR中央線)

 四谷見附は、山口藩毛利秀就が普請を命じられ、寛永16年(1639年)完成した。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にあったが、明治5年(1872年)に撤去され、現在は石垣がのこるだけである。

 当時の四谷見附は、現在の新宿区設四谷小売市場前の橋(当時は土橋)から城門を経て出入りする構造で、現在の四谷見附橋は無かった。従って、新宿方面からの甲州街道は、外堀に突き当たり左折し、すぐ右折して土橋を渡って江戸城郭に入る。

 明治以降、このような喰い違い構造が交通に障害となったため、明治44年(1911年)四谷見附橋建設が着工され、大正2年(1913年)に完成した。現在の橋は、平成3年(1991年)に架け替えたものである。

 



所在地 新宿区天神町・矢来町・東榎町

 江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『砂子の残月(すなごのざんげつ)』)。坂名の由来はさだかではないが、おそらく近辺に地蔵尊があったものと思われる。

 平成3年(1991)9月 東京都新宿区教育委員会



所在地 新宿区山吹町

 江戸時代、坂の東側に旗本渡辺源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は500石取りの御書院番で、寛文7年(1667)に市谷鷹匠町の屋敷と引換えに、この屋敷を拝領し、渡辺家は幕末までこの地にあった。

 平成13年(2001)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区榎町57





 お化け銀杏といわれた大銀杏があった丸島家は元、九千石の本多家屋敷後で、空襲で庭の三重の塔が真二つにわれ、中から三面に二体づつ刻れた六地蔵様が出て来ました。
 六地蔵様も世に出たいのでしょうと考え、当山にお預かりしていただきました。
 修行された六地蔵様は当山有縁之方の夢枕に立たれたといふことで現在のように一体づつの立派な御姿になりました。合掌

 南無妙法蓮華経  神楽坂  丸島家



所在地 新宿区市谷薬王寺町69

  銀杏坂いちょうざか
 この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(『御府内備考』)。
 平成21年(2009)12月 新宿区

 


所在地 新宿区市谷柳町・新宿区弁天町

  宝竜寺坂ほうりゅうじざか

 
昔、この辺りは七軒寺町という寺町で、この坂の上に宝竜寺という寺があったためこう呼ばれた。
 また明治頃、寺の樹木が繁り淋しい坂であり、幽霊が出るといわれたため幽霊坂とも呼ばれた。
 平成16年(2004)2月 新宿区教育委員会

 


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