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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区西早稲田1-6-1 (早稲田大学) 

早稲田大学創立七十周年記念の学生歌として多くの応募作品の中から選ばれたのが、この「早稲田の栄光」である。「早稲田の栄光」は早大生に連綿と歌い継がれ、「校歌」・「紺碧の空」とともに最も愛される学生歌となった。全ての早大生の琴線に触れる、名曲中の名曲である。創立百二十五周年 第二の建学を迎えたこの佳き年に「早稲田の栄光」歌碑を建立することとした。
  二千七年十月二十一日
     早稲田大学
     第十五代総長 白井克彦
     作詞 岩崎巌
     補助作詞 西條八十
     作曲 芥川他寸志
 

 早稲田の栄光

栄光はみどりの風に
花開く若き日の歌
重ね来し歴史尊く
承け継ぎて輝く早稲田
早稲田 早稲田 我等の早稲田

ふり仰ぐ時計の塔に
青春の眸澄みて
雲と湧く文化の理想
担い立つ我等たくまし
早稲田 早稲田 我等の早稲田

昂然と高張る胸に
伝統の息吹通いて
翻えす校旗の紅に
感激の血潮は沸る
早稲田 早稲田 我等の早稲田

先哲の面影偲ぶ
なつかしき真理の杜を
彩るは七色の虹
とこしえに輝く早稲田
早稲田 早稲田 我等の早稲田


所在地 新宿区西早稲田1-6-1 (早稲田大学)

早稲田大学は学問の独立を全うし 学問の活用を効し
模範国民を造就するを以て建学の本旨と為す

早稲田大学は学問の独立を本旨と為すを以て
之が自由討究を主とし
常に独創の研鑽に力め以て
世界の学問に裨補せん事を期す

早稲田大学は学問の活用を本旨と為すを以て
学理を学理として研究すると共に
之を実際に応用するの道を講し以て
時世の進運に資せん事を期す

早稲田大学は模範国民の造就を本旨と為すを以て
個性を尊重し 身家を発達し 国家社会を利済し
併せて広く世界に活動す可き人格を養成せん事を期す



所在地 新宿区西早稲田1-6-1 (早稲田大学)

新宿区指定有形文化財(建造物)
 演劇博物館
     昭和62年(1987)3月12日指定




 正式には早稲田大学坪内博士記念演劇博物館という。
 昭和3年(1928)10月に坪内逍遥の古稀と「シェークスピヤ全集」の完訳を祝って学界・演劇界の有志1500名余の協賛により建設された。建築の意匠は逍遥の発案によりイギリスのエリザベス朝(16世紀後半)の様式で、シェイクスピア時代の劇場フォーチュン座を模して設計されている。
 鉄筋コンクリート造、地上3階、地下1階、建坪は約400平方メートルで、内部は逍遥記念室をはじめ8つの展示室、図書閲覧室がある。
 また、外部は実際にシェイクスピア劇が上演できるようになっており、館の正面は舞台、2階の廊下は上舞台、建物の両翼は桟敷、前庭は一般席となる。
 なお、正面舞台上に掲げてあるラテン語は「全世界は劇場なり」という意味で、シェイクスピア時代の劇場グローブ座に掲げてあった看板の句である。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区西早稲田1-6-1 (早稲田大学)

寄贈 稲門 杉原千畝 顕彰会
協力 駐日イスラエル大使館
    駐日ポーランド共和国大使館
    駐日リトアニア共和国大使館



外交官としてではなく 
  人間として当然の 正しい決断をした

              命のビザ発給者 杉原千


  杉原千畝 略歴
1900年(明治33年) 岐阜県加茂郡八百津町に生まれる
1918年(大正7年)   早稲田大学高等師範部英語科予科に入学
1919年(大正8年)   外務省留学生試験に合格
             早稲田大学を中退
1924年(大正13年) 外務省書記生として満州、ハルピン在勤
1932年(昭和7年)   満州国外交部特派員公署事務官に任命
1937年(昭和12年) フィンランドの在ヘルシンキ公使館勤務
1939年(昭和14年) リトアニアの在カナウス領事代理に任命
1940年(昭和15年) ユダヤ難民への日本通過ビザの大量発給を実施
1941年(昭和16年) ドイツ領の在ケーニヒスベルグ総領事館勤務
             ルーマニアの在ブカレスト公使館勤務
1945年(昭和20年) ブカレスト郊外のソ連ゲンチャ収容所へ連行
1947年(昭和22年) 帰国し外務省退官
1960年(昭和35年) 川上貿易モスクワ事務所代表として赴任
1965年(昭和40年) 国際交易モスクワ支店代表として赴任
1969年(昭和44年) イスラエル政府宗教大臣から勲章を受章
1975年(昭和50年) 国際交易を退社
1985年(昭和60年) イスラエル政府kら「諸国民の中の正義の人賞」
             (ヤド・バシェム賞)を受賞
1986年(昭和61年) 鎌倉にて逝去(享年86歳)



所在地 新宿区西早稲田1-6-1 (早稲田大学)

設計者 今井兼次・桐山均一・内藤多仲
建築年 大正14年(1925)



 平成3年(1991)まで大学図書館として使用された。設計者今井兼次は、建築様式について”質実、豪放、端正なる現代の様式に東洋の印象を加味したもの”とした。
 建物は本館と書庫からなり、本館は玄関大広間ならびに大階段室、大閲覧室の空間構成がとられている。玄関大広間の柱東武は植物の形態をデフォルメしたもので、石膏製の彫刻である。表現主義の影響を受けたユニークな造形となっている。
 東京都  



所在地 新宿区西早稲田1-6-1 (早稲田大学)

 早稲田大学校歌

都の西北 早稲田の森に
聳ゆる甍は われらが母校

われらが日ごろの 抱負を知るや
進取の精神 学の独立

現世を忘れぬ 久遠の理想
かがやくわれらが 行手を見よや

東西古今の 文化のうしほ
一つに渦巻く 大島国の

大なる使命を 担ひて立てる
われらが行手は 窮り知らず

やがても久遠の 理想の影は
あまねく天下に 輝き布かん

あれ見よかしこの 常磐の森は
心のふるさと われらが母校

集り散じて 人は変れど
仰ぐは同じき 理想の光

いざ声そろへて 空もとどろに
われらが母校の 名をばたたへん


わせだ わせだ わせだ わせだ
わせだ わせだ わせだ

相馬御風



所在地 新宿区西早稲田1-6-1 (早稲田大学)

重要文化財(建造物)
 早稲田大学大隈記念講堂   
     平成19年(2007)12月4日指定



早稲田大学大隈記念講堂は、創立者である大隈重信に対する記念事業として計画され、同大建築学科の佐藤功一教授と佐藤武夫助教授が設計し、同教授の内藤多仲が構造を担当し、昭和2年(1927)10月15日に竣工した。
早稲田大学大隈記念講堂は、早稲田大学のシンボル的存在であり、ロマネスク様式を基調としてゴシック様式を加味した我が国近代の折衷主義建築の優品として、高い評価がある。
また早稲田大学建築学科で永く教鞭をとり、多くの建築家を育てた佐藤功一の代表作としても重要である。
 設計者 佐藤功一・佐藤武夫
 建築年 昭和2年(1927)
 指定年 平成19年(2007)



所在地 新宿区西早稲田1-6-1 (早稲田大学)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
 大隈重信銅像
     昭和62年(1987)3月12日指定



 早稲田大学の前身東京専門学校の創立者で、早稲田大学の初代総長をつとめた大隈重信(1838~1922)の銅像である。
 早稲田大学創立50周年を記念して、昭和7年(1932)10月に完成したもので、鋳造・彫塑は朝倉文夫(1883~1964)の作、桜花崗岩製の台石は桐山均一の手になるものである。
 像高は2.89メートル、台石の高さは2.12メートルで、角帽にガウンを着た早稲田大学総長の姿をした、晩年の大隈重信を見事に表現している。
 なお、朝倉は都合3回(芝公園・大正5年〔1916〕、国会議事堂内中央広場・昭和13年〔1938〕)大隈重信像を製作しており、この早稲田大学の像は、2回目にあたるものである。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会












所在地 新宿区西早稲田1-6-1 (早稲田大学)



                   百年記念 中華民國 台湾 同学会 敬贈




所在地 新宿区西早稲田1-6-1 (早稲田大学)

台座上の坪内逍遥胸像は、彫刻家、長谷川栄作氏の願望により昭和37年(1962)に鋳造されてもので、逍遥の「シェイクスピア」講義の姿である。
また、台座は、早稲田大学後援会事業資金、池田恒雄氏、近桂一郎氏の協力により演劇博物館創立70周年記念に建立され、歌碑の内容は逍遥を偲んだ会津八一の自筆の和歌である。



 むかしひと
  こゑも
 ほからに
  たくうちて
 とかしし
  於もわ
 みえ
  きたる
   かも
 秋神道人



所在地 新宿区喜久井町1

新宿区指定史跡
 夏目漱石誕生の地
     昭和61年(1986)10月3日指定



 文豪夏目漱石(1867~1916)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。
 夏目家は、牛込馬場下横町周辺の十一ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。
 僧籍は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のとき夏目家に復籍している。
 なお、この地での幼少時代のことは大正4年(1915)に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳述されている。
 また、この記念碑は昭和41年(1966)に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区喜久井町

  夏目坂
 夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正4年〔1915〕)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。
 平成14年(2002)3月 新宿区教育委員会



所在地 新宿区戸山3-20-1

重要文化財

 学習院旧正門
     昭和48年(1973)6月2日指定



 この鋳鉄製の門は、はじめ明治10年(1877)に学習院が神田錦町に開かれた時、正門として建てられた。
 製作は埼玉県川口市の鋳物工場で、唐草文様をあしらった和洋折衷の鉄門は、明治初期の文明開化時の様式と技術を伝える貴重な文化財である。
 神田錦町の学習院校舎が明治19年(1886)焼失したあと、この門は各所を転々としたが、昭和5年(1930)目白の本院構内にもどり、その後昭和25年(1950)にこの地に移され、現在、学習院女子大学・学習院女子高等科・学習院女子中等科の正門として使用されている。
 平成16年(2004)4月 学校法人学習院



所在地 新宿区高田馬場1-12-6

  諏訪神社




 諏訪神社境内には『明治天皇射的砲術天覧所阯』、『塞神三柱の塔』、『神輿庫』があります。


                    (写真左)稲荷神社 (写真中)摂末社 (写真右)庚申塔


所在地 新宿区高田馬場1-12-6 (諏訪神社)

新宿区登録有形民俗文化財
 塞神三柱の塔
     平成5年(1993)3月5日指定



 天和2年(1682)に造立された舟形の石塔で、中央に「塞神三柱」、その右側に「諏訪上下大明神」および「正八幡大菩薩」、また左側には「天(以下欠損のため不明)」および「稲荷大明神」と刻まれている。
 また、その上方には右に月形、左に日形が彫られている。
 塞神は、村の境や峠に祀られる、境界を守護する神とされ、石塔としては江戸時代に南関東地方を中心に盛んに造立された。
 諏訪神社の塞神塔は区内で唯一のもので、また、「塞神三柱」の文字が刻まれた例は少なく、大変貴重である。
 平成6年(1994)6月 東京都新宿区教育委員会



所在地 新宿区高田馬場1-12-6 (諏訪神社)

    校倉造り 神輿庫
校倉とは奈良時代に神社佛閣が宝蔵として盛んに作った純日本的高床式の倉庫です。
現存する有名なものに正倉院があり、二月堂、手向山八幡、唐招提寺などの校倉も現存しています。
然しこれらの校倉はすべて木造で、これをコンクリートで作ることは、技術的にも様式的にもむずかしく、知る限りではまだ一棟も完全なものがありません。
当社では今回数少ない専門的技術人を得て、ここにコンクリートによる完全な校倉造りの大神輿の倉庫を建造しました。
大変珍しく、貴重な建物ですから大切に保存して下さい。
 昭和52年(1977)6月25日 諏訪神社


所在地 新宿区高田馬場1-12-6 (諏訪神社)

 明治15年(1882)、諏訪の森近衛射的場が神社前に出来ました時、明治天皇の行幸があり、当社境内よりその射撃遠州を御覧になられました。その折、畏くも天皇より神酒、鴨を賜り、氏子の歓喜、感激は大変なものでした。その後、御社伝の屋根には菊の御紋を付ける様になり、又射的場にみえられる各宮殿下には、皆当社の社務所に御休息遊ばされました。
只今拝殿に掲げてある神号額も小松宮彰仁親王殿下の御真筆であります。昭和18年(1943)には当天覧所址は東京都より行幸史跡に指定されました。




   聖蹟
 明治天皇射的砲術天覧所趾
明治十五年十一月九日近衛射的場開場式ニ臨御同十五年十一月二十九日射的砲術ヲ天覧アラセラレタ所ナリ
 昭和十八年十二月 東京都



所在地 新宿区高田馬場1-12-10

真言宗豊山派
 龍池山 上珠院 玄国寺(玄國寺)
 
  豊島八十八ヶ所霊場 第七十二番



 
本尊 阿弥陀如来(三弁火焔の阿弥陀)
    勢至菩薩・十一面観音・大聖不動明王
開基 真雅僧正・承和年中(834~847)
    中興、慶長6年(1601)の伝
総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
祖師 宗祖 弘法大師(空海)
    中興祖 興教大師(覚鑁)
    派祖 専誉僧正
開宗 平安時代初期に弘法大師が中国にわたり、恵果阿闇梨より密教の奥儀を授けられ、わが国に真言宗を開宗されました。
ご宝号 南無大師遍照金剛・南無興教大師・南無専誉僧正 
文化財 岩倉具視邸(現書院)
     土屋地蔵尊(田植地蔵)
     庚申塔(江戸時代)
     宮瀬龍門の墓碑



古くは中野宝仙寺の末寺であったが、元禄9年(1696)音羽護国寺の末寺となる。
龍池山と号すること古くは大寺にて境内広く南方の尾陽公池あるが故に龍池山と号す。
草創は承和年中(834~847)真雅僧正再営の説あり。慶長6年(1601)頃現在地に創建され、延宝年中、法印盛源中興し、世々諏訪神社の別当を兼ねていた。
本尊は「三弁火焔の阿弥陀如来」、座像にて三尺余、行基菩薩の作、別に名付けて「こころみの阿弥陀」とも称す。
武蔵新風土記に「寺宝に玉一顆あり。安産與楽の玉と称す。北條遠江守時政の子相模守義時の妻難産のおり江ノ島弁財天に参籠して感得し、その加護によって安産あり。また、その玉、密々に御本丸に用としてしばしば奉る。縁ありて当寺に寄附される。」
境内墓地に隣接して「土屋地蔵尊」あり。源兵エ村土屋薩摩守氏(旗本2700石)下屋敷の井戸より出現した石像で別名「田植え地蔵尊」とも言う。種々の願いを叶え、霊験あらたかなる故に堂宇を建立す。
「江戸名所図会」(天保年間に刊行)によれば、このあたり諏訪谷村と呼ばれ、諏訪神社並びに別当玄国寺ありてその境内には、鐘楼堂・地蔵堂・聖天堂・弁天堂などがあった。
この度、当山檀信徒
 池田輝子殿 池田雅太郎殿 池田實殿
池田家先祖代々総供養並びに池田家先祖への報恩感謝の為に発願して、総欅造「山門」・「六角弁天堂」・「鐘楼堂」を新建立し、往古のごとく復興し当山に寄進せらる。
ここに篤信の大施主としてその名を石碑に刻み、永久にその功績を称え顕彰します。
 平成22年(2010)7月吉日
 龍池山上珠院玄国寺 第二十七世 真行 代



所在地 新宿区高田馬場1-12-10 (玄国寺)

  土屋地蔵尊(田植地蔵)

 土屋地蔵尊は、源兵エ村土屋薩摩守氏(旗本2700石)下屋敷の井戸より出現した石像で、別名「田植え地蔵尊」とも言う。


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