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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区富久町9・四谷4-34

 茗荷坂みょうがざか



この辺りは、市谷の饅頭谷から西南に続く谷で茗荷谷と呼ばれ、茗荷畑があったという(『江府名勝志』)。坂名はそれらにちなんだのであろう。
 平成24年(2012)1月 新宿区
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所在地 新宿区富久町

  安保坂あぼざか



 この道路は、昭和19年(2007)7月に都道と認定されたもので、坂名がついたのもきわめて新しい。その時の東京都告示には「牛込区市ヶ谷富久町及四谷区四谷4丁目、花園町地内に於て(中略)市道の路線を認定し之が区域を決定し其の供用を開始す」とある。
 坂名の安保は、この地に男爵安保清種海軍大将が住んでいたことに由来する。
 昭和59年(1984)3月 東京都


所在地 新宿区富久町

 禿坂かむろざか

 坂名の由来はさだかではないが、金吾堂版の『江戸切絵図』(「大久保戸山高田辺之図」)には『里俗カムロ坂』とあり、江戸時代後期には「かむろざか」と呼ばれていたことがうかがえる。
 平成20年(2008)3月 新宿区


所在地 新宿区富久町4-5

天台宗
 鎮護山 自證院



 日須上人を開山とし、尾張藩主徳川光友の夫人自證院を供養するため創建された。堂宇の用材として槍の節目が多いものを用いたため「ふし寺」、「瘤寺」と呼ばれたことがある。明治時代末期、小泉八雲がこの付近に住み、「瘤寺」とその周辺の様子を作品に残している。

  新宿区





 


所在地 新宿区富久町9-23

浄土真宗東本願寺派
 源慶寺



 


所在地 新宿区富久町2-12

真宗大谷派
 白鳥山 善慶寺



 善慶寺には『平秩東作墓』、『梵鐘』があります。

 


所在地 新宿区富久町2-12 (善慶寺)

新宿区指定史跡
 平秩東作墓へづつとうさく
     平成2年(1990)6月1日指定



 新宿で生れ育った江戸時代中期の狂歌師平秩東作は、本名を立松懐之、号を東蒙(のちに嘉穂)といい、享保11年(1726)内藤新宿に生れた。
 生家は馬宿であったが、享保20年(1735)10歳の時に父を失い、幼くして家業に携わり、元文4年(1739)には煙草屋を開業するなど苦労を重ねるが、既にこの頃から狂歌に親しんでいたという。
 宝暦12年(1762)頃より内山椿軒門下となり、ここで大田南畝と知りあい、以後狂歌や戯文学の興隆に尽力した。
 寛政元年(1789)享年64歳で没した。
 この墓は、東作が両親のために建立したもので、裏面の墓碑銘は東作の撰によるもんである。墓石は高さ98センチである。
 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区富久町2-12 (善慶寺)

新宿区登録有形文化財(工芸品)
 善慶寺の梵鐘
     平成18年(2006)3月7日登録

 善慶寺第五世沙門貞祐・貞岳の発願により、元文4年(1739)に鋳造された銅造の梵鐘。総高125.3センチで、江戸鋳物師大田近江大掾藤原正次の作である。
 江戸鋳物師の梵鐘鋳造減少期における作品で、江戸鋳物師の作風・鋳造技術を知ることができる。また、銘文から当寺の住持等を知ることができ、史料的価値も高い。
 太平洋戦争中の供出により区内の江戸時代の梵鐘は残存数が少なく貴重である。
 平成18年(2006)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区富久町7-30

 小泉八雲旧居跡
 ギリシアのレフカダ島に生まれ、数多くの作品により日本の姿を欧米に紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850~1904)が明治29年(1996)8月、東京帝国大学文学部の講師として招かれ上京し、9月より東京で初めて居を構えた地である。
 彼の作品『異国情趣と回顧』にみられる様に、隣接する自証院(通称・瘤寺)の風致をこよなく愛し、縁深い境内を散歩などしていたが、開発により自然が失われていくのに心を痛め、明治35年(1902)3月、5年間住みなれたこの地から、武蔵野の面影がまだ残る豊多摩郡大久保村大字西大久保(現・大久保1丁目)に居を移した。
 「小泉八雲菖居跡」の碑は、小泉八雲生誕百年を記念して昭和25年(1950)に有志の手により建立されたものであり、英文はエドモンド・ブランデンの撰による。
 平成5年(1993)1月 東京都新宿区教育委員会







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