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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区北新宿1・2

  蜀江坂しょっこうざか
 かつてこの辺りが蜀江山と称されていたためこう呼ばれる。蜀江山の由来は、天慶の乱の時平将門(あるいは弟の将頼)が蜀江錦の衣の袖を落としたから、あるいは江戸時代に3代将軍家光が鷹狩りでこの地を訪れた時、紅葉の美しさを蜀江の錦のようだと賞賛したからだという。
 平成13年(2001)3月 新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区北新宿3-16-18

 鎧神社
 祭神
日本武命 大己貴命 少彦名命 平将門公
 縁起、氏子地
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として火帯との尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事より社名起ると伝えている。天慶3年(940)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(947)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという。別説によれば将門郡残党を追って此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円照寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病い悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。氏子地は北新宿全域と西新宿一部
 平成3年(1991)11月吉日 宮司 新井義也 記











  江戸時代までh鎧大明神と称し、柏木村の古社といて村人の尊崇をうけてきた。平将門の陣営跡ともいわれ、狛犬型庚申塔は区指定文化財となっている。社内には保育園が建てられ、幼児の明るい声にみちあふれている。

 鎧神社摂末社の天神社には『狛犬型庚申塔』があります。


所在地 新宿区北新宿3-16-18 (鎧神社 天神社)

 狛犬型庚申塔
 素朴な一対の狛犬を用いた庚申塔で、台座正面に「庚申奉造立供養」。側面には武州豊島郡柏木村在住の講中の氏名と享保六辛丑天11月(1721)の紀年銘が記されている。
 向って右側が阿形像(雄)、左側が叫形像(雌)で、当時の姿をほぼそのまま残している。
 狛犬型の庚申塔は珍しく民俗学的にも貴重なものである。
 平成4年(1992)8月 東京都新宿区教育委員会










所在地 新宿区北新宿3-23-2

真言宗豊山派
 医光山 瑠璃光院 円照寺(圓照寺



本尊 薬師如来像

豊島八十八ヶ所霊場8番

伝説 柏木右衛門桜ゆかりの地



真言宗豊山派の寺院で、医光山瑠璃光院円照寺という。もと鎧神社の別当寺であったといわれる。
縁起については定かではないが、「江戸名所図会」などによれば、次のような経緯を経て藤原秀郷によって建てられたという。
醍醐天皇の時代に、理源大師の弟子の貞崇僧都が現在の円照寺のあたりに、薬師如来像を安置した。承平5年(935)から天慶2年(939)にかけて平将門が関東に勢力をもつようになった。天慶3年(940)、藤原秀郷が将門を討伐するため軍勢を率いて出陣したが、中野のあたりで病に伏してしまった。あいにくと軍中に適当な薬もなくこまっていたが、その夜の霊示に従ってこの薬師如来像に祈ったところ、苦痛はたちまちのうちになくなったばかりでなく、あわせて行なった将門討伐の祈願も無事に達成された。喜んだ秀郷は、凱旋の後に堂塔を建立し、円照寺としたという。
また一説では、旧地頭の柏木右衛門佐頼秀の館跡であったとも伝えられており、境内にその由来にもとづく右衛門桜が植えられており、名木として有名だった(現在の木は三代目)。
 堂宇はその後何回か焼亡し、修覆をくり返した。寛永18年(1641)には春日局が施主となり再建されている。第二次大戦の戦災でも被害を受け、近年になり堂塔が新築された。
  新宿区



 閻魔堂





 


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