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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区歌舞伎町1-13



    弁財天の縁起と歌舞伎弁天の由来

弁天様は佛教以前に賢者聖人の信仰厚き 宇賀神と稱する天地創造乃紙のお一方で 佛教北姑祖は天部のとし佛教の守護神として崇がめられた尊神である 宇賀神はもと渓流水源等水を司る神で妙音寺と云われ又美音天とも稱せられた文化神で 信仰すれば智恵が授かり芸術に長ずるところから 弁財天と云われ更に賽銭が授かる霊験のある処から 才の字が財北字に替り守財天と云われるようになった而して天部の神が垂れ賜う博愛を 美麗なる弁天のお姿で表現せられ信者は 弁天様乃愛稱で合掌する福の神様である



歌舞伎町は昔大村乃森と云われ広大な沼があって沼の邊りに 弁天様が祀られてあった 淀橋浮水場の建設に当り其の残土で沼は埋められ 峯島家で現在の場所に 弁天様は祀られ 大正2年(1913)堂宇の改築再建に当り不忍弁財天より現在安置乃 御本尊を勧請して9月巳巳の日に盛大な祭典が行われ爾来9月の巳の日を 歌舞伎弁天の祭日とせられた 大正12年(1923)に至り町内有志の発議により 峯島家 尾張屋銀行 町内篤志家乃浮財で大改装がせられたものであったが昭和20年(1945)4月の大空襲で本堂及びお守家も罹災した 其の時熱心な信者の一人岡安たか子氏は苛烈な空襲下に於て 弁天様の廚子を脊に奉戴し堂守の梅原氏が付添ひ笹塚に避難しアパートの一室に安置をした 間もなく岡安氏は 弁天様が峯島家に移り度いとの御告げがあったので梅原氏夫妻に詫び拕して峯島家にお移し申した 混乱した戦災時に於けるこの記録は信者の田中次郎吉氏に依って明らかにせられたものである 而して昭和21年(1946)復興協力會では全町戦災した歌舞伎町の計画建設に当り区画を整理せられた際 弁天だまの敷地は寸尺も変更せず以前のままを保存し復興協力会々長鈴木喜兵衛氏は街建設に魁がけて仮殿を建設し峯島家に安置せられてあった 御本尊をお移し申し現在に至ったものである この度 有志相寄り 弁天堂再建奉賛會を結成し大方の浮財を以て 永久不変の耐火構造に依り 御本尊を再建し 境内の改装を行ひ面目を一新して この霊験あらたかなる 歌舞伎弁財天を当町及び近隣の 守護神として永遠に崇め奉らんとする次第である

   昭和38年(1963)4月 歌舞伎町弁天堂再建奉賛會建立
                 奉賛會々長  藤森 作次郎
                 建設委員長  小松 太良八

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所在地 新宿区歌舞伎町2-17-5

 稲荷鬼王神社

新宿山ノ手七福神
 恵比寿神

宇賀能御魂命うがのみたまのみこと(新宿の厄除け稲荷)〔お稲荷様〕
 生成発展・商売繁昌・家内安全・子孫繁栄・福招きの神様

月夜見命つきよみのみこと〔鬼王様(全国一社福授け)〕
 人の運勢を司どりツキを与えてくれる神様

大物主命おおものぬしのみこと(別名「大黒天」とも呼ばれています)
 商売繁昌・心願成就・病気平癒・身体健全・縁結びの神様

天手力男命あまのたじからおのみこと
 開運 武運長久の神様



 「鬼」というと私達はとかく悪いイメージをもちがちですが、古来、「鬼」は神であり「力」の象徴でもありました。又、「鬼は悪魔を祓う」といわれ、すべての災禍を祓う力があります。その為、鬼を祀ったり、鬼の名のつく社寺は全国に幾つもあります。しかし、その「鬼」の王様という意になる「鬼王」という名のある社寺は全国で当社のみです。この為、江戸時代は近在の農家の人達だけでなく、江戸から武士や商人、職人と多くの人が参拝にまいりました。現在では地図でみる新宿の中央にある唯一の神社としても注目を集め、全国から当社の御神徳を得ようとする方々が詣られております。扠この全国一社福授けの稲荷鬼王神社の由緒は左記の通りです。
 古来より大久保村の聖地とされたこの地に承応2年(1653)、当所の氏神として稲荷神社が建てられました。宝暦2年(1752)紀州熊野より鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)を当地の百姓田中清右衛門が旅先での病気平癒への感謝から勧請し、天保2年(1831)稲荷神社と合祀し、稲荷鬼王神社となりました。それ故、当社の社紋は稲荷紋と巴紋の二つがあるのです。紀州熊野に於いて鬼王権現は現存せず、当社はそれ故、全国一社福授けの御名があります。この鬼王権現は、湿疹・腫物を初め諸病一切に豆腐を献納し、治るまで本人或いは代理の者が豆腐を断ち、当社で授与される「撫で守り」で患部を祈りつつ撫でれば必ず平癒するといわれ明治15年(1882)頃まで社前の豆腐商数件がこの豆腐のみにて日々の家計を営んでいたといわれたほどでした。今日でも広く信仰されています。この信仰について江戸時代の『新編武蔵風土記』だけでなく、時代は下って文豪、永井荷風も書き記しております。尚、当社では『鬼王様』の御名に因み、節分時鬼を春の神として『福は内、鬼は内』を唱えます。

  追記
 明治時代に旧大久保村に散在していた、火の神である火産霊神の祠や、盗難除けの神などの大久保村の土俗の神々が合祀されました。大祭は9月18日で、御輿はその前後の日曜・祝日に出御します。この宮御輿は鬼面の彫られた珍しいお御輿です。

  追記
 江戸時代に既に特異な『鬼王』という名の神社を勧請するのに地元に抵抗感が無かったのは、この土地がー文書では残っていませんがー平将門公(幼名・鬼王丸)に所縁があったのではないかとも言われています。



   境内特殊建造物・その他
 
 水盥台石(表鳥居左側) 
通称「力様」(リキサマ)。鬼形のこの水盥石は、相撲の力士が四股を踏んで病や苦しみを人に与える邪鬼を追い払ってる姿です。伝説は次の通り。『伝へ云う。この盥石もと加賀美某の庭内なる池汀にあり。文政3年(1820)の頃その処を更へした奇異を現わし、連夜庭内にて水浴の音を発す。加賀美某大に怪しみ一夜家宝の名刀を抜いて、これを斫れり。その後奇変熄みたるも家人病災頻りなるより、恐怖の念を生じ、天保4年(1833)、盥石斬りたる宝刀(鬼切丸と称す)と共に盥石を当社に寄進せりという。今も鬼形の肩辺に刀痕あり。賽者盥水をこれに注ぐと熱病又子供の夜泣き等は忽に平癒すると云い伝えられ、今に至るも信者頗多し。因に鬼切丸は翌天保5年(1834)盗み去られて今、その所在地を知らずとぞ。』
 
 稲荷鬼王神社霊泉
古来よりこの地にわくこの泉を、昭和3年(1928)につくられた井戸(水盥石の隣)は、現在もたえる事なく汲み上げています。

 泰平寺
江戸時代、神仏習合の時代に稲荷鬼王神社では当山脈修験青山風閣寺の末寺で、不動明王を祀る三宝山大乗院泰平寺というお寺があり、代々稲荷鬼王神社社家大久保家にて奉仕していましたが、明治の初め還俗して廃寺となりました。
  
 大久保家
当神社社家大久保家は新宿の有数の古い社家であり、昔大久保村といわれた地域の神社やお寺の多くは、大久保家が代々神職や別当職として奉仕していました。こお大久保村の「大久保」という字は、本来大きい窪地という意だったのが、当社家大久保家の名をとったという伝承があります。江戸時代、内藤家内藤新宿の領主)の信任も厚く、病気平癒等、祈祷を行なったと伝えられています。

 稲荷鬼王神社には『鬼王神社の水鉢』、『恵比寿神社(三島神社)』、『狛犬』、『浅間神社』、『天水琴』があります。


所在地 新宿区歌舞伎町2-17-5 (稲荷鬼王神社)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
 鬼王神社の水鉢
     昭和63年(1988)8月5日指定



 文政年間(1818~1829)の頃制作されたもおで、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式で、区内に存在する水鉢の中でも特筆すべきものである。
 水鉢の左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる伝説を記した石碑があり、これによると、
「この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている。・・・・・」とある。
 この水鉢は、高さ1メートル余、安山岩でできている。
 平成5年(1993)1月 東京都新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区歌舞伎町2-17-5 (稲荷鬼王神社)

 恵比寿神社(三島神社)

新宿山ノ手七福神
 恵比寿神



 毎年10月19日、20日は新宿ゑびす祭
昔より当社ではこの日に『べったら』をもとめると金運がつき、食べ物をもとめると福がお腹にたまり、鉢植えの花は福が根付くと言われています。
その為、両日正午より境内に『べったら店』が出店します。


 恵比寿神社の水琴窟



 この水琴窟は平成16年(2004)3月に第16代宮司に大久保直倫氏が就任し、これを祝い氏子が恵比寿神社参道にある、手水に水琴窟師  田村光氏に依頼し建設致しました。埋蔵されている甕は常滑焼です。(稲荷鬼王神社拝殿脇の天水琴の甕は石州甕です。)
 手水鉢の水を柄杓ですくい左下方の紐の巻かれた石を目印に少しずつお掛け下さい。地中から弦を弾く様なかすかな響きが聞こえてきます。滴が作り出す、可憐で、聴くたびに不規則に変化する余韻が耳の奥にしみこみ人の心を包み込みます。竹筒に耳を近づけて聴いてみて下さい。
 平成17年(2005)2月吉日


 かえる石



 恵比寿様をお参りしてから手水から柄杓で、『かえる石』に水を掛け、次に『かえる石』をさすいながら、心の中で次の言葉を三度唱えます。

一日の無事を願う人、或いは交通安全や
旅行安全を願う人は『無事かえる』
開運を願う人は『良き運にかえる』
金運を願う人は『金かえる』
縁結びを願う人は『想い人の心が自分にふるかえる』『待ち人かえる』
健康を願う人は『若がえる』
あらゆる願いを『かなえる』
その後もう一度、恵比寿様にお参りします。


所在地 新宿区歌舞伎町2-17-5 (稲荷鬼王神社)

  稲荷鬼王神社の狛犬
 明治35年(1902)につくられたこの狛犬は全国でも非常に珍しい型をしています。向かって右の阿像は、親子の情愛を表わしています。何より特色があるのは、向かって左の吽像で、子獅子がしっかりと玉を加えてつかまえています。その為、その玉を吽[うん]の獅子の玉という事から、運を与えてくれる玉といわれ、子獅子がしっかりと持っている事から、子孫に福徳を与える玉ともいわれています。


 


所在地 新宿区歌舞伎町2-17-5 (稲荷鬼王神社)

 稲荷鬼王神社の天水琴

水琴窟の由来は小堀遠州の考えた、つくばいの排水装置、洞水門と言われています。
後に江戸期の庭師が水琴窟の名で音を楽しむ事を兼ねた装置として各地に作りましたが、残念な事に時代と共に忘れられた存在となりました。当社では往時の雅をしのび、平成16年(2004)11月3日に水琴窟師 田村光氏により雨水を利用した水琴窟、天水琴を建設致しました。
大神様のおわします社殿の屋根からの雨水を大きな甕に溜め、少しずつ水琴窟に注いで、音を奏でる仕掛けになっています。
耳を澄ますと、地中から弦を弾く様な、かすかな響きが聴こえてきます。
滴が作りだす、可憐で、聴くたびに不規則に変化する余韻が耳の奥にしみこみ人の心をつつみこみます。
竹筒に耳を近づけて聴いてみて下さい。
尚、つくばいの水は雨水ですので飲めません。


所在地 新宿区歌舞伎町2-4

 島崎藤村旧居跡
 詩人・小説家の島崎藤村(1872~1943)は、馬籠(長野県)の生まれ。本名を春樹といった。明治学院を卒業後、明治26年(1893)『文学界』の創刊に参加。明治30年(1897)の『若葉集』にはじまる四詩集で詩人としての地位を確立した。
 明治38年(1905)4月29日、小諸義塾を退職した当村は家族とともに上京し、翌明治39年(1906)10月2日に浅草区新片町に転居するまでここに住んだ。ここは当時、東京府南豊島郡西大久保405番地にあたり、植木職坂本定吉の貸家に入居したのであった。(実際の場所はこの説明板の西側に建つ「ノア新宿ビル」のところ)。
 この頃から小説に転向した藤村は、ここで長篇社会小説『破戒』を完成し、作家として名声を不動のもんとした。
 しかし一方で、転居早々三女を亡くし、続いて次女・長女も病死するなど、藤村にとっては辛い日々をおくった場所でもあった。
 平成15年(2003)3月 新宿区教育委員会



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