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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区袋町6

  新暦調御用所跡(天文屋敷跡)
 当地は天正18年(1590)徳川家康が江戸城に入府する迄、上野国大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の一部であったと推定される。牛込氏の帰順によって城は廃城となり、取り壊されてしまった。正保2年(1645)居館跡(道路をへだてた隣接地)に神田にあった光照寺が移転してきた。
 その後、歌舞伎・講談で有名な町奴頭幡随院長兵衛が、この地で旗本奴党首の水野十郎左衛門に殺されたとの話も伝わるが定説はない。享保16年(1731)4月、目白山より牛込・麹町・虎の門まで焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として召上げられさら地となった。明和2年(1765)当時使われていた宝暦暦の不備を正すため、天文方の佐々木文次郎が司り、この火除地の一部に幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、明和6年(1769)に修正終了したが、天明2年(1765)近くの光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草鳥越に移転した。佐々木は功により、のちに幕府書物奉行となり、天明7年(1787)85歳で没す。墓は南麻布光林寺。以後天明年中は火除地にもどされ、寛政から慶応までの間、二~三軒の武家屋敷として住み続けられた。
 弘化年中には御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わることはなかった。近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、神楽坂街をひかえ繁栄していたという。昭和20年(1945)の大空襲により神楽坂一帯はすべて焼失し焼跡地となった。
 戦後は都所有地として高校グラウンドがあったが、昭和30年(1955)日本出版クラブ用地となり会館建設工事を進めるうち、地下三十尺で大きな横穴を発見、牛込城の遺跡・江戸城との関連などが話題となり、工事が一時中断した。昭和32年(1957)会館完成現在に至っている。
 平成19年(2007)1月 平木基治記(元文芸春秋)


                                    江戸時代の測量台
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所在地 新宿区袋町

 この坂の上に光照寺があり、そこに近江国(滋賀県)三井寺より移されたと伝えられる子安地蔵があった。それにちなんで地蔵坂と呼ばれた。また、藁を売る店があったため、別名「藁坂」とも呼ばれた。
 平成16年(2004)2月 新宿区教育委員会



所在地 新宿区袋町15

浄土宗
 樹王山 正覚院 光照寺こうしょうじ

 浄土宗、増上寺の末寺で正保2年(1645)に神田から移転した。この付近は、牛込氏の城跡(新宿区登録文化財)であったといわれ、また、旅先で死亡した人々のために造立した、諸国旅人供養碑(新宿区登録文化財)があります。
 境内には『諸国旅人供養碑』、『便々館湖鯉鮒の墓』、『鐘樓堂』、『木造地蔵菩薩坐像』、『木造十一面観音坐像』、『阿弥陀三尊来迎図』、『法然上人画像』があります。




新宿区登録史跡
 牛込城跡 
     昭和60年(1985)12月6日登録

 光照寺一帯は、戦国時代にこの地域の領主であった牛込氏の居城があったところである。
 塀や城門、城館など城内の構造については記録がなく、詳細は不明であるが、住居を主体とした館であったと推定される。
 牛込氏は、赤城山の麓上野国(群馬県)勢多郡大胡の領主大胡氏を祖とする。天文年間(1532~1555)に当主大胡重行が南関東に移り、北条氏の家臣となった。天文24年(1555)重行の子の勝行は、姓を牛込氏と改め、赤坂・桜田・日比谷付近も含め領有したが、天正18年(1590)北条氏滅亡後は徳川家康に従い、牛込城は取壊された。
 現在の光照寺は正保2年(1645)に神田から移転したものである。
 なお、光照寺境内には新宿区登録文化財「諸国旅人供養碑」「便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)の墓」などがある。
 平成7年(1995)8月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区袋町15 (光照寺)  

新宿区指定有形文化財(絵画)
 阿弥陀三尊来迎図あみださんぞんらいごうず
     平成10年(1998)2月6日指定

 絹本着色、木製の板に張り付けられた状態で、厨子に納められている。縦102.2センチ、横39.4センチ(画像寸法)。
 画面左上から右下に向かって、阿弥陀如来が観音・勢至の二菩薩を従えて来迎する(臨終の床についた者を極楽に迎えるため降りて来る)様子を描いたもので、14世紀後半(室町時代)の作品と推定される。


所在地 新宿区袋町15 (光照寺)

新宿区登録有形文化財(歴史資料)
 諸国旅人供養碑しょこくりょじんくようひ
  
昭和61年(1986)6月6日登録

 神田松永町の旅籠屋紀伊国屋主人利八が、旅籠屋での病死者の菩提をとむらうため、文政8年(1825)に建立した供養碑である。
 はじめは、文政2年(1819)から建立までの7年間に死亡した6名の名が刻まれ供養されたが、その後死亡者があるたびに追刻され、安政5年(1858)まで合計49名の俗名と生国が刻まれた。
 当時は旅先で客死する例が多く、これを示す資料として、また供養塔として貴重なものである。
 なお、当初は「紀伊国屋」と記した台座があったが、現在は失われている。
 平成7年(1995)8月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区袋町15 (光照寺)

 光照寺は、慶長8年(1603)浄土宗増上寺の末寺として神田元誓願寺町に起立、正保2年(1645)ここ牛込城跡に移転しました。徳川家康の叔父松平治良右衛門の開基になり、光照寺の名称は、開山の僧心蓮社清誉上人昌故光照の名に由来するものです。
 鐘樓堂は、明治元年(1868)神仏分離令の発布に伴って各地に起こった廃仏棄釈(仏法を廃し釈尊の教えを棄却すること)の難により取り壊されたと伝えられています。その後、60年の歳月を経て昭和12年(1937)に復興を見ましたが、昭和20年(1945)第二次大戦中に空襲を受け旧本堂と共に焼失しました。
 梵鐘(富樫むら殿寄進)は、戦時中供出されていたため戦災を免れ、戦後光照寺に返還されて永く境内に保存されていましたが、この度の鐘樓堂の新築により復元しました。
 平成5年(1993)1月 浄土宗光照寺


所在地 新宿区袋町15 (光照寺)

新宿区登録史跡
 便々館湖鯉鮒の墓
     
平成2年(1990)3月2日登録

 江戸時代中期の狂歌師便々館湖鯉鮒(べんべんかんこりう)は、本名を大久保平兵衛正武といい、寛延2年(1749)に生れた。
 幕臣で小笠原若狭守支配、禄高150俵、牛込山伏町に居住した。
 はじめ朱楽菅江門下で狂歌を学び、福隣堂巨立と名乗った。
 その後故あって唐衣橘州門下に変り、世に知られるようになった。
 大田南畝と親交があり、代表作「三度たく 米さへこはし やはらかし おもふままには ならぬ世の中」は、南畝の筆になる文政2年(1819)建立の狂歌碑が西新宿の常圓寺にあり、区指定文化財に指定されている。
 文化15年(1818)4月5日没した。享年70歳であった。
 墓石は、高さ152センチである。
 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会


 
所在地 新宿区袋町15 (光照寺)
 
新宿区指定有形文化財(絵画)
 法然上人画像
     平成10年(1998)2月6日指定

 絹本着色、掛軸装されている。縦89.5センチ、横1.3センチ(画像寸法)。
 常五週の宗祖法然上人の肖像で、15世紀後半(室町時代)の作品と推定される。
 平成10年(1998)3月 新宿区教育委員会

所在地 新宿区袋町15 (光照寺)

新宿区登録有形文化財(彫刻)
 木造十一面観音坐像
     平成9年(1997)3月7日登録

 一木造り、素木仕上げ。像高70センチ。18世紀末(江戸時代後期)の作品で、作者は木食明満である。明満(1718~1810)は、円空とならび称される造仏聖で、全国を旅して鉈彫りの仏像を約1000体彫ったと伝えられる。
 平成9年(1997)5月 新宿区教育委員会

所在地 新宿区袋町15 (光照寺)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
 木造地蔵菩薩坐像
     平成9年(1997)3月7日指定

 寄木造り、黒漆塗り。像高31センチ。13世紀末(鎌倉時代)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。
 寺伝によると、この像はもとは近江国三井寺にある、後宇多天皇の甲が追うが弘安年間(1278~1288)に、のちの後二条天皇を出産する際、難産であったため、この像に祈ったところ無事出産されたところから「泰産地蔵」と呼ばれたという。江戸時代には芝増上寺に移され、正徳年間(1711~1716)に増上寺の末寺である光照寺に安置され、「安産子育地蔵」として信仰をあつめた。光照寺前の地蔵坂はこの像に因むものである。


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