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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区横寺町11・9・10・11

史跡
 島村抱月終焉の地・芸術倶楽部跡

 演出家島村抱月(1871~1918)が女優松井須磨子(1886~1919)とともに、近代劇の普及のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点芸術倶楽部の跡である。
 抱月は本名を滝太郎といい、島根県に生れ、東京専門学校(現早稲田大学)文学部を卒業した。その後同校講師となりイギリス・ドイツに留学、帰国後は評論家・演出家として活躍した。
 明治39年(1906)には、坪内逍遥文芸協会に参加し、西欧演劇の移植に努めたが、大正2年(1913)内紛から同協会を脱会し、芸術座を組織した。その拠点芸術倶楽部は、木造2階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 抱月は大正7年(1918)11月15日、流行性感冒から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で死去した。享年は47歳であった。傷心の松井須磨子は翌大正8年(1919)1月5日この倶楽部で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散された。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会
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所在地 新宿区横寺町15

日蓮宗
 妙徳山 圓福寺



 当山は文禄5年(1596)9月3日加藤清正公により創建され、「妙法蓮華経」の功徳により福徳円満の御利益を授かるという意味が、山号、寺号の由来です。江戸時代の初期より祀られている祖師像は日蓮聖人が49歳の時に彫られた御像で、聖人自ら開眼(魂入れ)なされ、その直後に龍ノ口法難(1271)を免れたことから、生御影(生きるお姿)厄除開運の祖師と称され、古来より多くの参詣者を集めてきました。
 また、江戸時代末期に徳川家の祈願寺となり、大奥女中の熱心な信者も多く、明治維新には、江戸城紅葉山より夜行鬼子母神、七面大明神、妙見菩薩が当山に奉安されました。




 圓福寺境内には『椿山椿先生之墓』、『食材感謝之碑』があります。


                                     妙徳稲荷神社



  文久元酉年従三月中旬、駿州岩本安国日蓮大菩薩
  六十日之間於牛込圓福寺境内開帳之砌諸講中朝詣之図


 文久元年(1861)3月、圓福寺において駿河国岩本實相寺の安国祖師像を60日間開帳したときの賑わいを描いた版画です。このときの願主には牛込通寺町、牛込肴町など圓福寺近辺の23町の講中が連名して参加していますが、日本橋、馬喰町、赤坂、東神田、麹町、品川、千住、内藤新宿などの幟や提灯もみられ、江戸と周辺の信者が多数参集している様子がみられます。信者の中には当時の歌舞伎役者の名もみられ、圓福寺が江戸の人々に熱心に信仰されていたことと、特にこの開帳がたいへんな評判であったことがうかがわれます。境内にはゆかりのある清正公の山車も入り、数々の出し物も演じられ、江戸庶民の信仰の熱意が伝わってきます。


所在地 新宿区横寺町33

曹洞宗
 桃嶽山 竜門寺




                                     身代わり地蔵尊


                                         稲荷神社


所在地 新宿区横寺町40

浄土宗
 正定院 寶國寺(宝国寺)


所在地 新宿区横寺町47

新宿区指定史跡 
 尾崎紅葉旧居跡おざきこうようきゅうきょあと
     昭和60年(1985)3月1日指定

 尾崎紅葉(1867~1903)が明治24年(1891)から明治36年(1903)に死去するまでの12年間居住し、代表作の「金色夜叉」など多くの作品を執筆した所である。
 紅葉は鳥居家の母屋を借り、「十千万堂」と称した。2階の8畳と6畳を書斎と応接間にし、1階には泉鏡花などが起居したこともあり、近代作家が育った重要な場所である。
 当時の家は戦災で焼失してしまったが、鳥居家には今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆が2枚保存されている。
 平成4年(1992)8月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区横寺町・神楽坂6

  朝日坂
 『御府内備考』にはかつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、このあたりは牛込朝日町と呼ばれていた(『東京府史料』)。
 平成18年(2006)3月 新宿区教育委員会

 


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