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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区新宿5-17-3

 花園神社(元花園稲荷神社)は江戸開府以前から新宿の総鎮守として信仰を集めています。






                             拝殿

 

 境内には『唐獅子』、『納大明神』、『威徳稲荷大明神』、『芭蕉句碑「春なれや~」』、『芭蕉句碑「蓬萊に~」』、『二宮金次郎像』、『内藤トウガラシとカボチャ説明版』、『忠魂碑』、『芸能浅間神社』、『「圭子の夢は夜ひらく」の碑』があります。


                             
神楽殿

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所在地 新宿区新宿5-17-3 (花園神社)

納大明神(納め大明神)おさめだいみょうじん

 


所在地 新宿区新宿5-17-3 (花園神社)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
花園神社の唐獅子像
     昭和59年(1984)11月5日指定

 文政4年(1821)に造立された雌雄一対の銅製の唐獅子像である。
 内藤新宿の氏子たちにより寄進されたもので、台座の銅板には発願者等の名が刻まれている。
 像高75センチ、台座は高さ137センチ、幅119センチで、江戸末期の鋳工としてい名高い初代村田整珉の作である。



 花園神社は慶安元年(1648)尾張公の別邸内に創建された。別邸内に花園があったところから花園神社と呼ばれ、内藤新宿の鎮守として信仰された。 
  平成3年(1991)1月 新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区新宿2-9-2
  
   内藤新宿太宗寺の文化財
 太宗寺(たいそうじ)は、慶長年間初頭(1596頃)に僧太宗の開いた草庵を前身として、のちの信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院です。
 かつての内藤新宿の仲町に位置し「内藤新宿の閻魔(えんま) 」「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像奪衣婆(だつえば)像や、江戸の出入口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅造地蔵菩薩など、当時の面影をのこす多数の文化財が伝えられています。
 

  本堂
  
  ①甲州道中と内藤新宿
 
   内藤新宿の開設
 徳川家康は、江戸に幕府を開いた直後の慶長・元和年間に、五街道(東海道・中仙道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の整備を行ないました。
 甲州道中(甲州街道)は、慶長9年(1604)頃に整備が行なわれたもので、江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。
 この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して4里8丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
 そこで浅草阿部川町(現元浅草4丁目)に住む名主喜兵衛(後の高松喜六)は、元禄10年(1696)に同志4名とともに同地を支配する代官細井九左衛門に、ここ太宗寺の南東に宿場を開設するよう願いを出しました。喜兵衛らがなぜ宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、5人は開設にあたり運上金5,600両を納めることを申し出たのでした(結局全額は納められなかった)。
 このあたりには、文禄3年(1595)に成覚寺・正受院が、慶長元年(1596)頃に太宗寺が創建され、元和2年(1615)頃には四谷大木戸(元四谷4丁目交差点)も開設されました。また寛永2年(1625)頃からは町屋ができ、寛文年間(1661~1672)には「内藤宿」と呼ばれかなりの繁昌をみせていたため、この地を選んだのでしょう。
 さて、この願いは翌元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部と旗本麻倉氏の屋敷地などを上地してこれにあてました。
 こうして「内藤宿」は、元禄12年(1699)2月に開設のはこびとなり、同元禄12年4月には業務を開始しました。喜兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました(高松家の墓は愛染院〔新宿区若葉2-8〕にあり、区指定史跡に指定されている)。

   宿場の様子
 「内藤新宿」は東西9町10間余(約999m)、現在の四谷4丁目交差点(四谷大木戸)から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。
 宿場は大きく3つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。
 太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と任側を取扱う施設。内藤新宿の場合、人足50人・馬50疋と定められていたが、のちには共に25ずつとなった)、高札場(法度・掟書・罪人の罪状などを記し周知する立札)がありました。
 「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる4宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、それを支えたのが旅籠屋と茶屋でした。
 これらには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(1702)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました(飯盛女の共同墓地「子ども合埋碑」が、成覚寺〔新宿2-15-18〕にあり、区指定有形文化財に指定されている)。
 
   宿場の廃止と明和の立返り
 このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。
 これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたこと、旗本内藤新左衛門の弟大八が信濃屋の下男に殴られた事件などが原因といわれますが、8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。
 その後、度重なる再興の願いにより、明和9年(1772)に宿場は再興されました。


  閻魔堂

  ②太宗寺の創建と内藤家

 太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。
 太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1628)内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くこととなりました。
 これが縁で、寛文8年(1668)6代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。
 内藤家は7代清枚(きよかず)以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。
 太宗寺は、元禄15年(1702)・文化2年(1805)の火災や、関東大震災・第2次世界大戦でも大きな被害をうけましたが、歴代住職の尽力により、その都度復興してきました。
 また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。
 現在も、毎年お盆の7月15・16日には、盆踊りとともに閻魔像奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。
 なお、寺号「太宗寺」は、壮建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。
 浄土院の寺院です。


  不動堂

  ③太宗寺の文化財

 太宗寺には、江戸時代以来の多くの文化財が伝えられています。このうち銅造地蔵菩薩坐像(都指定文化財)、閻魔像奪衣婆像・内藤正勝の墓・三日月不動像(区指定文化財)、切支丹灯篭(区登録文化財)の6点については、それぞれに説明板を設置してありますが、このほかにもつぎのような文化財があります。
 ・太宗寺の曼荼羅
 曼荼羅とは、密教の修法のため多くの仏像を一定の形式に基づいて描いた描いた図像をいいます。 
 太宗寺には、浄土宗の三大経典(観無量寿経・無量寿経・阿弥陀経)に基づく3幅の曼荼羅が伝えられており、涅槃図・十王図とともに毎年お盆の7月15・16日に本堂で公開されています。

 観無量寿経曼荼羅(大曼荼羅)
    〔新宿区指定有形文化財(絵画)
         指定年月日 平成2年(1990)6月1日〕
 通称「大曼荼羅」と呼ばれるもので、奈良県当麻寺の観無量寿経曼荼 羅を同寸大に模写したものです。
 神に描かれており、総高425cm・全幅408cmの掛軸となっています。画像は縦・横とも386cmで、まわり表装は直接描かれたもの(画表装)です。
 製作年代・作者についてはわかりませんが、江戸時代初期の製作と推定されます。

 
塩かけ地蔵

 境内には『銅造地蔵菩薩坐像』、『閻魔像』、『奪衣婆像(だつえばぞう)』、『三日月不動像』、『布袋尊像』、『切支丹燈籠』、『内藤正勝の墓(内藤家墓所)』があります。


所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

東京都指定有形文化財(彫刻)
   銅像地蔵菩薩坐像(江戸6地蔵のひとつ)
                附旧像内納入品     
                昭和45年(1970)8月3日指定

 江戸時代の前期に、江戸に出入口6ヶ所に造立された「江戸六地蔵」のひとつです。
 銅造で像高は267cm、正徳2年(1712)9月に「江戸六地蔵」の3番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。
 なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。
 「江戸六地蔵」は、深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立したものです。各像にはその名前が刻まれていますが、その合計は7万2千名以上におよんでいました。
 この他の「江戸六地蔵」は次のとおりですが、永代寺のものは現存していません。

   品川寺  品川区南品川3-5-17   宝永5年(1708)造立
   東禅寺  台東区東浅草2-12-13   宝永7年(1710)造立
   真性寺  豊島区巣鴨3-21-21    正徳4年(1714)造立
   霊巌寺  江東区白河1-3-32    享保2年(1717)造立
   永代寺  江東区富岡1-15-1    享保5年(1720)造立

 東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日改正)により、文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替えて下さい。
  東京都教育委員会


所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

新宿区指定有形民族文化財
    閻魔像 
     昭和61年3月7日指定

 木造彩色、総高550cmにもおよぶ巨像で、目をむき大きな口をあけて見据える姿は拝観者を恐れさせ、子どものしつけのため参拝されたりしました。
 文化11年(1814)に安置されたとされ、製作もその頃のことと推定されます。しかし、数度の火災による度重なる補修を受けたため、製作当初の部分は頭部を残すだけとなっています。
 江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰をあつめ、かつては薮入り(1月と7月の16日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)に閻魔大王の縁日が出て賑わいました。
 また、弘化4年(1847)3月5日には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵になるなど江戸中の評判になりました。
 なお、閻魔堂正面にかかる「閻魔殿」の額は、中国清朝の官吏秋氏が嘉永3年(1850)に奉納したものです。
 現在は、お盆の7月15日・16日に御開扉されています。


所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

新宿区指定有形民俗文化財 
   奪衣婆像(だつえばぞう)  
       昭和61年(1986)3月7日指定

 閻魔堂内左手に安置されている坐像です。
 木造彩色で、総高は240cm、明治3年(1870)の製作と伝えられます。
 奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったとされています。この像でも、右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。
 また、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ信仰されました。


所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
   
三日月不動像  
     
昭和59年(1984)11月2日指定

 額の上に銀製の三日月をもつため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像です。
 銅造で、像高は194cm、火炎光背の総高は243cm。江戸時代の作ですが、製作年・作者などは不明です。
 寺伝によれば、この像は高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立寄った太宗寺境内で、磐石のごとく動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられています。
 なお、額上の三日月は、弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで、あまねく済み渡せん」との誓願によるものといわれます。このため、像の上野屋根には窓が取付けられ、空を望むことができます。


所在地 新宿区新宿2-9-2
 (太宗寺)

 新宿山の手七福神 
  布袋尊像


 新宿山の手七福神は、昭和初期に有志により創設されたもので、太宗寺布袋尊)・鬼王神社恵比寿神)・永福寺(福禄寿)厳島神社(弁財天)法善寺(寿老人)経王寺(大黒天)善國寺毘沙門天)の7ヶ所となっています。
 布袋尊は中国の禅僧がモデルで、豊かな暮らしと円満な家庭の守護像です。


所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

新宿区登録有形文化財(歴史資料)
   切支丹灯籠(きりしたんどうろう)
       昭和60年(1985)3月1日登録

 昭和27年(1952)太宗寺墓地内の内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の笠・火袋部分も復元し補われています。
 石質は白みかげ石で、江戸時代中期の製作と推定されます。
 切支丹灯籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされるもので、織部型灯籠(安土桃山時代~江戸初期の大名・茶人古田織部の好んだ灯籠)の全体の刑状は十字架を、また竿部の彫刻はマリア像を象徴したものであると解釈されマリア観音とも呼ばれています。


所在地 新宿区新宿3-38-1 (新宿駅東口広場)

新宿区指定有形文化財(工芸品)
馬水槽(ばすいそう)
     昭和61年6月6日指定

19世紀にロンドン市内で馬・犬猫・人間に飲料水を供給した石造品で、イギリスから贈られたものである。動物愛護の精神に基づく水飲み施設で、交通運搬と都市水道発展の歴史を物語る記念物である。



 「みんなの泉」の由来

東京の上水道育ての親、中島鋭司博士が明治34年(1901)から欧米諸国を視察した際、ロンドン水槽協会から東京市に寄贈されたもので、現在では世界に3つしかない貴重なものである。赤大理石製で上部は馬、下部が犬猫、裏面が人間用と、動物愛護の精神が息づいており、明治から大正にかけては当時の重要交通機関であった馬がよく利用していた。昭和39年(1964)の新宿民衆駅完成を記念して現在の場所に移転 その際、「馬水槽」と呼ばれていたものを一般より公募した「みんなの泉」と改称され、現在では新宿区の文化財に指定されている。
  新宿ライオンズクラブ


所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

新宿区指定史跡
  内藤正勝の墓(内藤家墓所) 
     平成7年(1995)2月3日指定

 江戸時代に信州高遠の藩主をつとめた(元禄4年より幕末まで)譜代大名内藤家の墓所です。
 現在の墓所は、昭和27年(1952)東京都の区 画整理事業に伴い、墓地の西北部にあったものを現在地に改葬したもので、約300坪・57基の墓塔を現存の3基に改葬し、改装記念碑を建立しました。
 墓塔は3基とも法篋院塔で、中央が5代内藤正勝(寛永6年造立)、右側が13代内藤頼直、左側が内藤家累代の墓塔(ともに明治時代の造立)となっており、このうち内藤正勝の墓は区指定史跡に指定されています。
 太宗寺は、寛永6年(1628)にこの内藤正勝が葬られ、6代内藤重頼が寺地を寄進し起立したものですが、正徳4年(1714)7代内藤清枚が葬られて以後此処を歴代の墓所とし、当主のほか一族が葬られました。


所在地 新宿区新宿6-21-1



 安貞2年(1228)に明恵上人(みょうえしょうにん1173~1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。また棗(なつめ)の天神とも呼ばれます。『江戸名所図会』ではその由来を不明としていますが、一説に三代将軍家光が鷹狩りの際に立ち寄り、境内が荒れている様を見て、黄金の棗を下されたからといわれています。



 天正年間(1573~1592)に兵火を受け焼失しましたが、村人により祠(ほこら)が建てられ、その後、聖護院宮道晃法観王(しょうごいんのみやどうこうほっしんのう)が江戸に下った際に、元信(げんしん)という僧侶に命じ社殿などが再建されました。天保13年(1842)には富士塚が築かれ、現在でも境内に残っています。



 別当寺(べっとうじ)であった梅松山大聖院(ばいしょうざんだいしょういん)は、神社の北側にあります。江戸時代には聖護院宮を開基とする門跡寺院で、本山修験派の江戸の拠点となっていました。


  富士塚

 境内には、太田道灌山吹の里伝説に登場する紅皿の墓と伝えられる板碑があり、寺の前の狭い石段を山吹坂と呼んでいます。







 新宿の女歌碑

   新宿の女

  作詞・作曲  石坂まさを
  共作詞        みずの稔
  歌唱      藤圭子

私が男に なれたなら 
私は女を 捨てないわ
ネオンくらしの蝶々には 
やさしい言葉が しみたのよ
バカだな バカだな 
だまされちゃって
夜が冷たい 新宿の女


所在地 新宿区新宿1-21 (区立花園公園)

新宿区指定史跡
 三遊亭円朝旧居跡さんゆうていえんちょうきゅうきょあと
     昭和61年(1986)6月6日指定



 このあたりは、明治落語界を代表する落語家三遊亭円朝(1839~1900)が、明治21年から明治28年(1888~1895)まで住んでいたところである。
 円朝は本名を出淵次郎吉といい、江戸湯島の生れ、7歳のとき小円太の名で初高座をふみ、9歳で2代目円生の門下に入門した。
 話術に長じ、人物の性格・環境を巧みに表現し、近代落語を大成した。また、創作にもすぐれ、自作自演に非凡な芸を発揮し、人情話を完成させた。代表作に「塩原多助」「怪談牡丹灯籠」「名人長二」などがある。
 屋敷地は約千平方メートルで、周囲を四つ目垣で囲み、孟宗竹の薮、広い畑、桧・柿の植込み、回遊式庭園などがあり母屋と廊下でつづいた離れは円通堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた。
 新宿在住時の円朝は、明治24年(1884)以降寄席から身を引き、もっぱら禅や茶道に心を寄せていたという。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿2-15-18

浄土宗
 成覚寺

 
文禄3年(1594)に創建された新宿区内でも比較的歴史の古い寺院で、浄土宗に属している。境内には、恋川春町の墓旭地蔵子供合埋碑(全て、区の指定文化財)などが残っている。



 成覚寺には『旭地蔵』、『子供合埋碑』、『恋川春町墓』があります。


所在地 新宿区新宿2-15-18 (成覚寺)

新宿区指定有形文化財(歴史資料)
 旭地蔵あさひじぞう
     昭和60年(1985)8月2日指定



 三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に18人の戒名が記されている。これらの人々は寛政12年(1800)から文化10年(1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうちの7組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であると思われる。これらの人々を供養するため寛政12年(1800)7月に宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。
 別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。
 明治12年(1879)7月道路拡張に伴いここに移設された。
 宿場町新宿が生みだした悲しい男女の結末と新宿発展の一面を物語る貴重な歴史資料である。
 平成5年(1993)11月 東京都新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区新宿2-15-18 (成覚寺)

新宿区指定有形文化財(歴史資料) 
 子供合埋碑こどもごうまいひ
     昭和60年(1985)8月2日指定

 江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女めしもりおんな(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。
 飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。
 もともと墓地の最奥にあったが昭和31年(1956)の土地区画整理に際し現在地に移設された。
 宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一面を物語る貴重な歴史資料である。
 平成5年(1993)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿2-15-18 (成覚寺)

新宿区指定史跡
 恋川春町墓こいかわはるまち
     昭和60年(1985)7月5日指定

 恋川春町(1744~1789)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で本名を倉橋格俗称を寿平という。
 江戸小石川春日町に住んでいたところから恋川春町を号した。
 多くの書に挿絵などを描いていたが、安永4年(1775)自画自作の「金々先生栄花夢」を出版し、世相・人情の風刺を試み大歓迎を受け、多くの追随作を生み黄表紙という新しいジャンルを開拓し、文学史上に大きな影響を及ぼした。



 墓石には正面に一族の者二人と並んで戒名、俗名、没年が記され更に左側面に張る町の辞世の区が
 生涯苦楽四十六年
  即今脱却浩然帰天
   我も万た身はないものとおもひしが
    今ハのきハヽさ比しかり鳧

と記されている。
  平成5年(1993)11月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿6-15-2

浄土宗
 西光庵



 西光庵には『観無量寿経曼荼羅』があります。

 
所在地 新宿区新宿6-15-2 (西光庵)

新宿区指定有形文化財(絵画)
 観無量寿経曼荼羅かんむりょうじじゅきょうまんだら
     平成15年(2003)5月2日指定

 感無量寿経にもとづく阿弥陀如来の浄土をあらわした阿弥陀浄土変相図で、四分一曼荼羅と称される大きさをもつ絹本著色の仏画である。
 奈良当麻寺に伝わる綴織本を根本曼荼羅として制作された「当麻曼荼羅」の一例で、縦222.3センチ、横194.2センチ、画面部は縦176.8センチ、横180.5センチとなっている。
 十三世紀広汎の制作と推定され、鎌倉仏画の様式展開を考える上からも貴重な作品である。また、蒔絵、螺鈿を施した表木・軸首も、室町時代の工芸技術を伝え、古い表装の形態をとどめた数少ない衣例となっており、区内に所在する絵画作品として最古のものに属する優品である。
 平成16年(2004)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿6-20-9

真宗大谷派
 白蓮山 専福寺せんぷくじ



 この寺には、幕末から明治中期にかけて活躍した浮世絵師月岡芳年の墓(区指定文化財)がある。また、浄土真宗中興の祖と仰がれる、東本願寺第8世蓮如上人直系の高僧たちの遺品を蔵している。




 専福寺には『月岡芳年墓』、『二世太白堂 桃隣墓』があります。


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