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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区信濃町2

浄土宗
 深谷山 長安寺

 長安寺には『火除地蔵尊』があります。
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所在地 新宿区信濃町2 (長安寺)

  火除地蔵尊
弘化2年(1845)の青山大火災(現明治記念館付近より出火)のおりこの寺の門前にあった地蔵尊の目で火勢が止まり、それにより当寺門前はもちろん、四谷方面が火災から免れた。以来「火防地蔵」と呼ばれるようになった。
 なお、現在の火防地蔵はこの災害の供養のため、弘化3年(1846)に造られたものである。


所在地 新宿区信濃町11

  習成館
勝海舟命名 剣道場
 創立1879年

 


所在地 新宿区信濃町35

 慶応義塾大学病院





 慶応義塾大学病院には『福沢諭吉胸像』、『食研跡地記念の碑』、『陸軍省所轄地境界石』があります。


所在地 新宿区信濃町35 (慶応義塾大学病院)

 食研跡地記念の碑
 塾祖福澤諭吉が唱えた食養の概念を具体化するため、大正15年(1926)益田孝ら財界人の厚意によりこの地に慶應義塾大学医学部食養研究所(食研)が設立された。
 研究所主任に大森憲太が就任し、栄養増進、食事療法およびビタミン学の研究を行った。昭和2年(1927)臨床と基礎の共同研究を推進すべく、小林六造のもと臨床最近研究室が併設された。食研は第二次世界大戦の戦火を免れ、大学の研究の灯はここに守られた。また中央検査室も食研に始まった。
 その後も食研は、慶應医学はもとより日本の医学の発展に大きく貢献し、平成2年(1990)11月27日その幕を閉じた。


所在地 新宿区信濃町35 (慶応義塾大学病院)

 福沢諭吉胸像
慶応義塾の創始者福澤諭吉先生は夙に医学教育の重要性を認め明治6年(1873)慶応義塾医学所を設け多数の名医を育成したが事情あり明治13年(1880)閉鎖するの巳むなきに至った その後福澤さんせいは適塾の同門長興専斎衛生局長の推挙により北里柴三郎医学博士と親交を結び福澤先生の御遺志はつがれて大正6年(1917)北里博士を部長として慶応義塾大学医学部が設立されるに至り今日に及んでいる
 昭和50年(1975)3月
 書 東龍太郎
 文 藤森章







所在地 新宿区信濃町35 (慶応義塾大学病院 東門)

 陸軍省所轄地境界石
信濃町には、青山練兵場とともに陸軍の重要な施設があり、現在の慶應病院周辺には、主に食糧や軍需品などを前線に補給するための基地や兵舎がありました。また、練兵場では陸軍の観兵式が行われていました。



 


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永山
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