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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区南元町19

  千日坂

 この坂下の低地は、一行院千日寺があるため千日谷と呼ばれていた(『紫の一本』)。坂名も千日寺にちなんで名づけられたと考えられる。なお、かつての千日坂は消滅し、現在の千日坂はそれと前後して造られたいわば新千日坂である。
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                                       千日会堂

所在地 新宿区南元町19-2

浄土宗
 永固山 一行院 千日寺

 山の手三十三観音霊場28番


                              舎利塔

新宿区登録有形民俗文化財
 一行院の板碑
     昭和60年(1985)7月5日登録

 鎌倉時代後期から室町時代後期までの7基の板碑が舎利塔内に保存されている。
 完全な形のものはないが、都内では数少ない暦応2年(1339)の題目板碑が1基ある。
 出土の事情等は明らかではないが、一行院付近にあったものと思われ、この地域における中世の信仰や民俗を物語る資料として貴重である。
 平成5年(1993)11月 東京都新宿区教育委員会



新宿区登録有形文化財(考古資料)
 一行院墓地の出土品
     登録61年(1986)10月3日登録

 昭和37年(1962)首都高速道路4号線工事の際に、一行院の墓地から人骨と共にしゅつどぢた墓誌2基とその他副葬品類約300点が舎利塔内に保存されている。
 墓誌には、文政10年(1827)と安政12年(1829)の紀年銘が刻まれている。
 各種の副葬品類は、近世の風俗・文化を具体的に示すものとして貴重である。
 平成5年(1993)11月 東京都新宿区教育委員会



 一行院境内には『岩本昆寛の墓』、『神谷紋二郎記念碑』があります。


所在地 新宿区南元町19-2 (一行院 岩本昆寛墓前

 神谷紋二郎記念碑
 紋洋 神谷紋一郎先生は明治38年(1905)1月23日愛知県に生れ東京に於て刀剣小道具の鑑定を業とす
昭和42年(1967)7月21日死去行年63歳 生前岩本昆寛に私淑 故に同好の諸士集り昆寛の墓際に記念碑を建て冥福を祈る
 昭和44年(1969)7月19日
 記念碑建立発起人代表
 装剣小道具千代田会
 小窪健一 柴田光男 益本千一郎 三田光剣

 


所在地 新宿区南元町20・若葉1~港区

  鮫河橋坂さめがはしざか
 


 みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った池沼があり、周囲の台地からわきだす水をたたえ、東南の方向へ流れて鮫河となり、赤坂の溜池にそそいでいました。
 江戸時代になってからは水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外堀工事の際に余った土で埋め立てられて、町になったといわれています。
 鮫河には橋が架かっていて、鮫河橋さめがはしと呼ばれていました。鮫河橋は「江戸名所図絵」にもとりあげられて有名になったので、この付近一帯を鮫河橋と呼んだ時代があり、今でもみなみもと町公園前の坂に「鮫河橋坂」という名前を残しています。
  新宿区


                         江戸名所図絵


所在地 新宿区南元町10-1

浄土宗
 栄古山 香蓮寺

 


所在地 新宿区南元町10-6

日蓮宗
 本迹寺ほんしゃくじ

 


所在地 新宿区南元町港区

 安鎮坂あんちんざか (安珍坂)

 


所在地 新宿区南元町

  新助坂しんすけざか
 『新撰東京名所図会』には、「新助坂は四谷東信濃町に上る坂なり、一名をスベリ坂ともいふ、坂の下には甲武鉄道線の踏切隧道門あり」と記されている。明治30年代中頃には、新助坂の名で呼ばれていた。
 平成22年(2010)2月 新宿区


 


所在地 新宿区南元町

  出羽坂
 明治維新後、この坂上に旧松江藩主であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになった。松平邸内には、修徳園と呼ばれる名庭があったが、太平洋戦争後取り壊された。
 平成9年(1997)3月 新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区南元町20 (区立みなみもと町公園)

  鮫ヶ橋跡とせきとめ稲荷神
 南元町公園の西北隅に鮫ヶ橋の地名発祥の地と、せきとめ稲荷という小さな祠堂がある。鮫ヶ橋の地名は、この付近一帯の古くからの、呼称であり、その起源については、かって入り江が深かった頃に鮫が、橋下まで来たという説や、鮫馬がここで死んだので俗称されるようになったという説などがあるが、いずれにしてもはっきりしたことはわからない。
 「佐目河橋」「鮫馬が橋」と書く場合もある。現在はないが、ここに橋が架っていた。橋下の川は桜川といって、若葉町の低地を通って溜池に注いでいた。鮫ヶ橋の名は、現在南元町・若葉町にまたがる広い地域の呼称として、江戸の文学や俗謡によくでてくる地名である。
 いつの頃からかはっきりしないが、橋近くに稲荷社が祀られ、俗に「せきとめ稲荷」といわれている。かつて、川の堰があって用水の供給をしていたことから、堰がいつのまにか咳の意味に転化して、素朴な民間信仰となってきたものといわれている。
 『御府内備考』巻六十五には、「鮫河橋紀伊国坂の下に大溝あり、その所にかかる橋なり、今は此の辺の地名となりて、すべて鮫ヶ橋といえり。世の人鮫河橋を四ッ谷中の小字とするは誤りない。此辺古へ山中村と称せしを、家康御入国の後、伊賀者の知行に賜はりしより、一ツ木村と改めた。然るに橋の名殊に高かりければ、後年町並と成し時、橋名をおはせて町の名に唱へ来りしより、遂に此辺の惣名となれり」とある。
 昭和51年度 新宿区文化財総合調査報告書(二)より抜粋

 


所在地 新宿区南元町20 (区立みなみもと町公園)

 四谷鮫河橋地名発祥之所碑

沙美津川 千どり来なける古の 里の名ごりを伝ふ石ぶみ

 昭和50年(1975)3月建立 長尾保二郎 登女 建碑


所在地 新宿区南元町15-3

浄土真宗本願寺派
 銀樹山 林光寺
  林光寺の太子・高僧画像
 親鸞・蓮如・聖徳太子および7人の高僧を描いた四幅の画像で、寛延3年(1750)紀州家7代藩主徳川宗将が奉納したものである。

  林光寺文書
 林光寺に伝来する古文書・古記録類で、寛政元年(1789)から大正時代におよぶ64点である。
 中には隣接していた紀州家上屋敷との関係を示す史料も含まれる。
 

  林光寺の歴代宗主銘
 中央上部に親鸞上人を記し、以下信如上人から文如上人までの浄土真宗の歴代宗主の名を墨書した掛軸で、西本願寺の准如の筆になるものである。慶長7年(1602)の制作である。

  林光寺の高僧先達連座画像
 聖徳太子・小野妹子・蘇我馬子ら我国の仏教の先達と、源空・源信・親鸞ら高僧の肖像を配した画像で、その配置は林光寺独自の様式によっている。下地の絹と衣服の描き方から、南北朝時代(14世紀後半)の作と推定され、区内では貴重な中世絵画である。

 平成4年(1992)8月 東京都新宿区教育委員会













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