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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区南元町20 (区立みなみもと町公園)

  鮫ヶ橋跡とせきとめ稲荷神
 南元町公園の西北隅に鮫ヶ橋の地名発祥の地と、せきとめ稲荷という小さな祠堂がある。鮫ヶ橋の地名は、この付近一帯の古くからの、呼称であり、その起源については、かって入り江が深かった頃に鮫が、橋下まで来たという説や、鮫馬がここで死んだので俗称されるようになったという説などがあるが、いずれにしてもはっきりしたことはわからない。
 「佐目河橋」「鮫馬が橋」と書く場合もある。現在はないが、ここに橋が架っていた。橋下の川は桜川といって、若葉町の低地を通って溜池に注いでいた。鮫ヶ橋の名は、現在南元町・若葉町にまたがる広い地域の呼称として、江戸の文学や俗謡によくでてくる地名である。
 いつの頃からかはっきりしないが、橋近くに稲荷社が祀られ、俗に「せきとめ稲荷」といわれている。かつて、川の堰があって用水の供給をしていたことから、堰がいつのまにか咳の意味に転化して、素朴な民間信仰となってきたものといわれている。
 『御府内備考』巻六十五には、「鮫河橋紀伊国坂の下に大溝あり、その所にかかる橋なり、今は此の辺の地名となりて、すべて鮫ヶ橋といえり。世の人鮫河橋を四ッ谷中の小字とするは誤りない。此辺古へ山中村と称せしを、家康御入国の後、伊賀者の知行に賜はりしより、一ツ木村と改めた。然るに橋の名殊に高かりければ、後年町並と成し時、橋名をおはせて町の名に唱へ来りしより、遂に此辺の惣名となれり」とある。
 昭和51年度 新宿区文化財総合調査報告書(二)より抜粋

 
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