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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区神楽坂6-2

天台宗
 医光山 長寿院 安養寺

江戸三十三観音16番札所
山の手三十三観音霊場10番札所

大沸薬師如来(厄除・除病)

大聖歓喜天(開運・繁昌)

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所在地 東京都新宿区神楽坂5-36

日蓮宗
 鎮護山 善國寺(善国寺)

山手七福神 毘沙門天



 善国寺は、文禄4年(1595)徳川家康により創建された。
 日蓮宗。本尊の毘沙門天像は、新宿区指定文化財となっている。明治時代、毘沙門天の縁日が東京中から参詣客をあつめ、大変にぎわった。東京で縁日に夜店が出るようになった。東京で縁日に夜店が出るようになったのは、ここが最初であったという。

善國寺の毘沙門天』があります。

 所在地 東京都新宿区神楽坂5-36 (善國寺)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
 新宿山の手七福神

  毘沙門天 
     昭和60年(1985年)7月5日指定

 「神楽坂の毘沙門天さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。
 木彫で像高30cm、右手に鉾、左手に宝塔を持ち、磐座に起立した姿勢をとる。造立時期は宝町時代頃かと推されるが、作者とともに詳しくは不明である。
 
善国寺は、文禄4年(1595年)徳川家康により創建された。この像は、初代住職である日惺上人が鎮護国家の意をこめて当山に安置したもので、上人が池上本門寺に入山するにあたり、二条関白白昭実公より贈られたと伝えられる。
 
毘沙門天は、またの名を多聞天と称し、増長天・持国天・広目天と共に天の四方を守護する四天王の一つであり、北方を守るとされる。
 
善国寺の毘沙門天は江戸の三毘沙門と呼ばれ、多くの参詣者を集め、特に明治・大正期には東京でも有数の信仰地として賑わった。
  平成3年(1991年)1月 新宿区教育委員会

所在地 東京都新宿区神楽坂

 神楽坂かぐらざか



 坂名の由来は、坂の途中にあった高田八幡(穴八幡)の御旅所で神楽を奏したから、津久戸明神が移ってきた時この坂で神楽を奏したから、若宮八幡の神楽が聞こえたから、この坂に赤城明神の神楽堂があったからなど、いずれも神楽にちなんだ諸説がある。
  平成14年(2002)3月 新宿区教育委員会



      歌川広重 天保11年(1840)頃 坂上から江戸城 牛込御門を臨む



所在地 新宿区神楽坂1-3 (東京理科大学)

 この建物は本学の前身東京物理学校が明治39年(1906)に現在の6号館の場所(当時の地番では東京市牛込区神楽町2-24)に木造2階建後者を新築した時撮影した現存するただ1枚の写真から忠実に復元したものです。敷地の関係で当時より規模は少し小さくなっており、また建築法規も違うため窓の構造が若干異なりますが、可能な限り明治の校舎に近いものとなるように心掛けて、明治建築様式を再現した建築物です。



所在地 新宿区神楽坂3丁目と4丁目の間 

  本多横丁

 その名の由来は、江戸中期より明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、碌高1万5百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。
 神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。
 後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したが、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。
 石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。
 昭和60年(1985)7月 本多横丁商店会


所在地 新宿区神楽坂5

  寺内公園(行元寺跡)
 この「寺内公園」」の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。
 江戸中期の天明8年(1788)、境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政4年(1857)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治4年(1871)には、行幸寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和26年からは「神楽坂5丁目」になっています。)
 行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し、大正元年(1912)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、毘沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。
 文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正4年作(1915)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。また、喜劇王柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。
 日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。
 平成15年(2003)3月吉日 新宿区


 「当時の寺内の風俗を描いたといわれる」
ノエル・ヌエット仏画「神楽坂」(昭和12年) 作品提供/クリスチャン・ボラック


所在地 新宿区神楽坂3

  見番横丁けんばんよこちょう
芸者衆の手配や、稽古を行う「見番」が沿道にあることから名付けられた。稽古場からは時折、情緒ある三味線の音が聞こえてくる。


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