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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区高田馬場1-12-6

  諏訪神社




 諏訪神社境内には『明治天皇射的砲術天覧所阯』、『塞神三柱の塔』、『神輿庫』があります。


                    (写真左)稲荷神社 (写真中)摂末社 (写真右)庚申塔
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所在地 新宿区高田馬場1-12-6 (諏訪神社)

新宿区登録有形民俗文化財
 塞神三柱の塔
     平成5年(1993)3月5日指定



 天和2年(1682)に造立された舟形の石塔で、中央に「塞神三柱」、その右側に「諏訪上下大明神」および「正八幡大菩薩」、また左側には「天(以下欠損のため不明)」および「稲荷大明神」と刻まれている。
 また、その上方には右に月形、左に日形が彫られている。
 塞神は、村の境や峠に祀られる、境界を守護する神とされ、石塔としては江戸時代に南関東地方を中心に盛んに造立された。
 諏訪神社の塞神塔は区内で唯一のもので、また、「塞神三柱」の文字が刻まれた例は少なく、大変貴重である。
 平成6年(1994)6月 東京都新宿区教育委員会



所在地 新宿区高田馬場1-12-6 (諏訪神社)

    校倉造り 神輿庫
校倉とは奈良時代に神社佛閣が宝蔵として盛んに作った純日本的高床式の倉庫です。
現存する有名なものに正倉院があり、二月堂、手向山八幡、唐招提寺などの校倉も現存しています。
然しこれらの校倉はすべて木造で、これをコンクリートで作ることは、技術的にも様式的にもむずかしく、知る限りではまだ一棟も完全なものがありません。
当社では今回数少ない専門的技術人を得て、ここにコンクリートによる完全な校倉造りの大神輿の倉庫を建造しました。
大変珍しく、貴重な建物ですから大切に保存して下さい。
 昭和52年(1977)6月25日 諏訪神社


所在地 新宿区高田馬場1-12-6 (諏訪神社)

 明治15年(1882)、諏訪の森近衛射的場が神社前に出来ました時、明治天皇の行幸があり、当社境内よりその射撃遠州を御覧になられました。その折、畏くも天皇より神酒、鴨を賜り、氏子の歓喜、感激は大変なものでした。その後、御社伝の屋根には菊の御紋を付ける様になり、又射的場にみえられる各宮殿下には、皆当社の社務所に御休息遊ばされました。
只今拝殿に掲げてある神号額も小松宮彰仁親王殿下の御真筆であります。昭和18年(1943)には当天覧所址は東京都より行幸史跡に指定されました。




   聖蹟
 明治天皇射的砲術天覧所趾
明治十五年十一月九日近衛射的場開場式ニ臨御同十五年十一月二十九日射的砲術ヲ天覧アラセラレタ所ナリ
 昭和十八年十二月 東京都



所在地 新宿区高田馬場1-12-10

真言宗豊山派
 龍池山 上珠院 玄国寺(玄國寺)
 
  豊島八十八ヶ所霊場 第七十二番



 
本尊 阿弥陀如来(三弁火焔の阿弥陀)
    勢至菩薩・十一面観音・大聖不動明王
開基 真雅僧正・承和年中(834~847)
    中興、慶長6年(1601)の伝
総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
祖師 宗祖 弘法大師(空海)
    中興祖 興教大師(覚鑁)
    派祖 専誉僧正
開宗 平安時代初期に弘法大師が中国にわたり、恵果阿闇梨より密教の奥儀を授けられ、わが国に真言宗を開宗されました。
ご宝号 南無大師遍照金剛・南無興教大師・南無専誉僧正 
文化財 岩倉具視邸(現書院)
     土屋地蔵尊(田植地蔵)
     庚申塔(江戸時代)
     宮瀬龍門の墓碑



古くは中野宝仙寺の末寺であったが、元禄9年(1696)音羽護国寺の末寺となる。
龍池山と号すること古くは大寺にて境内広く南方の尾陽公池あるが故に龍池山と号す。
草創は承和年中(834~847)真雅僧正再営の説あり。慶長6年(1601)頃現在地に創建され、延宝年中、法印盛源中興し、世々諏訪神社の別当を兼ねていた。
本尊は「三弁火焔の阿弥陀如来」、座像にて三尺余、行基菩薩の作、別に名付けて「こころみの阿弥陀」とも称す。
武蔵新風土記に「寺宝に玉一顆あり。安産與楽の玉と称す。北條遠江守時政の子相模守義時の妻難産のおり江ノ島弁財天に参籠して感得し、その加護によって安産あり。また、その玉、密々に御本丸に用としてしばしば奉る。縁ありて当寺に寄附される。」
境内墓地に隣接して「土屋地蔵尊」あり。源兵エ村土屋薩摩守氏(旗本2700石)下屋敷の井戸より出現した石像で別名「田植え地蔵尊」とも言う。種々の願いを叶え、霊験あらたかなる故に堂宇を建立す。
「江戸名所図会」(天保年間に刊行)によれば、このあたり諏訪谷村と呼ばれ、諏訪神社並びに別当玄国寺ありてその境内には、鐘楼堂・地蔵堂・聖天堂・弁天堂などがあった。
この度、当山檀信徒
 池田輝子殿 池田雅太郎殿 池田實殿
池田家先祖代々総供養並びに池田家先祖への報恩感謝の為に発願して、総欅造「山門」・「六角弁天堂」・「鐘楼堂」を新建立し、往古のごとく復興し当山に寄進せらる。
ここに篤信の大施主としてその名を石碑に刻み、永久にその功績を称え顕彰します。
 平成22年(2010)7月吉日
 龍池山上珠院玄国寺 第二十七世 真行 代



所在地 新宿区高田馬場1-12-10 (玄国寺)

  土屋地蔵尊(田植地蔵)

 土屋地蔵尊は、源兵エ村土屋薩摩守氏(旗本2700石)下屋敷の井戸より出現した石像で、別名「田植え地蔵尊」とも言う。


所在地 新宿区高田馬場2-15-2 (成陽ビル)

大正八年十二月竣工
 戸田平橋 戸塚新道 記念碑
     従三位 北條時敬 書


所在地 新宿区高田馬場1

  高田馬場再開発記念碑
高田馬場とは、寛永13年(1636)この東方約1キロ戸塚町の中央に設けられた江戸時代旗本たちの馬術練習や流鏑馬などを行う馬場から起った名称である。歴史に残る忠臣蔵の堀部安兵衛の助太刀の馬場としても著名である。明治15年(1882)早稲田大学の前身東京専門学校が早稲田の森に建設され、明治35年(1902)早稲田大学と改称、学生の往来ようやく繁くなり高田馬場駅が開設されたのは明治43年(1910)9月で、駅前が発展してきたのは、大正初期で、名実共に早稲田大学の玄関口となり、学生の町となって賑わいをみせたのは昭和になってからである。
昭和2年(1927)西武鉄道の開通後駅前周辺は急速に繁華街として発展し、第二次世界大戦後、昭和24年(1949)都電が早稲田終点より駅前まで延長、昭和27年(1952)には西武線の新宿まで延長、地下鉄東西線は昭和39年(1964)に開通し、一方戦災を受けた駅前を近代的な都市に再開発するため昭和23年(1948)3月東京都から戦災復興事業として区画整理の指定を受け、改めて昭和37年(1962)3月高田馬場防災建築街区造成組合が設立され家屋の移転、取毀、整理を開始、やがて駅前周辺に高層近代ビルが次々と建設されるに至って有志相謀り據出して駅前広場に噴水、花壇を建設、池の中央に東京芸術大学名誉教授山本豊市先生の特志の寄進による平和の女神像を安置して、道行く人々に悲話と緑の憩いの場を与え往時と全く面目を一新された。
ここに高田馬場沿革史上特記すべき都市再開発並びに広場修景の完成を祝して永く後世に伝えるためこの記念碑を建立するものである。
 昭和49年(1974)1月1日 元早稲田大学総長 大浜信泉撰







所在地 新宿区高田馬場4-29

  鉄砲稲荷神社
江戸幕府開府以来当地に鎮座す
 武州豊島郡戸塚村氏子中
 昭和60年(1985)2月吉日


 


所在地 新宿区高田馬場3-29-11

 馬頭観音
 当馬頭観音は江戸時代の昔からこの地に在りました。当時は、農業が主で馬の使用が多く、また馬場では競馬が盛んに行われた関係で馬が死没した時は、現在の地に埋葬・供養をしたと謂う言い伝えがありましたが、その碑は戦災に遭い、戸塚村と刻んだ石のみが残っていました。そこで、宗教法人「解脱会」及び地元の方々の御協力を得て、現在の碑を昭和36年(1961)4月に再建し毎月17日を供養日と定め、通園・通学の児童達の交通安全と事故防止の祈願を込めて、この土地の御供養を致し今日に至って居ります。
 平成11年(1999)3月 同志 世話人一同










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