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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区戸山3-20-1

重要文化財

 学習院旧正門
     昭和48年(1973)6月2日指定



 この鋳鉄製の門は、はじめ明治10年(1877)に学習院が神田錦町に開かれた時、正門として建てられた。
 製作は埼玉県川口市の鋳物工場で、唐草文様をあしらった和洋折衷の鉄門は、明治初期の文明開化時の様式と技術を伝える貴重な文化財である。
 神田錦町の学習院校舎が明治19年(1886)焼失したあと、この門は各所を転々としたが、昭和5年(1930)目白の本院構内にもどり、その後昭和25年(1950)にこの地に移され、現在、学習院女子大学・学習院女子高等科・学習院女子中等科の正門として使用されている。
 平成16年(2004)4月 学校法人学習院

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所在地 新宿区戸山1・若松町

  下戸塚坂しもとつかさか
 江戸時代、この地は武家屋敷などで占められ、町名はつけられず、この坂も無名坂であった。
 明治5年(1872)下戸塚町となったことにより、この坂も町名と同じ下戸塚坂と呼ばれるようになった。
 平成16年(2004)2月 新宿区教育委員会

 


所在地
 【箱根山地区】 新宿区戸山2・3
 【大久保地区】 新宿区大久保3



 東京都立 戸山公園

 〔尾張藩徳川家下屋敷跡(戸山荘跡)・陸軍戸山学校跡

  箱根山地区の歴史
 この地区は、その昔源頼朝の武将和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。
 寛文8年(1668)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷なり、その総面積は約13万6千余坪(約44万8千8百余m)に及び、「戸山荘」と呼ばれるようになった。
 この「戸山荘」は、寛文9年(1669)に工事を始め、天和(1681~1683)・貞享(1684~1687)の時代を経て元禄年間(1688~1703)に完成した廻遊式築山泉水庭である。
 庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した25の景勝地が造られていた。
 なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも東海道五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
 その後、一時荒廃したが、寛政年間(1789~1800)の初め第11代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。
 安政年間(1854~1859)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(1868)を迎えた。
 明治7年(1874)からは陸軍戸山学校用地とない、第二次大戦後は国有地をなりその一部が昭和29年(1954)から今日の公園となった。
 陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。
 平成2年(1990)3月公園整備を記念して   東京都



 戸山公園には『箱根山』、『陸軍戸山学校跡記念碑』、『戸山教会』があります。

 


所在地 新宿区戸山2・3、大久保3 (都立 戸山公園)

  戸山教会・私立戸山幼稚園(将校会議室跡)



 陸軍戸山学校の将校が会議を行ったところです。

 


所在地 新宿区戸山2・3、大久保3 (都立 戸山公園)

 箱根山
 現在の戸山ハイツ一帯には、江戸時代尾張徳川家の下屋敷があり、戸山山荘といった。その一画に高さ44.6mの築山があり、それが現在の箱根山である。







 


所在地 新宿区戸山2・3、大久保3 (都立 戸山公園)

 陸軍戸山学校跡記念碑
この地は和田戸という武士の館の跡で源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ後代和田戸山と呼ばれた 寛文年間尾張徳川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された 明治6年(1873)その地に兵学寮戸山出張所が設けられ翌明治7年(1874)陸軍戸山学校と改称されて以来約70年にわたって軍事の研究教育が行なわれ国軍精強の基を培ったばかりでなく国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である この度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたってこの記念碑を建てて東京都に贈る
 昭和42年(1967)11月 元陸軍戸山学校緑故有志一同

 


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