忍者ブログ
東京都新宿区の歴史
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 新宿区弁天町103

真宗大谷派
 苗木山 南春寺
PR


所在地 新宿区弁天町95

日蓮宗
 常榮山 浄輪寺



 浄輪寺には『関孝和墓』があります。


所在地 新宿区弁天町95 (浄輪寺)

東京都指定史跡
 関孝和墓せきたかかず
     昭和33年(1958)10月7日指定

 和算を大成した関孝和は、駿河大納言徳川忠長に仕えた内山七兵衛永明の次男として生れました。出生地や生年は未詳ですが、その後甲府藩士の関五郎左衛門の養子となり、藩主綱豊が6代将軍家宣となったのちは、幕臣として納戸組頭を勤めました。
 孝和は従来の算木を用いた「天元術」を改良して「点竄術」と呼ばれる筆算式代数学を創案し、和算が高等数学として確立する礎を築きました。著述には『発微算法』等があり宝永5年(1708)に没した後は、門人により『括要算法』や「大成算経」等が著され、世に「算聖」と称されました。
 現存する2代目の墓石は舟形、高さ158センチ、鳳凰丸紋に「法行院殿宗達日心大居士、宝永五戌子年十月二十四日卒」、左側に「姓藤原、諱孝和、称関新助」とあります。
 平成20年(2008)3月設置 東京都教育委員会 

        Seki Takakaza Haka
 Seki Takakazu was a mathematician from the Early and Middle Edo Period,whoelaborated the Japanese mathematics.He was born as a second son to Uxhiyama Shichibe nagaakira who served for Tokugawa Tadanaga also known asa Suruga Ddainagon.The date of birth and brithplace of the great mathematician is unknown.He was then adopted by Seki Gorozaemon who served for a lord of Kofu domain at thet time,and after lord of Kofu domain Tsunatoyo was appointed as the sixth shogun and renamed Ienobu,he served as a Head of Accounting Department in the shogunate administrative system.
 Takakazu deeply studiedtianyuan shu or procedure of the celestial elemant,which were remarkably developed under the Song-Chin-Yuan dynasties;he also radically improved th procedure.He further foundations for the Japanese mathematics' way to advancedmath.His works include Mathematical Methods for Finding Details (1674);further after his death in 1708,his writings Compendium of Mathematics and Comprehensive Classic of Mathematics were published by his disciples,and the great mathematician was called a saint of mathematics.The extant second tombstone is shaped in a shape of ship and 158 cm tall,with a crest of Phenix openingwings in a circulara shepe,accompanied by an inscription stating Hogyo-inden Sodatsu Nisshin Daikoji died on October 24,1708,the Year of Boshi,as well as  aleft-side inscription He was of Fujiwara clan,and given an abtual name Takakazu,also known as Seki Shinsuke.
 Tokyo Metropolitan Board of Education


所在地 新宿区弁天町100

真言宗豊山派
 照臨山 多聞院 吉祥寺
 山号
照臨山 吉祥寺
 本尊
大日如来
 開基
寛永年間(1624~1629)に法印覚賢により開創された
 宗派
真言宗豊山派
 総本山
長谷寺 奈良県桜井市初瀬
 祖師

宗祖  弘法大師(空海)
中興祖 興教大師(覚鑁)
派祖  専誉僧正
 開宗
真言宗は、その源を遠くインドに発し、平安時代の初め、弘法大師が中国(投じの唐)におもむいてこれをもたらされ、日本に確立されました。
 教え
偏ねく、ものの存在を肯定する曼荼羅思想やすべての人間にやどる仏性の光明を見つめる即身成仏思想をもとに、世のため人のためにお報いしようという「四恩酬答」の教えが基本です。
 霊場
弘法大師 御府内八十八ヶ所霊場 第三十一番
 境内
御府内八十八ヶ所霊場開基 正等和尚の墓、記念碑
大正時代の女優 松井須磨子の墓及び比翼塚
大正時代の詩人 生田春月の詩碑

 多聞院には『吉川湊一墓』、『松井須磨子墓』、『比翼塚』、『生田春月の詩碑』があります。


所在地 新宿区弁天町100 (多聞院)
 
新宿区登録史跡
 吉川湊一墓よしかわそういち
     平成14年(2002)2月1日登録

 江戸後期に平家琵琶の奥義を極め、検校にまで昇進した吉川湊一(1748~1829)の墓所。
 湊一は紀州熊野の生まれ。幼い時に失明。八重橋検校に入門し、平家琵琶を習得する。やがてその名人となり、寛政6年(1794)には検校に昇進。文政9年(1812)全国の検校を統括する職検校にまで昇りつめた。この時期、湊一は平家琵琶の第一人者として重きをなした。
 平家琵琶とは、「平家物語」を琵琶の前奏で語る伝承芸能で、平曲・平家・平家詞曲ともいう。検校は、平家琵琶語りの組織「当道座」の最高位にあたる。
 湊一は、職検校在任中京都で暮らしたが、文政11年(1828)に隠退して江戸に下り牛込に居を構え、翌年亡くなった。
 墓石は高さ121.5センチメートル。側面から裏面にかけて、湊一の出自と経歴が刻まれている。
 平成15年(2003)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区弁天町100 (多聞院)

新宿区指定史跡
 松井須磨子墓まついすまこ
     昭和59年(1984)12月7日指定

 大正時代のはじめに伊勢市を風靡した新劇所湯松井須磨子は、本名を小林正子といい、明治19年(1886)長野県松代に生れた。
 父の死後上京し、明治42年(1909)24歳のとき坪内逍遥が主宰する文芸協会の女優募集に応募し、第一期生となった。
 明治44年(1911)「ハムレット」のオフィーリア、島村抱月訳・演出「人形の家」のノラにより新劇の代表的女優となる。
 のち、島村抱月とともに文芸協会を退会し芸術座を組織、中心女優として活躍し、特に「復活」のカチューシャで全国的人気を博した。
 大正8年(1919)1月5日に、前年11月に病死した抱月のあとを追って自殺した。享年34歳であった。
 なお、墓前には芸術比翼塚の碑が建てられている。
 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区弁天町100 (多聞院)

  生田春月の詩碑
わが空しくも斃れなば   
  
あまたの友よあとつぎて
    
われにまされる詩を書けよ
ジヤン・コクトオやワ゛レリイの
伊達のすさびをやめにして
書けよ心の血の叫び     春月




所在地 新宿区弁天町1

曹洞宗
 雲居山 宗参寺



 宗参寺には『牛込氏墓』、『山鹿素行墓』、『山鹿修玄庵貞以墓』、『乃木将軍遺愛の梅「春日野」』、『藤原勝登重忝墓』、『大蔵龍河墓』、『由美原泉墓』があります。

 


所在地 新宿区弁天町1 (宗参寺)

 牛込氏墓
 牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した豪族で、宗参寺の開基である。出自については「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によると大永6年(1526)にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。
 小田原北条氏に属し、はじめ大胡とも牛込とも名乗っていたが天文24年(1555)には北条氏から宮内少輔の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷・比々谷郷などを有していたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川家に仕えた。
 平成10年(1998)3月建設 東京都教育委員会

       Ushigome-shi Haka
 The Ushigome clan was a powerful family who settled in Ushigom,Edo since the middle of Muromachi Period.As per their origin,the Genealogy of the Ushigome Clan states that they were descendents of Fujiwara-no Hedesato and originally settled in Ogo,KOuzuke (in today's Gunma Pref.),which is however uncertain. It is confirmed by Documents on the Ushigome Clan,a Branch of the Edo Clan (tangible culturalassets designated by the Metropolitan Governmnt) that they already settled in 1526 in Ushigome.
 They were under control of the Hojo clan of Odawara,and originally used family name Ogo or Ushigome.The family head was entitled in 1555 to an honorary title unai shoyu and approved at the same time to use their official family name Ushigome.They held their own domains in Ushigome and HIbiya villages,and served for the Tokugawa clan after the destruction of the Hojo clan in 1590.
 Tokyo Metropolitan Board of Education 


忍者ブログ [PR]
町名
カウンター
現在の閲覧者数
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
歴史を未来に伝える。
HP:
性別:
男性