東京都新宿区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 新宿区新宿2-9-2 内藤新宿太宗寺の文化財 太宗寺(たいそうじ)は、慶長年間初頭(1596頃)に僧太宗の開いた草庵を前身として、のちの信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院です。 かつての内藤新宿の仲町に位置し「内藤新宿の閻魔(えんま) 」「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像・奪衣婆(だつえば)像や、江戸の出入口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅造地蔵菩薩など、当時の面影をのこす多数の文化財が伝えられています。 本堂 ①甲州道中と内藤新宿 内藤新宿の開設 徳川家康は、江戸に幕府を開いた直後の慶長・元和年間に、五街道(東海道・中仙道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の整備を行ないました。 甲州道中(甲州街道)は、慶長9年(1604)頃に整備が行なわれたもので、江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。 この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して4里8丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。 そこで浅草阿部川町(現元浅草4丁目)に住む名主喜兵衛(後の高松喜六)は、元禄10年(1696)に同志4名とともに同地を支配する代官細井九左衛門に、ここ太宗寺の南東に宿場を開設するよう願いを出しました。喜兵衛らがなぜ宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、5人は開設にあたり運上金5,600両を納めることを申し出たのでした(結局全額は納められなかった)。 このあたりには、文禄3年(1595)に成覚寺・正受院が、慶長元年(1596)頃に太宗寺が創建され、元和2年(1615)頃には四谷大木戸(元四谷4丁目交差点)も開設されました。また寛永2年(1625)頃からは町屋ができ、寛文年間(1661~1672)には「内藤宿」と呼ばれかなりの繁昌をみせていたため、この地を選んだのでしょう。 さて、この願いは翌元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部と旗本麻倉氏の屋敷地などを上地してこれにあてました。 こうして「内藤宿」は、元禄12年(1699)2月に開設のはこびとなり、同元禄12年4月には業務を開始しました。喜兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました(高松家の墓は愛染院〔新宿区若葉2-8〕にあり、区指定史跡に指定されている)。 宿場の様子 「内藤新宿」は東西9町10間余(約999m)、現在の四谷4丁目交差点(四谷大木戸)から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。 宿場は大きく3つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。 太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と任側を取扱う施設。内藤新宿の場合、人足50人・馬50疋と定められていたが、のちには共に25ずつとなった)、高札場(法度・掟書・罪人の罪状などを記し周知する立札)がありました。 「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる4宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、それを支えたのが旅籠屋と茶屋でした。 これらには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(1702)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました(飯盛女の共同墓地「子ども合埋碑」が、成覚寺〔新宿2-15-18〕にあり、区指定有形文化財に指定されている)。 宿場の廃止と明和の立返り このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。 これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたこと、旗本内藤新左衛門の弟大八が信濃屋の下男に殴られた事件などが原因といわれますが、8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。 その後、度重なる再興の願いにより、明和9年(1772)に宿場は再興されました。 閻魔堂 ②太宗寺の創建と内藤家 太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。 太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1628)内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くこととなりました。 これが縁で、寛文8年(1668)6代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。 内藤家は7代清枚(きよかず)以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。 太宗寺は、元禄15年(1702)・文化2年(1805)の火災や、関東大震災・第2次世界大戦でも大きな被害をうけましたが、歴代住職の尽力により、その都度復興してきました。 また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。 現在も、毎年お盆の7月15・16日には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。 なお、寺号「太宗寺」は、壮建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。 浄土院の寺院です。 不動堂 ③太宗寺の文化財 太宗寺には、江戸時代以来の多くの文化財が伝えられています。このうち銅造地蔵菩薩坐像(都指定文化財)、閻魔像・奪衣婆像・内藤正勝の墓・三日月不動像(区指定文化財)、切支丹灯篭(区登録文化財)の6点については、それぞれに説明板を設置してありますが、このほかにもつぎのような文化財があります。 ・太宗寺の曼荼羅 曼荼羅とは、密教の修法のため多くの仏像を一定の形式に基づいて描いた描いた図像をいいます。 太宗寺には、浄土宗の三大経典(観無量寿経・無量寿経・阿弥陀経)に基づく3幅の曼荼羅が伝えられており、涅槃図・十王図とともに毎年お盆の7月15・16日に本堂で公開されています。 観無量寿経曼荼羅(大曼荼羅) 〔新宿区指定有形文化財(絵画) 指定年月日 平成2年(1990)6月1日〕 通称「大曼荼羅」と呼ばれるもので、奈良県当麻寺の観無量寿経曼荼 羅を同寸大に模写したものです。 神に描かれており、総高425cm・全幅408cmの掛軸となっています。画像は縦・横とも386cmで、まわり表装は直接描かれたもの(画表装)です。 製作年代・作者についてはわかりませんが、江戸時代初期の製作と推定されます。 塩かけ地蔵 境内には『銅造地蔵菩薩坐像』、『閻魔像』、『奪衣婆像(だつえばぞう)』、『三日月不動像』、『布袋尊像』、『切支丹燈籠』、『内藤正勝の墓(内藤家墓所)』があります。 PR |
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