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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区片町



 新撰東京名所図会によれば「合羽坂は、四谷区市谷片町の前より本村町に沿うて、仲之町に上る坂路をいう。昔此坂の東南に蓮池と称する大池あり。雨夜など獺(かわうそ)しばしば出たりしを、里人誤りて河童(かっぱ)と思いしより坂の呼名と・・・転じて合羽の文字を用い云々」、何れにしても、昔この辺りは湿地帯であったことを意味し、この坂名がつけられたものと思われる。

  昭和58年(1983)3月 東京都



所在地 新宿区愛住町

  暗坂(くらやみざか) (暗闇坂)

 
四谷北寺町へ出る道で、坂の左右に樹木が繁って暗かったためこの名がついた(「再校江戸砂子」)。別名「くらがり坂」ともいう(「江戸名勝志」)。江戸時代、坂上一帯は多くの寺院が並び、四谷北寺町と呼ばれていた。
       平成18年(2006)2月  新宿区教育委員会


所在地 新宿区歌舞伎町1-13



    弁財天の縁起と歌舞伎弁天の由来

弁天様は佛教以前に賢者聖人の信仰厚き 宇賀神と稱する天地創造乃紙のお一方で 佛教北姑祖は天部のとし佛教の守護神として崇がめられた尊神である 宇賀神はもと渓流水源等水を司る神で妙音寺と云われ又美音天とも稱せられた文化神で 信仰すれば智恵が授かり芸術に長ずるところから 弁財天と云われ更に賽銭が授かる霊験のある処から 才の字が財北字に替り守財天と云われるようになった而して天部の神が垂れ賜う博愛を 美麗なる弁天のお姿で表現せられ信者は 弁天様乃愛稱で合掌する福の神様である



歌舞伎町は昔大村乃森と云われ広大な沼があって沼の邊りに 弁天様が祀られてあった 淀橋浮水場の建設に当り其の残土で沼は埋められ 峯島家で現在の場所に 弁天様は祀られ 大正2年(1913)堂宇の改築再建に当り不忍弁財天より現在安置乃 御本尊を勧請して9月巳巳の日に盛大な祭典が行われ爾来9月の巳の日を 歌舞伎弁天の祭日とせられた 大正12年(1923)に至り町内有志の発議により 峯島家 尾張屋銀行 町内篤志家乃浮財で大改装がせられたものであったが昭和20年(1945)4月の大空襲で本堂及びお守家も罹災した 其の時熱心な信者の一人岡安たか子氏は苛烈な空襲下に於て 弁天様の廚子を脊に奉戴し堂守の梅原氏が付添ひ笹塚に避難しアパートの一室に安置をした 間もなく岡安氏は 弁天様が峯島家に移り度いとの御告げがあったので梅原氏夫妻に詫び拕して峯島家にお移し申した 混乱した戦災時に於けるこの記録は信者の田中次郎吉氏に依って明らかにせられたものである 而して昭和21年(1946)復興協力會では全町戦災した歌舞伎町の計画建設に当り区画を整理せられた際 弁天だまの敷地は寸尺も変更せず以前のままを保存し復興協力会々長鈴木喜兵衛氏は街建設に魁がけて仮殿を建設し峯島家に安置せられてあった 御本尊をお移し申し現在に至ったものである この度 有志相寄り 弁天堂再建奉賛會を結成し大方の浮財を以て 永久不変の耐火構造に依り 御本尊を再建し 境内の改装を行ひ面目を一新して この霊験あらたかなる 歌舞伎弁財天を当町及び近隣の 守護神として永遠に崇め奉らんとする次第である

   昭和38年(1963)4月 歌舞伎町弁天堂再建奉賛會建立
                 奉賛會々長  藤森 作次郎
                 建設委員長  小松 太良八



所在地 新宿区四谷3-12 (丸正食品総本店)

  お岩水かけ観音由来 

 貞享年間(
16841687)四谷左門町に住む御家人宮又左衛門の一人娘お岩は迎えた婿養子伊右衛門の放が原因で哀しくも狂乱行方知れずになりそれからと云うものは種々怪奇な事件が頻発したが田宮家の菩提寺にてお岩の霊を供養したところようやく平穏になったと伝えられています
 この伝説をもとに脚色したのが鶴屋南北の東海道四谷怪談で文政八年(1825)三代目菊五郎の浅草市村座で初演大評判を得ました
 
爾来約三百年お岩稲荷は幾度か災禍をこうむり太平洋戦争でも焼失したが地元世話人によって再建され家庭円満無病息災商売繁盛などに霊顕霊■かと言われ参詣人はあとを絶たず崇敬者は広がって現在に至っております
 
当お岩水かけ観音は縁あって再建の世話人をつとめた飯塚五兵衛が昭和四十六年九月■丸正食品株式会社本社屋建築施行の際■かけ昭和四十九年九月二十三日満願にあ■稲荷と観音様の慈愛をこめて祈願成就のしるしとして新たに分祀建立したものです
  昭和四十九年九月二十五日



所在地 新宿区市谷八幡町15 (市谷亀岡八幡宮)

新宿区指定有形文化財(建造物)
   
市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居
     昭和62年(1987)1月30日指定



 文化元年(1804)12月建立の銅製明神型鳥居で、高さ4.6メートル、台石0.55メートル、柱には、初願者・当八幡宮別当第7世智光、造立者・東圓寺現住仁龍他7名、鋳物師・西村和泉藤原政平の建造銘と、寄進者442名の名前や職業が陰刻されている。



 「八幡宮」の額は、播磨姫路15万石の酒井家11代当主雅楽頭忠道の書によるもので、八の字は八幡宮の神使の鳩一対によって形成されている。



 区内に現存する優位イツの銅製鳥居で、意匠や鋳造技術にも優れており貴重である。
  平成5年(1993)11月 東京都新宿区教育委員会

所在地 新宿区市谷八幡町15 (市谷亀岡八幡宮)
 
新宿区登録有形文化財(工芸品)
  市谷亀ヶ岡八幡宮の軍配団扇
      昭和62年(1987)1月30日登録

 御府内備考続編之7目録(神社部・市谷八幡宮)には「団扇一本右者太田道灌所持之品図左之通」とあり、左に軍配団扇の図が記してある。市谷亀岡八幡宮には右記のものとして伝えられる軍配団扇が現在も保存されている。
 木製の柄に竹を編み、間に紙を挟み、表面には黒紫色で漆を塗って仕上げてあるが、文様、文字はない。
 製作年代は未詳であるが、太田道灌ゆかりの軍配団扇として伝えられており、貴重である。
    平成5年(1993)11月   東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区市谷八幡町15 (市谷亀岡八幡宮)

新宿区指定有形民俗文化財
  市谷亀ヶ岡八幡宮の力石  
     平成5年(1993)3月5日指定

 力石は、祭礼の時などに村人が力くらべをし、その石を奉納したものである。



 市谷亀ヶ岡八幡宮の力石は、合計7個が保存されている。
 卵形の自然石に、石の重さと、奉納した者あるいは持上げた者の名が刻まれており、うち3個には奉納された年も刻まれている。



 年代のわかるものでは、寛政6年(1794)を最古とし、その他も江戸時代後半のものと考えられる。
 数量的にもまとまっており、当時の祭や娯楽を知る上で貴重な民俗資料である。
  平成5年(1993)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿5-17-3

 花園神社(元花園稲荷神社)は江戸開府以前から新宿の総鎮守として信仰を集めています。






                             拝殿

 

 境内には『唐獅子』、『納大明神』、『威徳稲荷大明神』、『芭蕉句碑「春なれや~」』、『芭蕉句碑「蓬萊に~」』、『二宮金次郎像』、『内藤トウガラシとカボチャ説明版』、『忠魂碑』、『芸能浅間神社』、『「圭子の夢は夜ひらく」の碑』があります。


                             
神楽殿



所在地 新宿区新宿5-17-3 (花園神社)

納大明神(納め大明神)おさめだいみょうじん

 


所在地 新宿区新宿5-17-3 (花園神社)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
花園神社の唐獅子像
     昭和59年(1984)11月5日指定

 文政4年(1821)に造立された雌雄一対の銅製の唐獅子像である。
 内藤新宿の氏子たちにより寄進されたもので、台座の銅板には発願者等の名が刻まれている。
 像高75センチ、台座は高さ137センチ、幅119センチで、江戸末期の鋳工としてい名高い初代村田整珉の作である。



 花園神社は慶安元年(1648)尾張公の別邸内に創建された。別邸内に花園があったところから花園神社と呼ばれ、内藤新宿の鎮守として信仰された。 
  平成3年(1991)1月 新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区新宿2-9-2
  
   内藤新宿太宗寺の文化財
 太宗寺(たいそうじ)は、慶長年間初頭(1596頃)に僧太宗の開いた草庵を前身として、のちの信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院です。
 かつての内藤新宿の仲町に位置し「内藤新宿の閻魔(えんま) 」「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像奪衣婆(だつえば)像や、江戸の出入口に安置された「江戸六地蔵」のひとつである銅造地蔵菩薩など、当時の面影をのこす多数の文化財が伝えられています。
 

  本堂
  
  ①甲州道中と内藤新宿
 
   内藤新宿の開設
 徳川家康は、江戸に幕府を開いた直後の慶長・元和年間に、五街道(東海道・中仙道・奥州道中・日光道中・甲州道中)の整備を行ないました。
 甲州道中(甲州街道)は、慶長9年(1604)頃に整備が行なわれたもので、江戸から甲府を経て下諏訪で中仙道に合流します。
 この街道の最初の宿場は高井戸(現杉並区)でしたが、日本橋を出発して4里8丁(16.6km)もあったため、人馬ともに不便でした。
 そこで浅草阿部川町(現元浅草4丁目)に住む名主喜兵衛(後の高松喜六)は、元禄10年(1696)に同志4名とともに同地を支配する代官細井九左衛門に、ここ太宗寺の南東に宿場を開設するよう願いを出しました。喜兵衛らがなぜ宿場開設を願い出たのか、その理由はわかっていませんが、5人は開設にあたり運上金5,600両を納めることを申し出たのでした(結局全額は納められなかった)。
 このあたりには、文禄3年(1595)に成覚寺・正受院が、慶長元年(1596)頃に太宗寺が創建され、元和2年(1615)頃には四谷大木戸(元四谷4丁目交差点)も開設されました。また寛永2年(1625)頃からは町屋ができ、寛文年間(1661~1672)には「内藤宿」と呼ばれかなりの繁昌をみせていたため、この地を選んだのでしょう。
 さて、この願いは翌元禄11年(1698)6月に許可となり、幕府は宿場開設の用地として、譜代大名内藤家の下屋敷(現新宿御苑)の一部と旗本麻倉氏の屋敷地などを上地してこれにあてました。
 こうして「内藤宿」は、元禄12年(1699)2月に開設のはこびとなり、同元禄12年4月には業務を開始しました。喜兵衛らも移り住み、名主などをつとめ町政を担当しました(高松家の墓は愛染院〔新宿区若葉2-8〕にあり、区指定史跡に指定されている)。

   宿場の様子
 「内藤新宿」は東西9町10間余(約999m)、現在の四谷4丁目交差点(四谷大木戸)から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。
 宿場は大きく3つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。
 太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と任側を取扱う施設。内藤新宿の場合、人足50人・馬50疋と定められていたが、のちには共に25ずつとなった)、高札場(法度・掟書・罪人の罪状などを記し周知する立札)がありました。
 「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる4宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、それを支えたのが旅籠屋と茶屋でした。
 これらには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(1702)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました(飯盛女の共同墓地「子ども合埋碑」が、成覚寺〔新宿2-15-18〕にあり、区指定有形文化財に指定されている)。
 
   宿場の廃止と明和の立返り
 このように大変な賑わいをみせた「内藤新宿」でしたが、享保3年(1718)には開設後わずか20年にして、宿場は廃止となります。
 これは、利用客の少なさ、旅籠屋の飯盛女がみだりに客を引き入れたこと、旗本内藤新左衛門の弟大八が信濃屋の下男に殴られた事件などが原因といわれますが、8代将軍徳川吉宗の「享保の改革」に伴う風俗統制の影響もあったようです。
 その後、度重なる再興の願いにより、明和9年(1772)に宿場は再興されました。


  閻魔堂

  ②太宗寺の創建と内藤家

 太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。
 太宗は、次第に近在の住民の信仰をあつめ、現在の新宿御苑一帯を下屋敷として拝領していた内藤家の信望も得、寛永6年(1628)内藤家第5代正勝逝去の際には、葬儀一切をとりしきり、墓所もこの地に置くこととなりました。
 これが縁で、寛文8年(1668)6代重頼から寺領7396坪の寄進をうけ起立したのが、現在の太宗寺です。
 内藤家は7代清枚(きよかず)以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が営まれています。
 太宗寺は、元禄15年(1702)・文化2年(1805)の火災や、関東大震災・第2次世界大戦でも大きな被害をうけましたが、歴代住職の尽力により、その都度復興してきました。
 また「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。
 現在も、毎年お盆の7月15・16日には、盆踊りとともに閻魔像奪衣婆像の御開扉、曼荼羅・十王図・涅槃図の公開が行われています。
 なお、寺号「太宗寺」は、壮建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一帯が霞ヶ関と呼ばれていたことに因み、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。
 浄土院の寺院です。


  不動堂

  ③太宗寺の文化財

 太宗寺には、江戸時代以来の多くの文化財が伝えられています。このうち銅造地蔵菩薩坐像(都指定文化財)、閻魔像奪衣婆像・内藤正勝の墓・三日月不動像(区指定文化財)、切支丹灯篭(区登録文化財)の6点については、それぞれに説明板を設置してありますが、このほかにもつぎのような文化財があります。
 ・太宗寺の曼荼羅
 曼荼羅とは、密教の修法のため多くの仏像を一定の形式に基づいて描いた描いた図像をいいます。 
 太宗寺には、浄土宗の三大経典(観無量寿経・無量寿経・阿弥陀経)に基づく3幅の曼荼羅が伝えられており、涅槃図・十王図とともに毎年お盆の7月15・16日に本堂で公開されています。

 観無量寿経曼荼羅(大曼荼羅)
    〔新宿区指定有形文化財(絵画)
         指定年月日 平成2年(1990)6月1日〕
 通称「大曼荼羅」と呼ばれるもので、奈良県当麻寺の観無量寿経曼荼 羅を同寸大に模写したものです。
 神に描かれており、総高425cm・全幅408cmの掛軸となっています。画像は縦・横とも386cmで、まわり表装は直接描かれたもの(画表装)です。
 製作年代・作者についてはわかりませんが、江戸時代初期の製作と推定されます。

 
塩かけ地蔵

 境内には『銅造地蔵菩薩坐像』、『閻魔像』、『奪衣婆像(だつえばぞう)』、『三日月不動像』、『布袋尊像』、『切支丹燈籠』、『内藤正勝の墓(内藤家墓所)』があります。


所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

東京都指定有形文化財(彫刻)
   銅像地蔵菩薩坐像(江戸6地蔵のひとつ)
                附旧像内納入品     
                昭和45年(1970)8月3日指定

 江戸時代の前期に、江戸に出入口6ヶ所に造立された「江戸六地蔵」のひとつです。
 銅造で像高は267cm、正徳2年(1712)9月に「江戸六地蔵」の3番目として甲州街道沿いに造立されたもので、製作者は神田鍋町の鋳物師太田駿河守正儀です。
 なお、像内には小型の銅造六地蔵六体をはじめ、寄進者名簿などが納入されていました。
 「江戸六地蔵」は、深川の地蔵坊正元が発願し、江戸市中から多くの寄進者を得て造立したものです。各像にはその名前が刻まれていますが、その合計は7万2千名以上におよんでいました。
 この他の「江戸六地蔵」は次のとおりですが、永代寺のものは現存していません。

   品川寺  品川区南品川3-5-17   宝永5年(1708)造立
   東禅寺  台東区東浅草2-12-13   宝永7年(1710)造立
   真性寺  豊島区巣鴨3-21-21    正徳4年(1714)造立
   霊巌寺  江東区白河1-3-32    享保2年(1717)造立
   永代寺  江東区富岡1-15-1    享保5年(1720)造立

 東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日改正)により、文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更しましたので、石造標識については、このように読み替えて下さい。
  東京都教育委員会


所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

新宿区指定有形民族文化財
    閻魔像 
     昭和61年3月7日指定

 木造彩色、総高550cmにもおよぶ巨像で、目をむき大きな口をあけて見据える姿は拝観者を恐れさせ、子どものしつけのため参拝されたりしました。
 文化11年(1814)に安置されたとされ、製作もその頃のことと推定されます。しかし、数度の火災による度重なる補修を受けたため、製作当初の部分は頭部を残すだけとなっています。
 江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰をあつめ、かつては薮入り(1月と7月の16日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)に閻魔大王の縁日が出て賑わいました。
 また、弘化4年(1847)3月5日には泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起り、錦絵になるなど江戸中の評判になりました。
 なお、閻魔堂正面にかかる「閻魔殿」の額は、中国清朝の官吏秋氏が嘉永3年(1850)に奉納したものです。
 現在は、お盆の7月15日・16日に御開扉されています。


所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

新宿区指定有形民俗文化財 
   奪衣婆像(だつえばぞう)  
       昭和61年(1986)3月7日指定

 閻魔堂内左手に安置されている坐像です。
 木造彩色で、総高は240cm、明治3年(1870)の製作と伝えられます。
 奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったとされています。この像でも、右手には亡者からはぎ取った衣が握られています。
 また、衣をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ信仰されました。


所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
   
三日月不動像  
     
昭和59年(1984)11月2日指定

 額の上に銀製の三日月をもつため、通称三日月不動と呼ばれる不動明王の立像です。
 銅造で、像高は194cm、火炎光背の総高は243cm。江戸時代の作ですが、製作年・作者などは不明です。
 寺伝によれば、この像は高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休息のため立寄った太宗寺境内で、磐石のごとく動かなくなったため、不動堂を建立し安置したと伝えられています。
 なお、額上の三日月は、弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで、あまねく済み渡せん」との誓願によるものといわれます。このため、像の上野屋根には窓が取付けられ、空を望むことができます。


所在地 新宿区新宿2-9-2
 (太宗寺)

 新宿山の手七福神 
  布袋尊像


 新宿山の手七福神は、昭和初期に有志により創設されたもので、太宗寺布袋尊)・鬼王神社恵比寿神)・永福寺(福禄寿)厳島神社(弁財天)法善寺(寿老人)経王寺(大黒天)善國寺毘沙門天)の7ヶ所となっています。
 布袋尊は中国の禅僧がモデルで、豊かな暮らしと円満な家庭の守護像です。


所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

新宿区登録有形文化財(歴史資料)
   切支丹灯籠(きりしたんどうろう)
       昭和60年(1985)3月1日登録

 昭和27年(1952)太宗寺墓地内の内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の笠・火袋部分も復元し補われています。
 石質は白みかげ石で、江戸時代中期の製作と推定されます。
 切支丹灯籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝したとされるもので、織部型灯籠(安土桃山時代~江戸初期の大名・茶人古田織部の好んだ灯籠)の全体の刑状は十字架を、また竿部の彫刻はマリア像を象徴したものであると解釈されマリア観音とも呼ばれています。


所在地 新宿区新宿3-38-1 (新宿駅東口広場)

新宿区指定有形文化財(工芸品)
馬水槽(ばすいそう)
     昭和61年6月6日指定

19世紀にロンドン市内で馬・犬猫・人間に飲料水を供給した石造品で、イギリスから贈られたものである。動物愛護の精神に基づく水飲み施設で、交通運搬と都市水道発展の歴史を物語る記念物である。



 「みんなの泉」の由来

東京の上水道育ての親、中島鋭司博士が明治34年(1901)から欧米諸国を視察した際、ロンドン水槽協会から東京市に寄贈されたもので、現在では世界に3つしかない貴重なものである。赤大理石製で上部は馬、下部が犬猫、裏面が人間用と、動物愛護の精神が息づいており、明治から大正にかけては当時の重要交通機関であった馬がよく利用していた。昭和39年(1964)の新宿民衆駅完成を記念して現在の場所に移転 その際、「馬水槽」と呼ばれていたものを一般より公募した「みんなの泉」と改称され、現在では新宿区の文化財に指定されている。
  新宿ライオンズクラブ


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