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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区中落合1

  見晴坂

 この坂上からの眺望は素晴しく、特に富士山の眺めは見事であったという。坂名はその風景に由来するものであろう。
 なお、坂下の水田一帯は落合螢の名所として知られた(『江戸名所図会』)。
 平成18年(2006)2月  新宿区教育委員会
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所在地 新宿区南元町19

  千日坂

 この坂下の低地は、一行院千日寺があるため千日谷と呼ばれていた(『紫の一本』)。坂名も千日寺にちなんで名づけられたと考えられる。なお、かつての千日坂は消滅し、現在の千日坂はそれと前後して造られたいわば新千日坂である。


所在地 新宿区霞ヶ丘町1 (明治神宮外苑)

  なんじゃもんじゃの木碑
 この木は、和名「ひとつばたご」俗名「なんじゃもんじゃ」と呼ばれ昔からこの地内にあった名木です。5月始めの頃、白い清楚な花が咲き、満開時は雪を被ったように見えます。


 
この木の親木は古く幕末の頃、ここから南へ約400メートルの六道の辻にあったので、「六道木」とも呼ばれた珍しい木である。
明治18年(1885)にこのあたりは青山練兵場となったが、時の政府は所有者、萩原三之助からこれを買上げそのまま残した。
明治36年(1903)、白井光太郎博士(元帝国大学教授)が政府にこの木の保護願いを出し、種々尽力したため大正13年(1924)12月天然記念物の指定を受け保護されることになった。
然し樹齢百数十年といわれた名木も遂に昭和8年(1933)枯死した。
練兵場に枝を広げて立つ明治39年(1906)頃の六道木の姿は、絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)の中に描かれており、またその遺木の一部絵画館内に飾られている。
ここにあるひとつばたごは、2代目六道木で、明治36年(1903)頃白井博士が根接法により得たものであると伝えられている。
この由緒ある名木を、できるだけ多くの方にご覧いただくため、このたび碑石と共にここに移し植えたものである。
ひとつばたごの名称は、江戸時代の植物学者水谷豊文が、尾州二ノ宮山中(愛知県)でこの木を発見し名づけたものと伝えられるもくせい科に属する落葉樹で、国内では愛知、岐阜、対馬に産し、都内では十数ヶ所に見られる。
 昭和53年(1978)12月 明治神宮外苑


 初代 ヒトツバタゴ(六道木)俗名 なんじゃもんじゃ
      大正13年天然記念物指定


 


所在地 新宿区霞ヶ丘町1 (明治神宮外苑)

  樺太国境画定標石
時  明治39年(1906)~明治40年(1907)
所  樺太日露境界
 明治37年(1904)、8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯五十度以南は、日本の領土となりました。
その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年(1907)9月4基の天測標と17基の小標石を建てて境界を確定しました。
 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の1つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。
 日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。
 又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。
 昭和54年(1979)6月2日 明治神宮外苑

 


所在地 新宿区霞ヶ丘町1 (明治神宮外苑)

  御鷹の松(お鷹の松)
大正7年(1918)明治神宮外苑競技場(現国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川3代将軍家光(1603~1651)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある2代目の松(樹齢推定200年 高さ4メートル)は昭和39年(1964)、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。
 昭和54年(1979)10月 明治神宮外苑

 


所在地 新宿区霞ヶ丘町1 (明治神宮外苑)

  聖徳記念絵画館
徳川幕府を改め、日本史上空前の大改革・明治維新が断行され、西欧の諸国が300年を要した国家の近代化を、僅か40年ばかりで成しとげた輝かしき明治の時代。当代一流画家の筆に成る館内展示の80面の大壁画が、明治天皇を中心に、わが国近代化へと飛躍の姿・歴史事件の数々を静かに語りかけてくれます。生きた明治史の教室といえましょう。



 


所在地 新宿区霞ヶ丘町1 (明治神宮外苑)

  葬場殿跡
明治天皇が明治45年(1912)7月30日にお亡くなりになり、その御葬儀が9月13日に全国民の悲しみのうちにこの場所(当時の青山練兵場)で行われました。ここがその時に御柩車が置かれた葬場殿のあとです。
中央の大木はこのことを記念して植えられた楠の木です。
 明治神宮外苑

 


所在地 新宿区霞ヶ丘町2 (明治神宮外苑)

  ウォーキング運動発祥記念碑
 日本ウォーキング協会は、東京オリンピック開催中の1964年(昭和39年)10月17日に、ここ新宿区の明治神宮外苑絵画館前から世田谷の東京五輪記念世界青少年キャンプに向けて第1回大会を開催しました。
 私たちは、運動発足40周年を記念して、八田一朗初代会長による機関紙の題字「あるけあるけ」を掲げ、ウォーキング運動発祥記念碑といたします。
 2004年(平成16年)10月17日 (社)日本ウォーキング協会


所在地 新宿区霞ヶ丘町8 (明治神宮外苑)

  建国記念文庫
昭和41年12月9日、建国日制定審議会は2月11日を建国記念の日として答申、即日法律によって発布された。この間、数十万通に及ぶ、記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。
建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり、千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。



建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施行し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。
礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。
 昭和44年(1969)2月11日
 元建国記念日制定審議会長 菅原通済記

 


所在地 新宿区霞ヶ丘町10 (明治神宮外苑)

  秩父宮記念スポーツ博物館
秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王殿下は昭和天皇の弟宮で20世紀前半の日本のスポーツの発展に尽くされるとともに、自らも山岳やボートを楽しまれるなど、スポーツをことのほか愛され、「スポーツの宮様」として国民に親しまれておられました。しかし、不幸にして1953年(昭和28年)1月4日、50歳という若さで世をお去りになりました。
当博物館は、殿下のスポーツに対するご功績を永く記念するとともに、日本のスポーツの歴史的資料を収集、保存、公開するために、1959年(昭和34年)1月に、本格的な総合スポーツ博物館として開館しました。
館内には、殿下ご自身がご使用になられた数々のスポーツ用具や関係資料とともに、けまり、やぶさめをはじめとした日本の古いスポーツ、古代から現代にいたるオリンピックや国内外の競技大会等、スポーツの発展が一目でわかる資料を展示しています。
また、隣接のスポーツ図書館では、スポーツ史に重点を置いた資料を公開しています。

 


所在地 新宿区霞ヶ丘町 (明治神宮外苑)

  明治神宮外苑の舗装
 明治神宮外苑の道路の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本覚益那加熟アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。
 この工事は、我が国においてワービット(Warrenite-Bitulithicの略)工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械化施工が行われました。
 この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。



    当時の工事概要
(1)発注者:明治神宮造営局
(2)施行面積:59,096㎡
(3)施行費用:167,135円
(4)工期:1924年5月~1926年1月
(5)監督者:工学博士・藤井眞透



 平成16年度 土木学会選奨土木遺産
対象構造物 聖徳記念絵画館前通り
受賞理由 東京を代表する道路景観であり、ワービット工法を利用したわが国最古級の車道用アスファルト舗装である。


所在地 新宿区下落合2-10

  新宿区立おとめ山公園
 面積      15,054.30㎡
 開園年月日 昭和44年(1969)7月1日

 江戸時代には、このあたり一帯をおとめ山と呼んでいた。将軍家の狩猟地で、立ち入り禁止の意味の御留山から起った名と言われている。
 明治以降は、おとめ山を東西に分けて、東側を近衛家、西側を相馬家が所有した。相馬家は林泉園と称して庭園として利用、庭内は池泉を中心とした回遊式で、大正3年(1914)、長岡半平が築造し、現在一部が公園に残っている。
 その後、分譲され、戦後は大蔵省が所有していたが、荒れ果てていたものを、地元の文化人らが大蔵省に陳情して、公園として整備されることになり、昭和44年(1969)に新宿区立おとめ山公園として開園の運びとなった。
  新宿区



           HISTORY OF SHINJUKU-KU OTOME-YAMA PARK
 In the Edo Era this area was called Otome-Yama.It was a hunting ground exclusively for the Tokugawa shogunate,and ordinary people were not allowed to enter the area (Otome means "Keep Out! and Yama means a hilly mountain).
 After the Meiji Period,Otome-Yama was divided into the East Side and the West Side,and the East Side was possessed by the Konoe family and the West Side by the Soma family.The Somas used the West Side as a garden and named it "Rinsen-en".The central part of this landscape garden in the go-round style has a pond with a fountain.The garden was made by Hanpei Nagaoka in 1914 and a part of the garden still remains,as it was then,today.
 After that,the West Side was sold in lots.After World War Ⅱ,the West Side came into the possession of the Ministry of Finance and was left as a desolate place.
 Men of culture living in t he vicinity sent a petition to the Ministry of Finance.Thanks to thier eddorts,it was desided to develop this area as a park,and the park was opend in 1969 as Otome-Yama Park of Shinjuku-ku.



    おとめ山賛歌
山を上れば  林間広場
緑を縫って  小鳥とぶ
山を下れば  泉の広場
谷の襞から  清水わく
野鳥の森の  歌声響き
弁天池には  カモ遊ぶ
先人残せし  おとめ山
遥か未来へ  伝えたい
 平成11年(1999)10月  おとめ山の自然を守る会


所在地 新宿区下落合2

  相馬坂
 この坂に隣接する「おとめ山公園」は、江戸時代には将軍家御鷹場として一般人の立入りを禁止した御禁止山(おとめやま)であった。この一帯を明治時代末に相馬家が買い取って屋敷を建てた。この坂は新井薬師道から相馬邸に向け新たに通された坂道であるため、こう呼ばれた。

 


所在地 新宿区下落合4-3

  下落合弁財天




 下落合弁財天境内には『下落合横穴墓郡跡』の説明板があります。
 人骨

所在地 新宿区下落合4-3 (下落合弁財天裏手一帯)

新宿区登録有形文化財(考古資料)
 下落合横穴墓郡跡
     昭和61年(1986)3月7日登録

 直刀

 ここ下落合弁財天の裏手一帯は、昭和41年(1966)7月、宅地造成中に発見された下落合横穴墓群の跡である。
 下落合横穴墓群は、7世紀後半から8世紀初頭頃のものと推定され、妙正寺川に臨む落合台地の側面に、川の氾濫を避けるように4基の横穴墓が確認された。
 出土品のうち人骨2体と直刀(刀身79センチメートル)は、新宿区登録有形文化財に登載され、現在は、新宿歴史博物館が所蔵し、横穴墓の断面模型などとともに常設展示のなかに展示されている。
 平成7年(1995)8月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区下落合4-8-2

真言宗 豊山派
 瑠璃山 医王寺 薬王院
     通称「東長谷寺」


 御府内八十八ヶ所 第三十六番



本尊 薬師瑠璃光如来

開基 願行上人(鎌倉幕府頼朝公の帰依僧)
中興 実寿和尚(延宝年間1673~1680)

総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
  
祖師
 宗祖 弘法大師(空海)
 中興祖 興教大師(覚鑁)
 派祖 専誉僧正


   
  開宗
真言宗は、平安時代初期に弘法大師によって中国からもたらされ、わが国で開宗されました。
  教え
大日如来を中心とした曼荼羅思想などです。
  本尊真言
おんころころ せんだりまとうぎ そわか
  お経
般若理趣経・光明真言などです。
  ご宝号
南無大師遍照金剛・南無興教大師・南無専誉僧正
  行事
護摩法要(2月3日午後2時)
大般若法要(5月1日午後2時)
施餓鬼法要(7月12日午後2時)
花まつり(仏生会)、春秋彼岸会

 


所在地 新宿区下落合4

  久七坂
 『豊多摩郡誌』には、もとは田んぼへ行き来するための道で、急な坂であったと記されている。
 坂名は、ゆかりのある村人の名にちなむものであろう。
 平成18年(2006)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区上落合1-26-19

  月見岡八幡神社
 古くから上落合の鎮守社で、境内には昔からの石造品が多い。特に正保4年(1647)に立てられた庚申塔は区内最古のものであり、200年以上の歴史を持つ鰐口と、谷文晁画の板絵とともに、区の文化財に指定されている。



  由緒
豊臣氏の公簿に古跡神社と記載さる当社の創建に極めて古く其の地が余戸の郷と言はれ、以前旧境内の樹間に涌く溢れ井を錦に染めし月光の華麗さに里人が月の美霊と崇め敬わしに創まる神地にして後世三社に座す八幡大神を合祀し奉るに及むべし
月見岡八幡神社と改称し今日に至りしものや


 
三社齋神 品陀和気乃命 息長帯比売ノ命 大雀乃命

旧齋神 月読命美井乃神 杉井乃神

 祭日
五月中          午前十時 末社祭
九月第一日曜     午前九時 例大祭
一月一日        午前十時 元旦祭
二月三日閏年四日    午後三時半 節分祭

 月見岡八幡神社境内には『庚申塔』、『谷文晁の絵』、『鰐口』があります。


所在地 新宿区上落合1-26-19 (月見岡八幡神社)

新宿区指定有形民俗文化財
 月見岡八幡神社の
庚申塔
    昭和60年(1985)8月2日指定

 正保4年(1647)に造立された区内最古の庚申塔である。宝篋印塔形で、高さ184.5センチ、石質は安山岩である。
 塔身部の四面にはそれぞれ金剛界四仏の種子が、また基礎部の四面には造塔銘が刻まれている。
 平成6年(1994)6月 東京都新宿区教育委員会


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