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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区新宿2-9-2 (太宗寺)

新宿区指定史跡
  内藤正勝の墓(内藤家墓所) 
     平成7年(1995)2月3日指定

 江戸時代に信州高遠の藩主をつとめた(元禄4年より幕末まで)譜代大名内藤家の墓所です。
 現在の墓所は、昭和27年(1952)東京都の区 画整理事業に伴い、墓地の西北部にあったものを現在地に改葬したもので、約300坪・57基の墓塔を現存の3基に改葬し、改装記念碑を建立しました。
 墓塔は3基とも法篋院塔で、中央が5代内藤正勝(寛永6年造立)、右側が13代内藤頼直、左側が内藤家累代の墓塔(ともに明治時代の造立)となっており、このうち内藤正勝の墓は区指定史跡に指定されています。
 太宗寺は、寛永6年(1628)にこの内藤正勝が葬られ、6代内藤重頼が寺地を寄進し起立したものですが、正徳4年(1714)7代内藤清枚が葬られて以後此処を歴代の墓所とし、当主のほか一族が葬られました。
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所在地 新宿区原町1-14

新宿山の手七福神

   大黒天
     


 経王寺の大黒天像
新宿区指定有形文化財 彫刻
            昭和60年(1985)7月5日指定

 山の手七福神のひとつで、日法上人の作、慶長3年(1598)に甲斐国身延山より移されたと伝えられる。



 高さ12センチの木彫立像で、大黒頭巾をかぶり小槌と大袋を持ち台座に乗る通規の様式だが、江戸時代のものと異なり、微笑面ではなく厳しい表情をしている。



 室町時代の作と考えられ、度重なる火災にも焼け残ったことから「火伏せ大黒」として崇敬されている。

 平成3年1月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区市谷山伏町8

 浄土真宗大谷派
    
分應山 常敬寺

 親鸞聖人御尊像



所在地 新宿区余丁町8-5

新宿山の手七福神

   辨財天 通称 抜弁天



   厳嶋神社・抜弁天

1、由来
 白河天皇御代 応徳3年(1086)鎮守府将軍・源義家公は、後3年の役で奥州征伐の途上この地に立ち寄り、遠く富士を望み安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳嶋神社の始めと伝えられている。(豊多摩郡誌参照)



2、江戸時代
 参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられている。また山の手七福神を構成する弁財天でもある。

安政4年(1857)

 江戸幕府の地誌 大久保絵図(安政4年)には、別当ニ尊院・抜弁天と記載され、また他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。

嘉永5年(1852)

 徳川綱吉将軍の「生類憐みの令」により、この附近に2万5千坪の犬小屋が設けられていた。


所在地 新宿区西新宿7-12-5

    日蓮宗

 福聚山 常圓寺(常円寺)

         通称  成子の常圓寺





所在地 新宿区新宿6-21-1



 安貞2年(1228)に明恵上人(みょうえしょうにん1173~1232)が創建したと伝えられ、社殿が西を向いているため西向天神と呼ばれました。また棗(なつめ)の天神とも呼ばれます。『江戸名所図会』ではその由来を不明としていますが、一説に三代将軍家光が鷹狩りの際に立ち寄り、境内が荒れている様を見て、黄金の棗を下されたからといわれています。



 天正年間(1573~1592)に兵火を受け焼失しましたが、村人により祠(ほこら)が建てられ、その後、聖護院宮道晃法観王(しょうごいんのみやどうこうほっしんのう)が江戸に下った際に、元信(げんしん)という僧侶に命じ社殿などが再建されました。天保13年(1842)には富士塚が築かれ、現在でも境内に残っています。



 別当寺(べっとうじ)であった梅松山大聖院(ばいしょうざんだいしょういん)は、神社の北側にあります。江戸時代には聖護院宮を開基とする門跡寺院で、本山修験派の江戸の拠点となっていました。


  富士塚

 境内には、太田道灌山吹の里伝説に登場する紅皿の墓と伝えられる板碑があり、寺の前の狭い石段を山吹坂と呼んでいます。







 新宿の女歌碑

   新宿の女

  作詞・作曲  石坂まさを
  共作詞        みずの稔
  歌唱      藤圭子

私が男に なれたなら 
私は女を 捨てないわ
ネオンくらしの蝶々には 
やさしい言葉が しみたのよ
バカだな バカだな 
だまされちゃって
夜が冷たい 新宿の女


所在地 新宿区新宿7-12-5

新宿区指定史跡   指定年月日 昭和61年(1986)10月3日
   便々館湖鯉鮒狂歌碑(べんべんかんこりふきょうかひ) 
 江戸時代中期の狂歌師便々館湖鯉鮒(1749~1818)は本名を大久保正武といい牛込山伏町に住み、始めは福隣堂巨立と号し、のちに便々館と改めた。
 この狂歌碑は自然の青石に彼の代表作

三度たく米さへこはしやはらかし
  おもふままにはならぬ世の中

が刻まれている。
 書は狂歌中興の祖大田南畝(蜀山人)の揮毫で文政2年(1819)に建立された狂歌史上貴重なものである。
 平成5年(1993)1月  東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区神楽坂1-3 (東京理科大学)

 この建物は本学の前身東京物理学校が明治39年(1906)に現在の6号館の場所(当時の地番では東京市牛込区神楽町2-24)に木造2階建後者を新築した時撮影した現存するただ1枚の写真から忠実に復元したものです。敷地の関係で当時より規模は少し小さくなっており、また建築法規も違うため窓の構造が若干異なりますが、可能な限り明治の校舎に近いものとなるように心掛けて、明治建築様式を再現した建築物です。



所在地 新宿区市谷船河原町九番地

 掘兼の井とは、「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味である。掘兼の井戸の名は、ほかの土地にもあるが、市谷船河原町の掘兼の井には次のような伝説がある。
 昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで素手で井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。
 平成3年(1991)11月  東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区市谷船河原町 - 神楽坂1

  庾嶺坂ゆれいざか

 江戸初期この坂のあたりが美しい梅林であったため、二代将軍秀忠が 中国の梅の名所の名をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(『御府内備考』)。別名「行人坂」「唯念坂(ゆうねんざか)」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」とも呼ばれる。
  平成2年(1990)3月  新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区左門町17

都旧跡
 田宮稲荷神社跡
     昭和6年(1931)12月2日指定

 文化文政期に江戸文化は爛熟期に達し、いわゆる化政時代を出現させた。歌舞伎は民衆娯楽の中心になった。「東海道四谷怪談」の作者として有名な4代目鶴屋南北(金井三笑の門人で幼名源蔵、のち伊之助、文化12年〔1829〕11月27日歿)も化政次代の著名人である。「東海道四谷怪談」の主人公田宮伊左衛門(南北の芝居では民谷伊右衛門)の妻お岩を祭ったお岩稲荷神社の旧地である。物語は文政10年(1827)10月名主茂八郎が町の伝説を集録して、町奉行に提出した。「文政町方書上」にある伝説を脚色したものである。明治5年(1872)ごろお岩神社を田宮稲荷と改称し、火災で一時移転したが、昭和27年(1952)再びここに移転したものである。
 昭和43年(1968)3月1日建設 東京都教育委員会



所在地 新宿区左門町18

日蓮宗
 長照山 陽運寺

 於岩稲荷 



江戸時代、文政8年(1825)7月歌舞伎戯作者4世鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が世に喧伝され、於岩様庶民の畏敬を受け当山その由縁の所として現在に至ったが戦災に遇い協議の上本堂を栃木下野から薬師堂を移築再建した棟札には宝暦7■年とある。於岩様の戒名は得證院妙念日正大姉 墓は元鮫ヶ橋にあったが現在は移転し巣鴨新庚申塚にある。当堂内には於岩様御尊■■祀され参拝者祈願の対象となり境内には由縁の井戸、再建記念碑等がある。
 平成5■酉年10月吉辰
 陽運寺 総代、世話人一同

 


                               お岩さま縁の井戸



所在地 新宿区四谷1-13 (Opus Royal) 

新宿区指定史跡
 二葉亭四迷旧居跡
     平成3年(1991)12月6日指定

 小説家二葉亭四迷(1864~1909)が、明治13年(1880)7月から1年間、東京外国語学校ロシア語科に入学し寄宿舎に入るまで過ごしたところで、彼の父の実家である水野邸が建っていた。 
 四迷は本名を長谷川辰之助といい、尾張藩士の子として市谷本村町の尾張徳川家上屋敷(現在の自衛隊駐屯地)の中で生れた。
 少年期に、政治色の濃いロシア文学の影響を受け、東京外国語学校ロシア語科に入学するが後に中退し、坪内逍遥の指導で創作を始める。
 明治20年(1887)に、言文一致体の文章により日本で最初の小説『浮雲』を発表し、さらに『あひびき』『めぐりあひ』などのロシア文学を翻訳するなど、日本の近代文学建設の先がけとなった。
 明治41年(1908)に朝日新聞の特派員として渡露するが、翌明治42年(1909)、帰国の途中病死した。
 平成4年(1992)2月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区四谷4-4

 四谷山 長善寺

新宿区指定有形文化財(彫刻)
 長善寺(笹寺)の めのう観音像
     昭和62年(1987)6月5日指定



 赤めのうで彫られた珍しい観世音菩薩像である。
 像高4.9センチの小像であるが、容貌は豊麗で精密な作品である。
 黄銅製の光背が付され、宝形造の屋根をもち、正面下に蓮華、左右下部に笹寺に因んだ笹の浮彫りがある台座に安置されている。
 本像は、2代将軍徳川秀忠の念持仏を、夫人の崇源院から賜ったものと伝えられている。
 平成6年(1994)6月 東京都新宿区教育委員会



 境内には『四谷勧進角力始祖碑』、『琴古流尺八顕彰碑』があります。


                 江坂常易歌碑


所在地 新宿区若葉2-9

浄土宗
 専称山 安養院 西念寺

     服部半蔵の槍
 「槍の半蔵」の異名を持つ服部半蔵(1542~1596)が徳川家康より拝領したと伝えられる槍で、半蔵が開基となったこの西念寺本堂に現在も保存されている。
 槍先と柄の一部が欠けており、現状では全長258センチメートルである。
 戦国時代の槍の標本として、また、同寺に伝存している点で貴重な歴史資料である。

     服部半蔵と西念寺
 服部半蔵は、徳川家康の旧臣で、槍の名手として、また、伊賀者の指導者として知られている。
 主君家康の長男信康が切腹おり、半蔵は介錯を命ぜられたが、ついに果たすことができず、後に半蔵は信康の冥福を祈るため仏門に入った。
 天正18年(1590)家康に従い江戸に入国し、麹町清水谷に庵居を設け、信康の遺髪をここに埋め、霊を弔った。文禄2年(1593)家康より寺院を建立するよう内命を受けたがこれを果せず、慶長元年(1596)11月14日、55歳で死去した。
 その後、同所に寺院の建立が成り、山号、寺号は法名から「専称山安養院西念寺」となった。
 寛永11年(1643)江戸城外郭拡張に伴う外濠新設のため、西念寺は現在地に移転した。(西念寺縁起より)
 境内には、服部半蔵の墓と信康の供養塔がある。(共に区指定史跡)
 平成5年(1993)1月 東京都新宿区教育委員会

 境内には『服部半蔵墓』、『徳川信康供養塔』があります。


所在地 新宿区若葉2-9 (西念寺)

新宿区指定史跡
 服部半蔵の墓
     昭和59年(1984)7月6日指定

 服部半蔵(1542~1596)は、本名を正成といい、徳川家康の三河依頼の旧臣で、家康16将の1人に数えられる武将である。
 「鬼の半蔵」として知られ、元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、天正18年(1590)小田原攻めで功をあげ知行8千石を賜り、同天正18年(1590)の家康の江戸入府後は、江戸城西門近くに居を構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。
 半蔵は、天正7年(1579)家康の長男信康が切腹する際介錯役を命じられた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。
 文禄2年(1593)には家康から寺院を建立するよう内命をうけたが、慶長元年(1596)11月、55歳で没した。
 西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永11年(1643)江戸城の外堀拡張・新設の際現在地に移転したものである。
 平成17年(2005)2月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区舟町11 (全勝寺)

新宿区指定史跡
 山県大弐墓(山県大貮墓)
     昭和59年(1984)11月2日指定



 山県大貮(山県大弐)(1725~1767)は、江戸時代中期の兵学者・尊王論者として著名な人物である。甲斐国(現在の山梨県)竜王の篠原で生れ、名を昌貞、字を公勝、号を柳荘、洞斎と称した。
 初めは医者となったが、漢学を学び、宝暦6年(1756)江戸へ出て家塾を開き、国学・兵学を教え、多くの門下生がいた。宝暦8年(1758)「柳子新論」を著し、尊王論と幕政批判を説き、明和3年(1766)捕えられ、翌年没した。
 門下生に吉田松陰などが出て、後に尊王論者の師と仰がれ、高く評価されるようになった。
 墓は、初め全徳寺にあったが廃寺となり、全勝寺に移された。
  平成5年(1993)1月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区大京町22-2 (PJビル)

 斉藤茂吉終焉の地

新宿の 大京町と いふとほり 
 わが足よわり 住みつかむとす  
茂吉




齋藤茂吉は、空襲で南青山の自宅を喪ったあと昭和25年(1950)11月14日この場所の新居に住み、昭和28年(1953)2月25日に没した。
上の歌は最後の歌集「つきかげ」に収められている。
 平成元年(1989)11月  齋藤茂太


所在地 新宿区内藤町1-8

 当社は、江戸初期に初代内藤清成氏が屋敷内の地(現在の新宿御苑)に家祖である藤原鎌足公を祀り、(内藤神社)を草創したことに始まり、また藤原氏の氏神である楢の春日大社より、経津主神、武甕槌神、天兒屋根神、姫神の分霊を勧請合祀してあります。
 明治19年(1886)に新宿御苑の地より現在地へ移設、遷座され今日に至っています。当初は武州多武峯神社と称していましたが、昭和42年(1967)5月に多武峯内藤神社に改称されました。



   御祭神  
主祭神  藤原鎌足公(ふぢはらのかまたりこう)
相殿神  武甕槌神(たけみかづちのかみ)
相殿神  経津主神(ふつぬしのかみ)
相殿神  天兒屋根神(あめのこやねのかみ)
相殿神  姫神(ひめかみ)
相殿神  内藤家歴代祖霊



   末社稲荷神社
主祭神  倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
相殿神  八幡神(やはたのかみ)
相殿神  大国主神(おおくにぬしのかみ)
相殿神  市杵嶋姫神(いちきしまひめのかみ)
駿馬舎  (木彫の白馬・内藤修理亮清成公の愛馬)


                     稲荷大明神・八幡大菩薩
   建物・史跡
社殿、神楽殿、手水舎、稲荷神社、駿馬舎
駿馬塚 文化13年(1816)建立、新宿区登録有形文化財

   御祭日
元旦祭    例年 1月1日(午前零時)
初午祭    例年 2月(初午の日、若しくは前後の日曜日)
例大祭    例年 5月(第三土曜日・日曜日)
七五三祝祭 例年 11月(15日、若しくは前の日曜日)
大祓祭    例年 12月31日(夕刻)
除夜祭    例年 12月31日(午後11時30分)
 多武峯内藤神社社務所

 境内には『駿馬塚』があります。


所在地 新宿区内藤町1-8 (多武峯内藤神社)

新宿区登録有形文化財
 駿馬塚 しゅんめづか
     平成5年(1993)3月5日登録



 内藤清成の駿馬の伝説にかかわる石碑である。
 徳川家康は江戸入府後、家臣の内藤清成を呼び、現在の新宿御苑一帯を示し「馬でひと息に回れるだけの土地を与える」と語ったという。
 清成の乗った駿馬は、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、疲れ果て死んでしまったので、大樫の下に埋めたと伝えられる。
 後に内藤家の森林の管理役となった中家休昌と木下正敷が、文化13年(1816)8月に樫の古木の跡に塚を造り、駿馬塚の碑を建てた。
 碑はその後、明治5年(1872)9月に現在地に移されたものである。
 平成5年(1993)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区内藤町1-8 (新宿区立内藤児童遊園)

 この地(多武峯内藤神社西方付近)は、明治20年(1887)に佐賀藩出身の眞崎仁六が眞崎鉛筆製造所(現・三菱鉛筆株式会社)を興し、鉛筆の製造を始めたところです。30年後の大正5年(1916)に品川区東大井に移転するまで、ここで鉛筆製造を行っていました。
 創業時は玉川上水の分水であり、現在は暗渠(あんきょ)となっている渋谷川を利用した水車を動力にして、ここで鉛筆が造られていました。
 平成18年(2006)10月
  寄贈 三菱鉛筆株式会社  
  資料提供 新宿区教育委員会



所在地 新宿区四谷4-4 (長善寺)

〔碑文〕

  正系
初代  黒沢琴古
二代  黒沢琴古
三代  黒沢琴古
     久松風陽
初代  豊田古童
二代  荒木古童
三代  荒き古童
初代  納富寿童     
     平野健次撰


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