忍者ブログ
東京都新宿区の歴史
[4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。



所在地 新宿区榎町53

浄土宗
 本光明山 大願寺

 大願寺境内には『包丁塚』があります。


所在地 新宿区横寺町11・9・10・11

史跡
 島村抱月終焉の地・芸術倶楽部跡

 演出家島村抱月(1871~1918)が女優松井須磨子(1886~1919)とともに、近代劇の普及のため大正2年(1913)7月に創設した芸術座の拠点芸術倶楽部の跡である。
 抱月は本名を滝太郎といい、島根県に生れ、東京専門学校(現早稲田大学)文学部を卒業した。その後同校講師となりイギリス・ドイツに留学、帰国後は評論家・演出家として活躍した。
 明治39年(1906)には、坪内逍遥文芸協会に参加し、西欧演劇の移植に努めたが、大正2年(1913)内紛から同協会を脱会し、芸術座を組織した。その拠点芸術倶楽部は、木造2階建て、大正4年(1915)の建築であった。
 抱月は大正7年(1918)11月15日、流行性感冒から肺炎を併発し、この倶楽部の一室で死去した。享年は47歳であった。傷心の松井須磨子は翌大正8年(1919)1月5日この倶楽部で抱月のあとを追った。これにより芸術座は解散された。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区横寺町15

日蓮宗
 妙徳山 圓福寺



 当山は文禄5年(1596)9月3日加藤清正公により創建され、「妙法蓮華経」の功徳により福徳円満の御利益を授かるという意味が、山号、寺号の由来です。江戸時代の初期より祀られている祖師像は日蓮聖人が49歳の時に彫られた御像で、聖人自ら開眼(魂入れ)なされ、その直後に龍ノ口法難(1271)を免れたことから、生御影(生きるお姿)厄除開運の祖師と称され、古来より多くの参詣者を集めてきました。
 また、江戸時代末期に徳川家の祈願寺となり、大奥女中の熱心な信者も多く、明治維新には、江戸城紅葉山より夜行鬼子母神、七面大明神、妙見菩薩が当山に奉安されました。




 圓福寺境内には『椿山椿先生之墓』、『食材感謝之碑』があります。


                                     妙徳稲荷神社



  文久元酉年従三月中旬、駿州岩本安国日蓮大菩薩
  六十日之間於牛込圓福寺境内開帳之砌諸講中朝詣之図


 文久元年(1861)3月、圓福寺において駿河国岩本實相寺の安国祖師像を60日間開帳したときの賑わいを描いた版画です。このときの願主には牛込通寺町、牛込肴町など圓福寺近辺の23町の講中が連名して参加していますが、日本橋、馬喰町、赤坂、東神田、麹町、品川、千住、内藤新宿などの幟や提灯もみられ、江戸と周辺の信者が多数参集している様子がみられます。信者の中には当時の歌舞伎役者の名もみられ、圓福寺が江戸の人々に熱心に信仰されていたことと、特にこの開帳がたいへんな評判であったことがうかがわれます。境内にはゆかりのある清正公の山車も入り、数々の出し物も演じられ、江戸庶民の信仰の熱意が伝わってきます。


所在地 新宿区横寺町33

曹洞宗
 桃嶽山 竜門寺




                                     身代わり地蔵尊


                                         稲荷神社


所在地 新宿区横寺町40

浄土宗
 正定院 寶國寺(宝国寺)


所在地 新宿区横寺町47

新宿区指定史跡 
 尾崎紅葉旧居跡おざきこうようきゅうきょあと
     昭和60年(1985)3月1日指定

 尾崎紅葉(1867~1903)が明治24年(1891)から明治36年(1903)に死去するまでの12年間居住し、代表作の「金色夜叉」など多くの作品を執筆した所である。
 紅葉は鳥居家の母屋を借り、「十千万堂」と称した。2階の8畳と6畳を書斎と応接間にし、1階には泉鏡花などが起居したこともあり、近代作家が育った重要な場所である。
 当時の家は戦災で焼失してしまったが、鳥居家には今も紅葉が襖の下張りにした俳句の遺筆が2枚保存されている。
 平成4年(1992)8月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区横寺町・神楽坂6

  朝日坂
 『御府内備考』にはかつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついたとある。明治初年、このあたりは牛込朝日町と呼ばれていた(『東京府史料』)。
 平成18年(2006)3月 新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区下宮比町3・揚場町2

東京都指定旧跡
 寒泉精舎跡かんせんしょうしゃのあと
     大正8年(1919)10月指定


 岡田家泉は江戸時代後期の儒学者で政治家。名は恕、字は子強、通称清助といい、寒泉と号した。元文5年(1740)11月4日江戸牛込に千二百石の旗本の子として生まれた。寛政元年(1789)松平定信に抜擢されて幕府儒官となり昌平黌(後の昌平坂学問所)で経書を講じた。柴野栗山(彦輔)・尾藤二洲(良佐)とともに、「寛政の三博士」と呼ばれ、寛政の改革で学政や教育の改革に当たった三人の朱子学者のひとりである(寒泉が常陸の代官に転じた後は古賀精里が登用された)。寛政6年(1794)から文化5年(1808)までの14年間は、代官職として現在の茨城県内の7郡82村5万石余の地を治め、民政家としての功績は極めて大きなものがあった。
 寛政2年(1790)8月19日この地に幕府から328坪6余の土地を与えられ、寒泉精舎と名付けた家塾を開いた。官職を辞した後も子弟のために授読講義を行い、「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講筵を開き給えりしに、門人賓客にみちみちて、塾中いること能わざるになべり」とあって、活況を呈している様子を門弟間宮士信が『寒泉先生行状』に記している。文化12年(1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖し土地を返上した。文化13年(1816)8月9日77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られた。著書に『幼学指要』『三札図考』『寒泉精舎遺稿』などがある。
 平成13年(2001)3月31日 設置  東京都教育委員会


所在地 新宿区河田町2-5

臨済宗円覚寺派
 正覚山 月桂寺





 月桂寺には『切支丹灯籠』があります。


所在地 新宿区河田町2-5 (月桂寺)

有形文化財(歴史資料) 
 月桂寺の切支丹灯籠きりしたんどうとうろう



 現在、東京女子医大の敷地となっている月桂寺の旧墓地内より出土したもので、製作年代は不明である。
 高さ約70センチ、石質は白みかげ石で、竿部分(上部の笠・火袋などを支える脚となる部分)だけが現存する。
 切支丹灯籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタン信者がひそかに礼拝したもので、全体の形状は十字架を変形しており、下部にはキリスト像のカモフラージュが刻まれている。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区岩戸町8

浄土宗
 榮松山 法正寺

 


所在地 新宿区岩戸町・箪笥町・横寺町

 袖摺坂そですりざか

俗に袖摺坂と呼ばれ、両脇が高台と垣根の狭い坂道で、すれ違う人がお互いの袖を摺り合わしたという(『御府内備考』)。
 平成20年(2008)1月 新宿区教育委員会 

 


所在地 新宿区岩戸町・箪笥町・横寺町

  弁天坂
 坂名は、坂下の南蔵院境内に弁天堂があったことい由来する。明治後期の「新撰東京名所図会」には、南蔵院門にあまざけやおでんを売る屋台が立ち、人通りも多い様子が描かれている。



 坂上近くの横寺舞47番地には、尾崎紅葉が、明治24年(1891)~明治36年(1903)10月病没するまで住んでいた。門弟泉鏡花は、小栗風葉らが玄関番として住み、のちに弟子たちは庭つづきの箪笥町に家を借り、これを詩星堂または紅葉塾と称した。
 昭和59年(1984)3月 東京都

  


忍者ブログ [PR]
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性