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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区西新宿2-11-2

  十二社熊野神社



 十二社の熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二社権現をうつし祠ったものと伝えられます〔一説に、この地域の開拓にあった渡辺與兵衛が、天文・永禄(1532~1569)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祀ったともいいます〕。



 鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
 九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、地震の産土神である熊野三山より若一王子宮を祀りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祀ったといいます。



 この十二所が、昭和45年(1970)までこの地の町名であった十二社と読み変わったものとされますが、別に複数の社を1つに祀る相(双)殿形式で十二の社を祀った十二相(双)殿からきたという説もあります。江戸時代の文献にはこの他、十二處・十二荘・十二叢・十二層などの記述が見られます。



 神社は、江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
 また、享保年間(1716~1735)には8代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。


              角筈村熊野十二所権現社(『江戸名所図会』より)

 明治維新後は、現在の櫛御気大神(須佐之男命の別名)・伊邪那美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
 氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。


                 十二社菖蒲の図  松斉芳宗 万延元年(1860)

  十二社の池
 十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社西側、十二社通りをへだてて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにありました。
 大池は、南北126間・東西8~26間とされ、湧水があったようです。十二社の中池、上の溜井と呼ばれたほか、中野長者の娘が婚礼の夜1匹の蛇に変わり、この池に投身した伝説から蛇池とも呼ばれました。また、この池のくびれた奥の部分は別に上池と呼ばれたようです。


         角筈村熊野神社絵図面(明治初年頃、国立国会図書館蔵)

 池の周囲には享保年間(1716~1735)頃より多数の茶屋ができ景勝地として賑わい、文政3年(1820)の熊野神社の祭礼の時には角乗・筏乗などの見世物ができたりしました。


                        十二社大池の舟遊び(『淀橋誌考』)

 明治時代以降は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形舟・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968)7月に埋立てられました。
 小池は、大池の北側に隣接し、下池、下の溜井と呼ばれました。
 大池を分水したものえ、南北50間・東西7~16間ありました。
 昭和初期より一部の埋立てが行われ、水質の汚濁により昭和16年(1941)7月には多数の鯉が死んだため「こひ塚」が建立され、現在は熊野神社境内の池のほとりに建っています。小池はその後間もなく宅地化のため埋立てられました。


十二荘(江戸名所図会より)二代歌川広重 文久2年(1862)

  十二社の滝
 熊野神社の周囲には、いくつかの滝があり、あたりの風致に彩をそえていました。
 記録や古老の話から、つぎのような6つの滝の話が伝えられますが、それぞれの正確な位置やあった時期などははっきりしません。
①大滝
 『江戸名所図会』『江戸砂子』などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、高さ三丈・幅一丈と伝えられます。この滝は寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け造られた神田上水助水堀(現在の新宿区立区民ギャラリーと熊野神社の間の道あたり)が熊野神社東端の崖から落ちるところにできたものです。
 池とともに、江戸中期以来景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の『怪談乳房榎』の中で、この滝を登場させています。
 しかし明治25年(1892)頃、淀橋上水場の工事に伴い埋立てられました。
②小滝
 『江戸土産』に記載があり、大滝に付設していた小規模な滝とされます。
③熊野神社神楽殿裏より小池(下池)にそそぐ滝
 「角筈村熊野神社絵図面」に記されている滝です。熊野神社西側斜面にあったものと思われます。
④大池のイチョウ脇にあった2つの滝
 古老の話によるもので、大滝の遊興街の大イチョウの脇に4m程の高さの滝が2本あったとされます。明治時代に茶屋が客寄せのため造ったもののようで、男女別があり人々が滝に打たれていたそうです。
⑤十二社にちなんだ十二の滝
 古老の話で、かつては十二の滝が存在したというものです。そのうちの3つが、熊野神社の甲州街道への参道の脇に、水の出ない赤土の滝として残っていたとされます。
⑥熊野神社南側、旧小西六工場付近の滝
 熊野神社の南東側には、明治35年から昭和38年(1902~1963)まで、この地の良質で豊富な水を使い、小西六写真工業(サクラフィルム)の工場が操業していました(写真工業発祥の地として説明板あり)。この工場のあたりにも滝があったと言われています。

 十二社熊野神社には『弁天社』、『こひ塚』、『延命陀羅尼二千一百万遍読誦碑』、『角筈胡桃下稲荷社』、『式三番奉納額』、『七人役者図会馬』、『十二社の碑』、『神輿蔵』、『清水長雄胸像』、『倉稲魂碑』、『大田南畝の水鉢』、『天野桃隣句碑』、『纏の碑』、『能勢嘉門賛碑』、『島川玄丈人壽兆碑』、『大島三社』、『大島三社の狛犬』があります。
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