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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区西早稲田3-5-43 (水稲荷神社)

  堀部武庸加功之遺跡碑

文   東京信夫
筆   正五位 日下部東作
篆額  正二位勲一等 西園寺公望

 高田馬場は東京都城北と掴むラニある。武士が馬術の調練をする所として有名であった。ここに堀部武庸の加功の事を記す。武庸は通称安兵衛。本姓は中山氏越後の新発田の出身。江戸の遊学し、剣を堀田正春に学ぶ。叔父の菅野六郎左衛門が同僚(村上庄左衛門)と不和を生じ、高田馬場で決闘をすることとなった。六郎左衛門は単身決闘に臨んだが、堀部武庸は、六郎左衛門の妻から事情を聞き、駆けつけると縦横無尽に奮戦し二人を斬り倒した。六郎左衛門は深手を負い血を流しながらも庄左衛門と切り結んでいたが、危うしとみた安兵衛は加勢し、庄左衛門をも斬り伏せた。
叔父を解放して某屋敷の別邸に入って休んだが、そのうち六郎左衛門は深創のため息絶えた。4人が死んだこの決闘でただ1人生還した安兵衛は、たちまち天下の著名人となった。
赤穂藩士堀部金丸はこの話に感じいり、安兵衛を養子に迎えようとしたが、安兵衛は他人の姓は欲しないとしてこれを拒んだ。金丸の主君浅野長矩高田馬場の決闘の話を聞き、安兵衛の武勇は無比であると認めた。金丸は再三人を介して交渉した結果、遂に3年を経て堀部家の養子となった。浅野侯は事件によって死を賜り、国を召し揚げられた。これにより四十七士の復讐が行われた。安兵衛もその1人となった。ああ、一族の難に功を加えることを一族にこの人有りといい、一国に変事がありてこれを復讐することを一国にこの人有りという。今安兵衛の一身にこの2つの大きな難がふりかかったことからすれば、忠孝、節義をまっとうする豪傑の士といわないはずはないではないか。
村人行田久蔵は元禄以来の旧家である。武庸加功の地はその敷地周辺にある。現在は往時と異なり開拓され、家屋も多く、人はこのことを知らない。
赤穂義士のことは常に顕彰するけれど、最も感じ入るのはこの助太刀加功のことである。また、他の話として、金丸の娘幸は母とともに雑司ヶ谷鬼子母神の参詣の帰途、高田馬場で決闘に出会った。安兵衛ののタスキが無いのを見て腰紐を解いて渡した。これが縁で堀部家の婿となったという。
元禄5年(1692)安兵衛20歳。赤黒い絹の腰紐を渡した幸は僅かに5歳という。
この技師の談義は往々にしてかくの如き誤りとして伝わるものだ。
  明治四43年(1910)晩秋中旬
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