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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区西早稲田3 

旧跡 高田馬場跡



 西早稲田3丁目1・2・12・14番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡である。
 馬場は寛永13年(1636)に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場であった。
 また、穴八幡神社に奉納するため催された流鏑馬などが行われ、将軍の供覧に入れたところでもある。
 享保年間(1716~1753)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと思われる。
 また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社の境内には「堀部武庸加功遺跡の碑」が建っている。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会



    高田馬場
 旧跡 高田馬場と将軍お立ち台
明治維新まで幕臣の弓馬の練習場として、ここに高田馬場があった。寛政5年(1793)2月4日に挙行された高田馬場流鏑馬場所絵図によると、馬場は東西二百間、南北二十五間とあり、東から西へ追いまわしと呼ばれた中土手が築かれ、土手の南側が馬、北側が弓の練習場となっていた。中土手から北の松並木の土手までは現在、ビルや住宅が密集し、往時を偲ぶことは難しいが、幸い南側の部分が早稲田通りの道路として残り(昭和の初年、道路南側を拡幅)、この大通りがまさに江戸の昔、旗本たちが馬で駆け回っていたところとなる。
馬場の中央で南に寄った西早稲田3~12~3あたりに将軍お立ち台が置かれていたと古老の言い伝えがある。流鏑馬場所絵図に見る検所がそれであろう。
慶長年間、家康の側室で、高田殿と呼ばれた茶阿の局がこの辺りの風景をこよなく愛し、遊覧の地とした。高田殿没後、寛永13年(1636)3代将軍家光がこの芝野に弓馬練習用の馬場を築造し、高田馬場となったと言われている。高田馬場の由来に他説もある。室町時代すでにここは高田郷戸塚村といわれており、北に高田村、西には上高田村もあり、この地名に因るものだと。
家光は御神木「光り松」の奇跡を耳にし、江戸城の西北に当たる穴八幡神社を将軍家の祈願所と定め、慶安元年(1648)諸侯に命じて社殿営繕を行った。のち4代将軍家綱5代将軍綱吉とそれぞれ社殿の造営を行っている。享保13年(1728)8代将軍吉宗は家光の馬場築造記念日の3月5日を選び、ここ高田馬場に於いて初めての流鏑馬を行った。以来、徳川将軍家では嘉例として代が代わる度に国家安泰を祈願して奉納神事流鏑馬を行い、、毎年の神社の例大祭にも行われた。
流鏑馬は馬場の南側の真ん中に検所の陣屋を置き、幕を張り、金屏風を立て、将軍はじめ名代若年寄方が座し、下座には諸侯方が並び、それは美麗を尽くしたと言われている。南の丘の一帯は万を越す人垣ができたほどの人気で、流鏑馬では、将軍お立ち台の北側を中土手に沿って、1、2、3の的が立てられ、西の馬場本から東の馬場末へと弾みよろしく騎射して、満場の喝采を浴びた。
元禄7年(1649)大江戸を沸かした安兵衛の仇討ちで世に一層知られるところとなり、寛政の頃になると、江戸市中で男伊達なるものが流行し、試合勝負の名所のようになった。昭和の初めまで旧馬場の中央西寄りに小学校があり、校庭に伝説の「安兵衛刀傷の松」があった。松の真偽のほどはともかく、果し合いはこの一画で行われたものと推測する。また、お立ち台の北側にある茶屋町通りはかなり古く、江戸名所図会にあるように、8軒の茶屋が並び、雑司が谷鬼子母神への参詣客や弓馬の旗本たちの休息所として、田楽や焼団子を名物とし繁盛した。

なお高田馬場駅は開業時、駅名の候補に諏訪の森、上戸塚が挙がっていたが鉄道側は東へ少し離れた旧高田馬場を駅名に希望、反対する当所住民を説得の末、駅に限り、江戸っ子の云うタカタノババをタカダノババとタに濁点を打つことで承諾を得、明治43年(1910)9月、高田馬場駅が誕生した。江戸名所図会に見る「高田馬場」に打たれたルビに濁点はない。

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