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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区喜久井町46

浄土宗
 来迎寺



 浄土宗。境内には、立派な板碑型の庚申塔(区指定文化財)がある。これは、延宝4年(1676)に建てられたもので、庚申塔の銘文中の「武州湯原(荏原)郡」という記載は、江戸時代でも中世の郡名を記していた貴重な資料である。




 来迎寺には『庚申塔』があります。

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所在地 新宿区喜久井町46 (来迎寺)

新宿区指定有形民俗文化財
 来迎寺の庚申
     昭和59年(1984)7月6日指定



 延宝4年(1676)に造立された板碑型の庚申塔である。
 石質は極めて固い玄武岩で、高さは120センチ、上部左右に日月を配し、中央岩座に三猿、下部に対面した雌雄の鶏が浮彫され、江戸時代前半の庚申塔の特色を示している。



 また向かって右側に「武州湯原郡牛込馬場下町」の印刻があり、江戸時代になっても中世当時の古地名を記した史料として極めて価値が高い。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区喜久井町61

浄土宗
 亀鶴山 易行院 誓閑寺



 浄土宗。かつては尾張家の下屋敷に隣接していた関係から、同家の奥女中の墓が多かった。また、夏目漱石は「硝子戸の中」でこの寺の梵鐘(区指定文化財)の音のことにふれている。




 誓閑寺には『銅造地蔵菩薩半跏像』、『梵鐘』があります。


所在地 新宿区喜久井町61 (誓閑寺)

新宿区登録有形文化財(彫刻)
 銅造地蔵菩薩半跏像
     平成13年(2001)2月14日登録

 文政元年(1818)誓閑寺第十世住職進誉求道の時に鋳造された像で、神田の鋳物師太田駿河守藤原正義の作である。
 総高136センチメートル。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ半跏像で肉親部には鍍金が施されている。
 台座正面には「百万遍講中」と刻まれており、「市ヶ谷大奥中」以下180名あまりの人名が刻まれている。「市ヶ谷大奥中」とは市ヶ谷に上屋敷を構えていた尾張徳川家に関連するものと考えられる。江戸時代、この近くには尾張徳川家尾下屋敷(戸山山荘)もあり、誓閑寺には同家の奥女中らが葬られるなど関わりが深かった。
 平成13年(2001)9月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区喜久井町61 (誓閑寺)

新宿区指定有形文化財(工芸品)
 誓閑寺の梵鐘
     昭和59年(1984)12月7日指定



 天和2年(1682)に近在の住民の寄進により鋳造された区内最古の梵鐘である。
 総高138センチ、口径79センチ、周囲236センチで、形状は比較的古い様式を残している。
 池の間(銘文等を刻む空間)は4つに区画され、全面に銘文が刻まれており、特に銘文中の「武州荏原郡」の記載は、当時すでに豊島郡になっていたこのあたりが、古い郡名で呼ばれていた例を示す史料となっている。



 なお、鐘楼は昭和49年(1974)4月に、千葉県木更津市の選擇寺より移築されたものである。
 平成8年(1996)3月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区原町2-20

日蓮宗
 正定山 幸國寺



 日蓮宗の寺院で、開山は日観上人。本堂に安置されている日蓮上人像(木像)は、古くから「布引の祖師」として悪病除けの信仰を集めている。境内には、推定樹齢300年というイチョウ(区指定文化財)がある。




 幸國寺には『イチョウ(銀杏)』があります。


                                        浄行菩薩


所在地 新宿区原町2-20 (幸國寺)

新宿区指定天然記念物 昭和62年4月3日指定
景観重要樹木 第1号(雌木)第2号(雄木) 平成23年2月14日指定
 
 幸國寺のイチョウ(銀杏・いちょう)

イチョウの古木は区内に数多くあるが、ここのイチョウは最大級であり、樹齢500年以上と推定される。
雄木・雌木とも、幹の周囲およそ5メートル、高さはおよそ16メートルである。
イチョウは、銀杏・公孫樹・鴨脚樹とも書き、中国原産とされるが自生地は不明である。
葉は、扇形で葉柄を具え、秋に黄変化する様はたいへん美しい。
歴史的・文化的価値が高く、地域のシンボルとなっている。
 新宿区教育委員会 新宿区

           Ginkgo(Ginkgo biloba)
Shinjuku Ciy Designated Natural Monument:April 3,1987
Trees of Landscape mportance Designation:No.1(female)No.2(male) February 14,2001
There are many old Ginkgo trees in Shinjuku City.However,these trees are of the largest class and estimated to be over 500 years old.
Both the male and female trees measure approximately five meters around the trunk and stand about 16 meters tall.
The ginkgo tree,Ichou in Japanese,can be written using a variety of defferent kanji characters,and is originally from China,though the exact habitat is unknown.
The leaves are a broad fan shape with a petiole and are extremely beautiful in autumn when they turn yellow.
They are highly appraised both historically and culturally,and are a symbol of the community.
 Shinjuku City Board of Education
 Shinjuku City



  大銀杏延命施術記録碑
 幸國寺大銀杏は東西にあり。共に樹齢500年の新宿区最大の銀杏(イチョウ)の木です。この地が加藤清正公の下屋敷の一つだったことから、「清正公お手植えの大銀杏」と言い伝えられ新宿区天然記念物に指定されております。

 西側の大銀杏は太平洋戦争の戦災に遭いながらも、北側からの炎に立ち塞がり南側の家屋への類焼を防ぎました。そのために傷みが激しく、台風や着雪により大きな枝がたびたび折れ、辛うじて樹形を維持していました。
 平成10年(1998)には、突然縁の葉を落としはじめ異常な事態になりました。取り急ぎ専門家に、応急処置をお願いいたしましたが、体力の無い樹木のため徹底的な治療が必要と診断されました。
 幸い500年の時間を失う前に、大銀杏とのご縁が深い方々が「大銀杏延命施術浄財勧募」を展開し、多くの理解者、協力者と優れた技術に恵まれ危険な状態は回避することができました。
 荒んだ時代になってしまった今日、ここに御志紋いただいた方々のお名前を記録し、この方々の「やさしさ」が源となって「平和で人と自然が調和のとれた世界」になることを祈念いたします。
 平成15年(2003)10月16日 幸國寺 住職 矢島泰淳


所在地 新宿区原町2-62

曹洞宗
 起雲山 大龍寺





所在地 新宿区原町2-71

新宿区指定史跡
 有島武郎旧居跡ありしまたけおきゅうきょあと
     平成3年(1991)12月6日指定

 白樺派の中心的作家で、大正期の小説界に大きな足跡を残した有島武郎(1878~1923)が、最晩年の大正11年(1922)3月から1年間を過ごした住居の跡である。
 武郎は、明治11年(1878)東京は小石川水道町に生れた。
 7人兄弟の長男で、次男は洋画家・小説家の有島生馬、四男は称せt化の里見弴である。
 学習院中等科を経て札幌農学校を卒業。明治36年(1903)ハーバード大学に留学後、ヨーロッパ各地に遊学、明治40年(1907)帰国した。
 明治43年(1910)「白樺」の創刊に加わり、本格的なリアリズムの作風で文壇での地位を確立した。代表作に『或女』『カインの末裔』『生れ出づる悩み』がある。
 この地では、戯曲『ドモ叉の死』を書いたほか、個人雑誌「泉」が刊行されたが、翌大正12年(1923)6月9日軽井沢の別荘で死去した。
 平成4年(1992)1月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区西五軒町1・赤木元町5・東五軒町1

  相生坂
 坂名の由来について、二つの坂道が並んでいるから(『続江戸砂子』)、小日向の新坂と向かいあっているから(『御府内備考』)、などの説がある。
 平成20年(2008)3月 

 


所在地 新宿区東五軒町1・白銀町6

  相生坂(鼓坂)
 坂名の由来について、二つの坂道が並んでいるから(『続江戸砂子』)、小日向の新坂と向かいあっているから(『御府内備考』)、などの説がある。
 平成20年(2008)3月

 



所在地 新宿区原町3-82

臨済宗
 法身寺

 法身寺には『法身寺文書』、『旧鈴法寺江戸番所資料』があります。



新宿区指定史跡
 大和田建樹おおわだたてき終焉の地
     平成3年(1991)12月6日指定

 「鉄道唱歌」の作詞者として知られる、詩人大和田建樹(1857~1910)は、ここ法身寺の庫裡で亡くなった。
 建樹は愛媛県に生れ、広島外国語学校を卒業、その後、独学で国文学を研究し、のちに東京大学古典科の講師となった。
 新体詩の普及につとめ、詩集『詩人の春』『いさり火』を発表したほか、『新体詩学』などの啓蒙書も刊行した。
 また、「明治唱歌」(明治21年〔1888〕)や「鉄道唱歌」(明治23年〔1890〕)などの唱歌の作詞も行い特に「鉄道唱歌」は全国的に愛唱された。
 永く原町3丁目に住んだが、死期の迫った明治43年(1910)9月に残暑を避けるため、ここ法身寺に移り、息を引き取った。
 平成4年(1992)2月 東京都新宿区教育委員会

                                         呈膳道具

所在地 新宿区原町3-82 (法身寺)

新宿区指定有形文化財(歴史資料)
 旧鈴法寺江戸番所資料きゅうれいほうじえどばんしょしりょう
     平成11年(1999)1月8日指定

 普化宗活総派本山青梅鈴法寺の江戸番所(四谷大横町・市谷船河原町・牛込納戸町等を移転)で使用されていた仏像・仏具・什物類で、明治4年(1871)太政官布告による普化宗廃宗時に、法身寺が一括して引き継いだ。
 主に江戸時代後期のもので、普化禅師像・千手観音像・位牌類・沼田藩二階堂氏寄進の呈膳道具・虚無像関係の古文書など多様な内容で、松戸市の一月寺資料とともに数少ない普化宗の遺物である。
 普化宗は、中国唐代の普化禅師を宗祖とする禅宗の一派で、信徒は半像半俗の虚無僧と呼ばれ、筒型の編笠と尺八をたずさえ、各地を行脚した。青梅鈴法寺(現在の青梅市新町364-2付近)は、松戸一月寺・京都明暗寺とともに全国120の普化宗寺院を束ねていたが、廃宗により衰退し廃寺となった。跡地は昭和45年(1970)に東京都指定旧跡に指定されている。
 平成11年(1999)5月 新宿区教育委員会


               
普化禅師像

                                        徳川綱吉公帖

所在地 新宿区原町3-82 (法身寺)

新宿区登録有形文化財(古文書)
 法身寺文書ほっしんじもんじょ
     平成11年(1999)1月8日登録

 臨済宗円覚寺派法身寺に伝来する文書で、法身寺の住職に関わる文書5点である。
 徳川家綱公帖(二通)と徳川綱吉公帖(一通)は、幕府の住職任命状で、法身tらの中興開山である碩然が、諸山の長勝寺、十刹の禅興寺、鎌倉五山の円覚寺の住職に任命されていく過程がわかる。
 投機の偈(一幅)は、法身寺七世住職碩満が、師碩鈍との機機投合(仏法が以心伝心に伝わったこと)を表現したもの、仏祖正伝済家相承一大事(布一枚)は、臨済宗の僧侶が、師から法を嗣ぐ際に受け継ぐもので、法身寺の資料では、臨済宗幻住派中の碩派(碩の字を戴く)の歴代の法脈を記したものとなっている。
 平成11年(1999)5月 新宿区教育委員会


                              投機の偈


所在地 新宿区原町3

  宝禄稲荷神社(寶禄稲荷神社)
昔々この地にたいそうくじ運の強い百姓がおったそうじゃ。じゃがこの男初めからくじ運が強かった訳では無く、いつも富くじではせっかく貯めた小銭をつぎ込んでは、すっからかんになってしまいおっかあに怒られて頭があがらんかったそうじゃ。
そんなある日、よせばよいのにおっかあがせっせと夜なべをして貯めた小銭を見つけ、早速江戸の街に富くじを買いに意気揚々と山を下って行ったそうじゃ。
「こいつを元手に一発当てておかかやガキ達に腹一杯の飯を食わしてやりたいのう。」
じゃが案の定帰りはけつの毛まで抜かれスッテンテンになって山道を重い足取りで帰って来たそうじゃ。
その当時、今の牛込の深い谷を越えて山道を登ってくるとちょうど登り詰めたこのあたりに小さなほこらが有ったそうじゃ。
百姓は、ほこらの前で一休みしながら何と言ってごまかすか思案にくれていたそうじゃ。
財布の中には、外れた富くじが捨てられずに入っていたので、これを見つかったらおっかあに半殺しの目に遭うと思い、ほこらの前に外れくじを置くと自分の運の無さをなげき、いつかおっかあに楽をさせてあげたいと願ったそうじゃ。
それから何ヶ月かして、小銭の出来た百姓は、また懲りずに夢をいだいて富くじを買いに山を下って行ったそうじゃ。
じゃが今度は、何か違っておった。
百姓は、一番くじを当ておった。
それから何をやってもつきまくり、一家は、たいそう幸せになったそうじゃ。
百姓は、ほこらにお礼を言い、ここに立派な社を建てたのじゃった。
その話を聞きお参りをした人達が、誰言うと無くこの社を宝禄稲荷と呼び、百姓の運が自分にも授かるようにと外れくじを置いて拝んだそうじゃ。
今ではこの宝禄稲荷は、金銀融通、一陽来腹で有名な穴八幡宮の末社に成り、沢山の 方々が運が開けるように外れくじを置いてお参りしていくそうじゃ・・・!
 新宿区原町3丁目町会
 宝禄稲荷神社保存会
 文 河西倫尚



   宝禄稲荷神社外れくじ供養
宝禄稲荷神社は、受験合格、子宝、ギャンブルの勝利、選挙の当選などを願う方々が密かに外れくじを置いてお参りをされる開運祈願で有名な稲荷です。
また金銀融通、一陽来復で有名な穴八幡宮の末社でもあります。
5月22日の宝禄祭の時には、穴八幡宮の神職又は神官によって「外れくじ供養」が行われます。
元治2年(1865)に作られた勝運が授かれると言う「宝禄狐」に直接触れる事が出来るのはこの日だけです。
また縁起のよい「宝禄勝運札」の頒布は、元朝参り、宝禄祭、9月のお祭りの期間のみです。「宝禄勝運札」の貼る方位は、乾(いぬい=北西)の方角で、乾蔵と言いお蔵を建てる方角です。
「これで貴方も不況に勝てる。」
 宝禄稲荷神社保存会


所在地 新宿区戸山1・若松町

  下戸塚坂しもとつかさか
 江戸時代、この地は武家屋敷などで占められ、町名はつけられず、この坂も無名坂であった。
 明治5年(1872)下戸塚町となったことにより、この坂も町名と同じ下戸塚坂と呼ばれるようになった。
 平成16年(2004)2月 新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区市谷甲良町・市谷柳町・市谷山伏町

  焼餅坂やきもちざか
 昔、この辺りに焼餅を売る店があったので、この名がつけられたものと思われる。別名赤根坂ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方柳町に下る坂あり、焼餅坂という。即ち、岩戸町箪笥町上り通ずる区市改正の大通りなり」とある。また「続江戸砂子」「御府内備考」にも、焼餅坂の名が述べられている。
 東京都 昭和58年(1983)3月

 


所在地 新宿区高田馬場1

  高田馬場再開発記念碑
高田馬場とは、寛永13年(1636)この東方約1キロ戸塚町の中央に設けられた江戸時代旗本たちの馬術練習や流鏑馬などを行う馬場から起った名称である。歴史に残る忠臣蔵の堀部安兵衛の助太刀の馬場としても著名である。明治15年(1882)早稲田大学の前身東京専門学校が早稲田の森に建設され、明治35年(1902)早稲田大学と改称、学生の往来ようやく繁くなり高田馬場駅が開設されたのは明治43年(1910)9月で、駅前が発展してきたのは、大正初期で、名実共に早稲田大学の玄関口となり、学生の町となって賑わいをみせたのは昭和になってからである。
昭和2年(1927)西武鉄道の開通後駅前周辺は急速に繁華街として発展し、第二次世界大戦後、昭和24年(1949)都電が早稲田終点より駅前まで延長、昭和27年(1952)には西武線の新宿まで延長、地下鉄東西線は昭和39年(1964)に開通し、一方戦災を受けた駅前を近代的な都市に再開発するため昭和23年(1948)3月東京都から戦災復興事業として区画整理の指定を受け、改めて昭和37年(1962)3月高田馬場防災建築街区造成組合が設立され家屋の移転、取毀、整理を開始、やがて駅前周辺に高層近代ビルが次々と建設されるに至って有志相謀り據出して駅前広場に噴水、花壇を建設、池の中央に東京芸術大学名誉教授山本豊市先生の特志の寄進による平和の女神像を安置して、道行く人々に悲話と緑の憩いの場を与え往時と全く面目を一新された。
ここに高田馬場沿革史上特記すべき都市再開発並びに広場修景の完成を祝して永く後世に伝えるためこの記念碑を建立するものである。
 昭和49年(1974)1月1日 元早稲田大学総長 大浜信泉撰







所在地 新宿区高田馬場4-29

  鉄砲稲荷神社
江戸幕府開府以来当地に鎮座す
 武州豊島郡戸塚村氏子中
 昭和60年(1985)2月吉日


 


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