東京都新宿区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 新宿区早稲田南町7 新宿区指定史跡 夏目漱石終焉の地(新宿区立漱石公園) 昭和61年(1986)10月3日指定 この漱石公園一帯は、文豪夏目漱石が晩年の明治40年(1907)9月29日から大正5年(1916)12月9日に死去するまで住んだところで「「漱石山房」」と呼んでいた。 漱石はここで「坑夫」「三四郎」「それから」「門」などの代表作を発表し、「明暗」執筆の半ばに世を去った。漱石死去当日の様子は内田百聞の「漱石先生臨終記」に詳述されている。 また、漱石山房の様子は、漱石の「文士の生活」や、芥川龍之介の「漱石山房の秋」「漱石山房の冬」(ともに『東京小品』の中)などに克明に書かれている。 この石塔は俗称「猫塚」と呼ばれているが、これは「吾輩は猫である」の猫の墓ではなく、漱石の没後遺族が家で飼っていた犬や猫、小鳥の供養のために建てたもので、昭和28年(1953)の漱石の命日に、ここに復元されたものである。 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会 新宿区立漱石公園内には『夏目漱石胸像』があります。 所在地 新宿区早稲田南町7 (新宿区立漱石公園) 夏目漱石胸像 夏目漱石は慶応3年(1867)2月9日、この近くの江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)に生まれた。明治40年(1907)9月にこの地に住み、「三四郎」「それから」「門」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」などを発表、大正5年(1916)12月9日、数え年50歳で死去した。 この終焉の「漱石山房」跡地に漱石の胸像を建立し、その偉大な文業を、永遠に称えるものである。 なお、表の漱石直筆の俳句は 「ひとよりも空 語よりも黙 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉蛉」 と読む。 平成3年(1991)3月 新宿区 所在地 新宿区天神町63 新宿区登録史跡 生田春月旧居跡いくたしゅんげつ 平成7年(1995)2月3日登録 生田春月 昭和4年(1929)頃 このあたりは、大正から昭和にかけて近代詩の発達に大きく寄与した詩人生田春月が、大正4年(1915)から11年間住んでいたところである。 春月は本名を生田清平といい、明治25年(1892)鳥取県米子市に生れた。9歳の頃より詩作をはじめ16歳の時に上京、大正7年(1918)この地で発表した詩集『感傷の春』により詩人としての地位を確立した。 また、独学でドイツ語を修めハイネをはじめとするドイツ文学の紹介にも努めるなど、この地で創作活動の大半が行われた。 なお、この前後も含めると牛込在住は16年間におよび、新宿との関わりの深い文学者である。 平成7年(1995)3月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区南榎町22 新宿区登録史跡 泉鏡花旧居跡いずみきょうか 平成7年(1995)2月3日登録 泉鏡花 大正2年(1913)頃 このあたりは、明治から昭和初期にかけて、日本文学に大きな業績を残した小説家泉鏡花が、明治32年(1899)から4年間住んでいたところである。 鏡花は本名を鏡太郎といい、明治6年(1873)石川県金沢市に生れた。16歳の頃より尾崎紅葉に傾倒し、翌年小説家を志し上京、紅葉宅(旧居跡は新宿区指定史跡・横寺町47)で玄関番をするなどして師事した。 この地では、代表作『湯島詣』『高野聖』などが発表された。鏡花はこのあと明治36年(1903)に神楽坂に転居するが、『湯島詣』はのちに夫人となった神楽坂の芸妓によって知った花街を題材としており、新宿とゆかりの深い作品である。 平成7年(1995)3月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区百人町3-28-10 俳句文学館 本館は、今日の俳句のあらゆる資料を後世に残す、世界に唯一の俳句専門図書館として、昭和51年(1976)3月に開設された。蔵書数は雑誌14万冊、句集3万冊に及ぶ。俳句は世界の人々からも愛されており、HAIKUの国際交流の場にもなっている。 新宿区 所在地 新宿区市谷薬王寺町27 (浄栄寺) 新宿区指定有形民俗文化財 尺八「放下着」一式 しゃくはち ほうげじゃく ならびに 普化尺八伝授関連資料 ふけしゃくはちでんじゅ 平成19年(2007)8月3日指定 尺八と附属する道具一式(歌日口保護具、袋、筒、箱)、ならびにこの尺八伝授関連資料三点(「放下着傳来略記」「鈴鐸話并往来」「免許状」)から構成される。 尺八は江戸中期以前の製作と推定される前兆42.1センチの小ぶりの竹管で、歌口に近い部分から二節に向かい、背面部に「放下着」と金泥で銘が記される。普化宗門の法器として用いられた虚無僧尺八の古管として位置づけられ、ほぼ製作時の形状・色合いを保ち、いまなお笛吹可能な管であるl。 江戸中期以前の普化尺八の遺品として貴重であるとともに、伝授に関わる資料も併せて現存することは稀有である。またこれらは尺八の製作ならびに伝承に関わる歴史的変遷を示すものとしても重要である。 平成19年(2007)9月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区市谷薬王寺町27 (浄栄寺) 新宿区登録有形文化財 浄栄寺の梵鐘 平成18年(2006)3月7日登録 浄栄寺第三世覚円の発願により、元禄9年(1696)に鋳造された銅造の梵鐘。総高134.5センチで、江戸鋳物師西嶋伊賀守藤原兼長の作である。 江戸鋳物師の製造技師が頂点に達した時期の作品で、江戸鋳物師の作風・鋳造技師を知ることができる。また、銘文から当寺の寺歴や梵鐘鋳造の歴史を知ることができ、史料的価値も高い。 太平洋戦争中の供出により区内の江戸時代の梵鐘は残存数が少なく貴重である。 平成18年(2006)10月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区若宮町・袋町 新坂しんざか 『御府内沿革図書』によると、享保16年(1731)4月に諏訪安芸守の屋敷地の跡に、新しく道路が造られた。新坂は、新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。 平成19年(2007)1月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区若葉1-5-19 (ランテンヌ四谷) 文化放送発祥の地 1951年11月、ここ新宿区若葉1-5の地に文化放送(1956年までは日本文化放送協会)の局舎が完成。翌1952年3月31日に東京で2番目の民間放送(JOQR)として電波を発し、2006年7月まで54年にわたりこの地でラジオ放送を続けてきました。新ロマネスク様式の地上6階地下1階建て鉄筋コンクリート造りの局舎は、設立母体がカトリック聖パウロ修道会であったため、ステンドグラス風のファサード、礼拝堂を利用したスタジオ等、随所に教会の雰囲気を漂わせた個性的で味わい深い建物でした。 所在地 新宿区若葉2-4 日蓮宗 稲荷山 妙行寺 いなりさん みょうぎょうじ 抑、当山は凡そ五百年前、後奈良天王の御宇江戸城際に開闢草創せる、真言宗寺院なりしが、時の往持頻伽法印、身延山第十一世行学院日朝上人の教化を受け、寛正の頃、日蓮宗に帰属せしものなり。その後、西紀1457年長禄の年、本立院日純、開山となり基礎を確立す。慶長19年に於て徳川氏開府の砌、江戸城域拡張に従い、朱印内寺構への為現在地に移り今に至るまで伝統を保てるものなり。当山に祀る稲荷尊は身延山開創の草分分体にして草分稲荷尊と称し、日朝上人と並んで地民の鑽仰厚かりしという。又、本堂に安置し奉る日朝上人の御尊像は頻伽法印報恩の為、彫刻せしものなりという。 当山八世玉峯院日静は、身延山第三十六世潮師法縁々祖六牙院日潮上人と親交深く、当山に残れる書簡により信仰の交流細やかに布教者魂意気投合せるという。特に日静は法華経壹萬部・読踊の功徳を以って豆塚を築き、当時流行せる疱瘡をしずめたことにより、上人の徳を慕い諸人の参詣、後を絶たざりしという。 十代沿う群家治の時、当山篤信伊藤氏の娘、側室として仕え、その縁により、一族、大奥の中﨟等の薬務につくもの多く、とくに興善院殿篤誉諦泰大禅尼の法号を授与された方は将軍家の信頼ことの外厚く、その縁により当山に赤門建立を許されたという。故に四谷麹町界隈に赤門寺として有名を馳せ、多くの外護丹精を受けたりしといわれる。その由縁は墓地及び顕彰供養塔に刻記し後世に伝へらるるなり。赤門に彫られし龍の彫刻は、当時、安永の名匠飛弾の甚五郎作と伝えられ、そのすばらしさは衆目をみはらせるものありいという。 当山檀徒、瀬名貞雄は江戸の國学者として著書も多く「室町三礼記」「十二月故實」「関東補任記」「殿上故実附記」等を著し江戸の地理に詳しく太田南畝との瀬田問答は当山で行れしものという。 当山は其後、関東大震災には微動だにせざりしが、今次大戦により、赤門、土蔵造りの本堂日朝堂、稲荷堂等、悉く烏有に帰し現在の本堂、客殿、庫裡は戦後建立せしものなり。 昭和63年(1988)戊辰4月29日 妙行寺執事 寄進 山田馨 所在地 新宿区若葉2-7-8 真言宗 金鶏山 真成院 四谷霊廟 金鶏山真成院は慶長年間開基清心闍梨本尊潮干観音を感得して開創せる名刹にして久しく霊妙奇瑞四隣に輝く然るに昭和20年(1945)5月25日戦災に罹り堂宇悉く灰燼す現住職田隆弘師これが再興につき時代即應の結機に基つく葬送納骨回向等総べて一堂にて執行する道場所謂四谷霊廟を企画設計するに至る 茲に機縁循熟し芝本産業株式会社々長芝本龍子氏関係者の懇請によりこの趣旨に賛同され建築及び内部荘厳等一切の調達に当り終に荘重華麗なる霊廟を円成せられたり誠に感激に堪へざるなりされば吾等この芳志を肝銘し永くその亀齢鶴寿を祷請してその鴻恩に酬いんとす嗚呼法悦感喜何物かこれに比せん耶 願くは奉安せられたる精霊日々の香花供養を納受され速かに密厳浄刹に優遊し給はんことを仍って彫板を鋳しえ事由を疏す 昭和46年(1971)8月吉日 四谷霊廟建築委員代表 大僧正 添田隆俊謹んで書す 延命地蔵菩薩 雨宝稲荷大明神 |
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