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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区矢来町59

真言宗
 出流山 満願寺 東京別院


所在地 新宿区須賀町10-2

曹洞宗
 宗福寺



 宗福寺には『源清麿墓』、『水心子正秀墓』があります。



 


所在地 新宿区須賀町10-2 (宗福寺)

新宿区指定史跡
 源清麿墓みなもとのきよまろ
     昭和59年(1984)12月7日指定

 江戸後期の刀鍛冶の名匠源清麿は、本名を山浦環といい文化9年(1812)信州小諸に生れた。
 はじめ上田の刀匠河村寿隆について鍛冶を学び、天保6年(1835)江戸に出て幕臣窪田清音のもとで兵学を学ぶ傍ら刀工として精進した。
 その後、四谷北伊賀町(現在の三栄町の一部)に居を構えて刀剣の製作に励み、名も源清麿と改めた。新々刀(江戸時代後期の刀)の刀工の第一人者として、天保・弘化年間(1830~1846「)に活躍した。その刀の切れ味は正宗のようだといわれ、「四谷正宗」と呼ばれた。
 寛政元年(1854)11月14日、42歳で没した。
 平成5年(1993)1月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区須賀町13

日蓮宗
 平等山 本性寺



 本性寺には『萩原宗固墓』、『北向き開運毘沙門天』、『伊谷以二郎顕彰の灯籠』があります。

 


所在地 新宿区須賀町13 (本性寺)

  伊谷以二郎顕彰の灯籠(真如院殿法光日壽大居士)1864~1937
伊谷氏は、わが国の水産界、水産教育の向上に力を尽し、大日本水産会長、日本缶詰協会長、日本水産学会長など各種役員に選任され生前功労に依り特旨を以て勲三等瑞宝章を加綬される。この灯籠は、昭和12年(1937)5月大日本水産会より贈られた。
 真榊
高松宮、伏見官両殿下より、伊谷以知二郎氏の霊前に贈る。
 昭和12年(1937)4月5日


所在地 新宿区須賀町13 (本性寺)

新宿区登録史跡
 萩原宗固墓はぎわらそうこ
     平成12年(2000)3月2日登録

 江戸時代中期の国学者・歌人萩原宗固(1703~1784)の墓地。平成6年(1994)に改葬整備され、宗固の養父母の墓石が並べて建てられている。
 宗固は市谷村町の生まれ。享保から天明(1716~1780年代)に国学者・歌人として活躍し、門人として国学者で『群青類従』を編纂した塙保己一や老中として寛政の改革を断行した白河藩主松平定信など著名な人物を養成した。
 特に塙保己一(1746~1821)は、『群青類従』の編纂に宗固の蔵書等を参考にするなど大きな影響を受けたという。
 宗固は四谷左門町・荒木町に居住するなど、新宿とのつながりの深い学者である。
 平成13年(2001)9月 新宿区教育委員会


  萩原宗固(1703-1784)
 江戸中期の国学者、塙保己一の師で歌人でもある。市谷本村町の鈴木家に生まれ、後に萩原氏の養子となって、本名貞辰、通称七左衛門といい百花庵と号した。幕府の御先手与力を勤めたが、病により辞した後は国学を学び和歌に親しんだ。晩年は四谷荒木町に住み、82歳で没した。著書に「一葉集」「蜻名遺傳」「靖鈴日記注釈」などがあり、次のような名吟がある。

 『夢中郭公』(ほととぎす)
 「夢なれや枕ならべてねし人も、きかぬ初音の山ほととぎす」


所在地 新宿区須賀町13 (本性寺)

  北向き開運毘沙門天
平等山本性寺の宗旨は日蓮宗。下総国小金宿平賀(千葉県松戸市)本土寺の末寺で、設立の縁起は家康の江戸入府に従って来た三河の郷士三田佐兵衛尉守綱(妙傳院殿蓮向日香大居士)が、麹町9丁目あたりに営んでいた隠居所を、寛永18年(1641)観智院日泳上人に譲渡し三田氏の没後、寛文10年(1670)その菩提を弔うため本性寺が設立されました。
この山門と正面にある毘沙門堂は戦災に焼け残った四谷では数少ない貴重な建築物である。双方とも総ケヤキ、釘を一本も使わない切組造り手斧削りで、建造年代は元禄頃とされている。毘沙門道に安置されている毘沙門天像は、もと江戸城本丸にあったもので、太田道灌時代から伝わっているとされ、5代将軍綱吉の側室、春麗院殿の発願により、堂とともに本寺に寄進された。この像は別名『北向き毘沙門天』といわれ徳川家康が北方の仙台伊達氏が謀反を起こさぬよう、北方の守護神、毘沙門天を北向きに安置して祈願したという伝説がある。以来江戸庶民の尊崇を集め、福運財運のご利益が顕著なので開運毘沙門天として一般の篤い帰依と信仰の的となっております。


所在地 新宿区西新宿6-7-1

  東京医科大学病院

 東京医科大学病院には『東京医科大学校歌碑』があります。


所在地 新宿区西新宿6-7-1 (東京医科大学病院)

  東京医科大学校歌碑

  建碑のことば
本校歌は大正14年(1925)土井晩翠氏により作詩 平野主水氏により作曲された 以来本学々生同窓生に広く愛唱されその士気を鼓舞してきた 子年は本学創立70周年 新病院の落成および維持会設立35周年に当りこれを記念し本歌碑を母校に寄贈 永く後世に伝えることとした
 昭和61年(1986)3月15日 東京医科大学維持会 峡邨謹書

  校歌 
一、
ヒポクラテスの 名によれる
ギリシャの昔 斯道の
光明 西のあさぼらけ
東亜は更に はるかなる
神話の蔭に にほう跡
源流二つ 彼と此
世々に広めし いさをしの
仰がざらめや 尊さを
二、
その千歳の遠きより
洋々の末 はてしなく
知の一切を 科として
万物の 霊人類の
病を救ふ 仁の術
修め学びて 帝城の

北の一隅 幾百の
青春の子等 睦み合ふ
三、
威を官学の 名に借らず
ただこれ力 誠より
湧き来る励 身を駆りて
倣ふは三たび 肱折りし
いにしへの跡 世にいでて
藁屋の中も 玉楼の
上も等しき 人の子の
生の恵を 補はむ
四、
道の蘊奥 理の極み
深きに限あらずとも
歩々の進に 人界の
福利次第に増すものを
滄海のうち一滴の
貢献われの責として
功成るとき わが校の
名に光明を 増さしめむ
   信山書






所在地 新宿区愛住町10-1

真宗大谷派
 四谷山 正應寺

 


所在地 新宿区愛住町10-3

真宗大谷派
 法雲寺



 法雲寺には『梵鐘』があります。


所在地 新宿区愛住町10-3 (法雲寺)

新宿区登録有形文化財
 法雲寺の梵鐘
     平成18年(2006)8月4日登録



 法雲寺大四世順意が枡屋、長谷川氏、飯田氏、江藤氏などの喜捨を受け、享保8年(1723)に鋳造された銅造の梵鐘。総高132.5センチで、江戸鋳物師河合兵部藤原周徳の作である。
 江戸鋳物師の梵鐘鋳造減少期における作品で、同時期における江戸鋳物師の技術的特徴を知ることができる。また、銘文から当寺の檀越等を知ることができ、史料的価値も高い。
 太平洋戦争中の供出により区内の江戸時代の梵鐘は残存数が少なく貴重である。
 平成18年(2006)10月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区愛住町18

  釣り文化資料館




                                      釣り地蔵


所在地 新宿区荒木町10

 金丸稲荷神社
 この金丸稲荷神社は御祭神に宇迦能御魂大神を奉斎しこの町の守護神として尊崇され今日に至る
 天和3年西暦1683年美濃国高須藩主松平摂津守この地一帯を拝領上屋敷とされし折り藩主の守護神として金丸稲荷社を建立奉斎せられしよりと云う この地を俗称津の守と云うは松平摂津守の上屋敷跡なるに起因する
 明治5年(1872)7月の政令によりこの荒木町が誕生し町の発展は勿論津の守三業地も次第に繁栄し気品高き芸妓と三業の名と共に金丸稲荷大神は荒木町民の暮しの中に鎮座せられ爾来百有余年を経るに至る
 大神は和合 繁栄 財宝 出世 安全 又 火伏せ の神として崇められ古くは度重なる江戸の大火にも尚大正12年(1923)の関東大震災にもその災禍を免がれたりと伝える
 昭和20年(1945)5月24日の東京大空襲に際しては惜しくも全町が焦土と化し去ったが町民には一人の死者もなかった事はこれ偏えに大神の霊験あらたかなる事と推察される
 昭和27年(1952)11月に現在位置の隣接場所に遷座奉斎し来たるも昭和50年(1975)4月吉日敷地整備のため神社は町内有志及び三業組合又崇敬者の寄進によって再び遷座再興されたものである
 御社殿の奉建に当り茲に無事息災を念じ朝夕に御社を迎ぎ神を敬う心を通じて町内の安穏にして幸福なる生活を築き町の繁栄を計り茲にこの輝かしい偉業を後世に伝うるものである
 昭和50年(1975)3月25日之建
金丸稲荷神社 荒木町々会長 佐藤政義
   同副会長 三浦小三郎 同原■吉
建設委員 四谷三業組合町 大久保義雄 
   同副会長 丸山キクノ
  須賀神社宮司 尾方伸輔 奉斎  石斧号 山下孝次郎刻










所在地 新宿区荒木町10

 津の守弁財天 策の池むちのいけ



 江戸時代の古書「紫の一本」によれば徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び澄んだこの水が高さ4メートルに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ「十二社の滝」「目黒不動の滝」「王子の名主の滝」等と並び江戸八井のひとつとして庶民に愛されていました
天和3年(1683)美濃国高須藩々主松平摂津の守がこの付近を拝領し上屋敷としましたので庶民から遠のきましたが約190年後の明治5年(1872)時の政府による廃藩置県の発令でこの池が開放され明治7年(1874)荒木町として住民の町となりました 人々は藩主の名を慕い「津の守」と呼び今なお愛称されています 現在では湧き水は減って池も埋まりこの滝つぼ跡に昔の語り草をわずかに残しています
古来池のほとりにあった弁天祠を昭和31年(1956)崇敬者によって現在地に遷座再建し「津之守弁財天」の御神明で町民の守り神としてお祭りし御加護を受けています
 平成17年(2005)乙酉卯月 荒木町々会 解脱会

 


所在地 新宿区西新宿2-11

  新宿中央公園



  十二社
このあたりは以前十二社と呼ばれました。地名は、公園西隅の熊野神社に因んで名付けられました。熊野神社の建立については、戦国時代に紀州熊野にある十二の権現を勧請したことによります。建立者は、中野長者鈴木九郎とも、土地の名主渡辺家の祖与兵衛ともいわれています。社を「そう」と読むのは、一つの社に十二の神様を一緒にまつった十二相殿からといわれ、十二相、十二双、などとも書かれました。江戸時代、神社に隣接した十二社池や那智の滝になぞられた十二社の滝は、江戸有数の景勝地でありました。境内には景勝をたあえた「十二社碑」が建立されていまう。明治にはいり、淀橋浄水場の建設で滝はなくなりましたが、遊興地として発展し、第一次大戦後には、60軒もの料亭が並んでいました。昭和7年(1932)、淀橋区十二社となりましたが、昭和45年(1970)、西新宿の一部に合併されました。十二社池は昭和43年(1968)に埋められました。

  Juniso
The area was used to be called Juniso.
It wasnamed after the Kumano Shiine dedicated to 12 deities "Juni"denotes "12" and "so" denotes "Shrine".



 新宿中央公園には『写真工業発祥の地碑』、『久遠の像』があります。


                               新宿ナイアガラの滝・新宿白糸の滝


                                       平和の鐘


                                 髪


                                              瞭


                                         燮
   燮
やわらぎ。ゆっくりと溶けあう。母と子の間の温い火のように、めぐりあう心と心をあ■かに煖めあおう



                                 


  絆(きずな)
このモニュメントは、人間と自然を地域社会と人々というテーマを”絆”という形で表現した作品である。
 1990年5月 作 三沢憲司 
 東京新宿ライオンズクラブ 東京新都心ライオンズクラブ


所在地 新宿区西新宿2-11 (新宿中央公園)

  久遠の像



 山吹の里伝説
この像は江戸城を築いた太田道灌が武蔵野の原で狩をした時の伝説の一情景であります
 1978年4月



 


所在地 新宿区西新宿2-11 (新宿中央公園)

  写真工業発祥の地碑
 この地は、明治35年(1902)5月、小西本店(現・コニカミノルタ)が、写真感光材料の国産化を図り、研究所と工場(六桜社)を建設し、製造を始めたところである。同社は、さらにカメラの製造も始め、写真フィルムの国産化にも成功した。その後、昭和38年(1963)、新宿副都心の建設事業により、八王子・日野へ移転した。今日わが国は、世界の写真王国となっているが、その礎は、この地で築かれたものである。
 昭和58年(1983)5月1日 新宿区


所在地 新宿区荒木町・四谷3

  車力門通り
江戸時代、荒木町が松平摂津守の屋敷だった頃、「車力門横町」と呼ばれ、物資が屋敷へ荷車で持ち込まれていた。



 


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