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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区舟町12・荒木町

   新坂しんざか
 全勝寺から靖国通り手前まで下る坂道で、明治30年代広汎の道路新装によりできた坂道である。江戸時代には、甲州街道から全勝寺まで杉の木が連なる「杉大門」通りが延び、新坂ができて靖国通りまで通じることになった。「今は杉樹は伐採し、其の路は新道に通じて、直ちに市谷に達せり」という光景であった(「新撰東京名所図会」)。
  平成16年(2004)2月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区舟町13

浄土宗
 紅葉山 西迎寺



 西迎寺には『阿弥陀如来座像』、『梵鐘』があります。


所在地 新宿区舟町13 (西迎寺)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
 西迎寺の阿弥陀如来座像
     昭和59年(1984)7月6日指定



 元禄7年(1694)旗本伏見勘七郎為智が父の供養のために、当時名鋳物師といわれた椎名伊予守良寛に製作させたものである。
 青銅製で、像高237センチ、台座高135センチ、両手の親指と人差指で環をつくり膝の上で合せた「定印」を結んでいる。
 区内の鋳造による阿弥陀如来座像としては規模が最も大きく、造立者や製作者が判明している点からも史料的価値が高い。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区舟町13 (西迎寺)

新宿区登録有形文化財(工芸品)
 西迎寺の梵鐘
     平成18年(2006)3月7日登録



 西迎寺第8世超誉萬愚が大壇越の伏見勘七郎為智等に広く喜捨を仰ぎ、貞享3年(1686)に鋳造された銅造の梵鐘。総高150.0センチで、江戸鋳物師椎名伊豫守良寛の作であり、同寺に伝わる「阿弥陀如来坐像」(区指定文化財)と同じ寄進者、鋳物師が関わっている。
 江戸鋳物沿いの製造技術が頂点に達した時期の作品で、江戸鋳物師の作風・鋳造技術を知ることができる。また、銘文から当寺の寺歴や梵鐘鋳造の歴史を知ることができ、史料的価値も高い。
 太平洋戦争中の供出により区内の江戸時代の梵鐘は残存数が少なく貴重である。
 平成18年(2006)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区西新宿2-11-2

  十二社熊野神社



 十二社の熊野神社は、室町時代の応永年間(1394~1428)中野長者と呼ばれた鈴木九郎が、故郷である紀州の熊野三山より十二社権現をうつし祠ったものと伝えられます〔一説に、この地域の開拓にあった渡辺與兵衛が、天文・永禄(1532~1569)の熊野の乱に際し、紀州よりこの地に流れ着き、熊野権現を祀ったともいいます〕。



 鈴木家は、紀州藤代で熊野三山の祠官をつとめる家柄でしたが、源義経に従ったため、奥州平泉より東国各地を敗走し、九郎の代に中野(現在の中野坂上から西新宿一帯)に住むようになりました。
 九郎は、この地域の開拓にあたるとともに、地震の産土神である熊野三山より若一王子宮を祀りました。その後鈴木家は、家運が上昇し、中野長者と呼ばれる資産家になったため、応永10年(1403)熊野三山の十二所権現すべてを祀ったといいます。



 この十二所が、昭和45年(1970)までこの地の町名であった十二社と読み変わったものとされますが、別に複数の社を1つに祀る相(双)殿形式で十二の社を祀った十二相(双)殿からきたという説もあります。江戸時代の文献にはこの他、十二處・十二荘・十二叢・十二層などの記述が見られます。



 神社は、江戸時代には熊野十二所権現社と呼ばれ、幕府による社殿の整備や修復も何回か行われました。
 また、享保年間(1716~1735)には8代将軍吉宗が鷹狩を機会に参拝するようになり、滝や池を擁した周辺の風致は江戸西郊の景勝地として賑わい、文人墨客も多数訪れました。


              角筈村熊野十二所権現社(『江戸名所図会』より)

 明治維新後は、現在の櫛御気大神(須佐之男命の別名)・伊邪那美大神を祭神とし、熊野神社と改称し現在にいたっています。
 氏子町の範囲は、西新宿ならびに新宿駅周辺及び歌町を含む地域で、新宿の総鎮守となっています。


                 十二社菖蒲の図  松斉芳宗 万延元年(1860)

  十二社の池
 十二社の池は、慶長11年(1606)伊丹播磨守が田畑の用水溜として大小2つの池を開発したもので、現在の熊野神社西側、十二社通りをへだてて建つ三省堂ビル・後楽園ビルのあたりにありました。
 大池は、南北126間・東西8~26間とされ、湧水があったようです。十二社の中池、上の溜井と呼ばれたほか、中野長者の娘が婚礼の夜1匹の蛇に変わり、この池に投身した伝説から蛇池とも呼ばれました。また、この池のくびれた奥の部分は別に上池と呼ばれたようです。


         角筈村熊野神社絵図面(明治初年頃、国立国会図書館蔵)

 池の周囲には享保年間(1716~1735)頃より多数の茶屋ができ景勝地として賑わい、文政3年(1820)の熊野神社の祭礼の時には角乗・筏乗などの見世物ができたりしました。


                        十二社大池の舟遊び(『淀橋誌考』)

 明治時代以降は、大きな料亭ができ花柳界として知られるようになり、最盛期には料亭・茶屋約100軒、芸妓約300名を擁したほか、ボート・屋形舟・釣り・花火などの娯楽も盛んに行われましたが、昭和43年(1968)7月に埋立てられました。
 小池は、大池の北側に隣接し、下池、下の溜井と呼ばれました。
 大池を分水したものえ、南北50間・東西7~16間ありました。
 昭和初期より一部の埋立てが行われ、水質の汚濁により昭和16年(1941)7月には多数の鯉が死んだため「こひ塚」が建立され、現在は熊野神社境内の池のほとりに建っています。小池はその後間もなく宅地化のため埋立てられました。


十二荘(江戸名所図会より)二代歌川広重 文久2年(1862)

  十二社の滝
 熊野神社の周囲には、いくつかの滝があり、あたりの風致に彩をそえていました。
 記録や古老の話から、つぎのような6つの滝の話が伝えられますが、それぞれの正確な位置やあった時期などははっきりしません。
①大滝
 『江戸名所図会』『江戸砂子』などに熊野の滝・萩の滝と記された滝で、高さ三丈・幅一丈と伝えられます。この滝は寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため玉川上水から神田上水に向け造られた神田上水助水堀(現在の新宿区立区民ギャラリーと熊野神社の間の道あたり)が熊野神社東端の崖から落ちるところにできたものです。
 池とともに、江戸中期以来景勝地として知られたもので、明治時代の落語家三遊亭円朝は自作の『怪談乳房榎』の中で、この滝を登場させています。
 しかし明治25年(1892)頃、淀橋上水場の工事に伴い埋立てられました。
②小滝
 『江戸土産』に記載があり、大滝に付設していた小規模な滝とされます。
③熊野神社神楽殿裏より小池(下池)にそそぐ滝
 「角筈村熊野神社絵図面」に記されている滝です。熊野神社西側斜面にあったものと思われます。
④大池のイチョウ脇にあった2つの滝
 古老の話によるもので、大滝の遊興街の大イチョウの脇に4m程の高さの滝が2本あったとされます。明治時代に茶屋が客寄せのため造ったもののようで、男女別があり人々が滝に打たれていたそうです。
⑤十二社にちなんだ十二の滝
 古老の話で、かつては十二の滝が存在したというものです。そのうちの3つが、熊野神社の甲州街道への参道の脇に、水の出ない赤土の滝として残っていたとされます。
⑥熊野神社南側、旧小西六工場付近の滝
 熊野神社の南東側には、明治35年から昭和38年(1902~1963)まで、この地の良質で豊富な水を使い、小西六写真工業(サクラフィルム)の工場が操業していました(写真工業発祥の地として説明板あり)。この工場のあたりにも滝があったと言われています。

 十二社熊野神社には『弁天社』、『こひ塚』、『延命陀羅尼二千一百万遍読誦碑』、『角筈胡桃下稲荷社』、『式三番奉納額』、『七人役者図会馬』、『十二社の碑』、『神輿蔵』、『清水長雄胸像』、『倉稲魂碑』、『大田南畝の水鉢』、『天野桃隣句碑』、『纏の碑』、『能勢嘉門賛碑』、『島川玄丈人壽兆碑』、『大島三社』、『大島三社の狛犬』があります。


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

 延命陀羅尼二千一百万遍読誦碑えんめいだらににせんひゃくまんぺんどくじゅひ

 元治元年(1864)に延命陀羅尼経を唱えたことを記念して建てられた記念碑で、神仏習合の時代を物語る資料です。
  新宿区



所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

新宿区指定有形文化財(歴史資料)
 式三番奉納額しきさんばんほうのうがく
     平成5年(1993)3月5日指定

 上部に式三番の図が描かれている奉納額で、拝殿内に2枚が掲げられています。向って右側は宝暦14年(1764)に9代目市村羽左衛門が、左側は弘化4年(1847)に12代目市村羽左衛門がそれぞれ奉納したもので、ともに板地着色、縦90.7cm、横31.4cmあります。
 図柄は、江戸三座のひとつ市村座で、11月の顔見世興行と正月の初春興行に、初日から三日間演じらrた式三番を描いたもので、座元の羽左衛門地震が翁を演じるのに因んで奉納されたようです。
 式三番は、歌舞伎舞踊のひとつで、祝賀や追悼の時に行われた能の「翁」を舞踊化したものです。
  新宿区


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

新宿区指定有形文化財(絵画)
 七人役者図会馬ちにんやくしゃずえま
     平成5年(1993)3月5日指定

 安永2年(1773)4月に、当時の若手歌舞伎役者の吾妻富五郎と大谷谷次が奉納した大絵馬で、拝殿内に掲げられたいます。
 板地着色で、縦136cm、横180cm。図柄は桜の大木の下に七人の歌舞伎役者の扮装姿と十二支の動物が描かれています。
 図中の役者は、当時の名優三世大谷広次や後に12代目羽左衛門を襲名する市村亀蔵らを中心とした市村座の役者たちです。
 この絵馬の作者一筆齋文調は、江戸時代中期、明和から寛政にかけえ、優れた役者絵を描いて活躍した浮世絵師です。
  新宿区


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

新宿区指定史跡
 十二社の碑じゅうにそうのひ
     昭和59年(1984)11月2日指定



 ここ十二社の地が、池や滝を擁した江戸西郊の景勝地であることを記した記念碑で、嘉永4年(1851)3月に建てられました。
 高さ210cm、幅119cm。江戸時代末期に江戸市中の様子を記した『江戸繁盛記』の著者寺門静軒と中野宝仙寺の僧侶負笈道人により、西郊の名所として有名になった十二社の様子を紹介したもので、表面には負笈道人の撰になる碑文と、寺門静軒による漢詩が刻まれており、字数は262字あります。
 また裏面は、負笈道人の略歴と人柄を、寺門静軒が記したものえ字数は286字に及びます。
 なお、書は中川憲齋(名は大彭、日本書堂は号)によるものです。
  新宿区


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

  神輿蔵
 神輿は、神社の例大祭などで氏子区域を巡幸するもので、古くは奈良時代の記録に見られます。
 普通は木製黒塗で、四角造・六角造・八角造・お宮造などの形式があります。主に屋根・胴・台輪の三部分からなり、屋根上には鳳凰を置き、台には2本の棒を貫きます。神社祭礼の神輿は、通常この棒を肩でかつぐ形です。
 この神輿蔵には、神社の宮神輿(大神輿)と、熊野神社の氏子の組織である睦の町神輿(大人神輿と子供神輿)が保管されています。
 宮神輿は、昭和3年(1928)に十二社と淀橋の氏子により製作されたもので、大祭に巡幸します。
  新宿区


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

  清水長雄胸像



 碑文
あなたは明治33年(1900)10月山梨県北巨摩郡明野村に生を享けられ、幼少より叡智衆にすぐれ人を卆いる徳望は齢十有九歳にして早くも明野村青年団長の選ばれ、次で立憲青年党を組織してその充実を図り、青年の政治意欲を鼓吹されましたが、このことはまたあなたの今日を約束づけるものでありました。大正10年(1921)あなたは公務員を志して群馬県庁に奉職されましたのを第一歩として、内務省、兵庫県、警視庁、商工省、及び軍需省の各要職に歴任、往くところ可ならざるはなき名声を博し、その精勤は報いられて、正五位勲五等に叙せられました。
昭和20年(1945)官を辞して金属回収統制株式会社代表取締役に就任されまし
たあなたは、政府の方針に従い全国戦災跡地の整理と十億に及ぶ債務の整理に努力せられ戦後の復興に大なる貢献をいたされました。昭和22年(1947)推されて東京都議会議員に立候補されましたあなたは政治に対する関心と熱意に加えて、多年官界民間に
あって蓄積された才腕と人徳は衆望翁然とあつまり見事に当選。爾来蛟龍の雲雨を得たるごとく、忽ちにして都政界の重鎮となられ、議長、副議長、委員長、都議会自由民主党政務調査会々長、同幹事長、その他各種と正の枢機に参画されまた全国都道府県議会議長会々長等の要職にも就かれ、この間欧米各国を歴訪されること二回。つぶさに行政制度の調査オリンピック大会東京招致の要請等に努力せられ、東京都はもとより全国の地方自治行政の発展に貢献されるとともに地元新宿区の繁栄のため終始尽力され、遂に新宿副都心の計画に成功する等、その功労まことに大なるものがありました。またあなたは全国知事会、全国都道府県議会議長等、地方六団体の財政確立対策協議会委員として常にその職責完遂に努力されておりますが、議長として在任中、政府の昭和34年度地方税財政措置策定の過程においては、その代表として地方自治財政確保のため寝食を忘れてこれが貫徹に邁進され、遂に目的を達成せしめました功績は地方六団体が感謝状を贈って衷心よりその心労を多といたしたところであります。この度、議長を辞せられるに当り東京都議会はあなたの偉大な功績に報ゆるに胸像一基を贈り、深甚なる感謝の意を表します。
 昭和35年(1960)3月
 清水長雄殿   東京都議会議長 内田道治


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

新宿区指定有形文化財(工芸品)
 大田南畝の水鉢おおたなんぽのみずばち
     昭和59年(1984)11月2日指定

 文政3年(1820)3月に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師大田南畝(蜀山人)(1749~1823)の書による銘文が刻まれています。
 外部は幅150cm、高さ60cm、奥行64cm。内部の鉢の部分は幅126cm、深さ23cm、奥行40cmあります。



 銘文は次のとおりです。
 正面
熊野三山
十二叢祠
洋洋神徳
監於斯池
 大田覃
  印 印

 右側面
「文政三年庚申」暮春

 左側面
奉納 淀橋

  新宿区


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社 大島三社

  大島三社の狛犬

 十二社熊野神社本殿裏の末社大島三社にある狛犬で、腹の下がくりぬきになっていない珍しいものです。享保12年(1727)「角筈村上野百姓店児講中」により寄進されたものです。
  新宿区



所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

 天野桃隣句碑

白桃や 雫も落ず 水の色
       太白堂 桃隣


 


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

  島川玄丈人壽兆碑

 紀州徳川家の侍医で、鍼術の大家島川草玄の長寿を祝って、紀州藩士川合衡の撰文により、文化4年(1807)に造られたものです。
  新宿区

 


所在地 新宿区西新宿2-11-2 (十二社熊野神社)

  能勢嘉門賛碑のせかもんさんぴ

 「滝津冷々一千尺 松樹森々十二層 司馬乃屋嘉門」
 「蝉の声 しくれて細し滝の糸 よれば暑さも 那智の俤 山陽堂竹友」
十二社の滝と周囲の風景をたたえた記念碑です。
  新宿区

 


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