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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区市谷左内町11 (長泰寺)

陸軍士官学校
 馬術教官部軍属之碑

     陸軍少将安満欽一書
 
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所在地 新宿区新宿2-15-20

浄土宗
 明了山 正受院 願光寺

 文禄3年(1594)に創建された浄土宗の寺院で、咳をとめるなど庶民の信仰を集めた脱衣婆像は区の指定文化財となっている。毎年二月8日には盛大に針供養が行われる。境内には、江戸初期以来の古い墓石や石仏も多い。



 正受院には『脱衣婆像』、『小見外次郎胸像・針塚』、『梵鐘』があります。


所在地 新宿区新宿2-15-20 (正受院)

 小見外次郎胸像・針塚




                      和裁無形文化財  小見外次郎翁之像


所在地 新宿区新宿2-15-20 (正受院)

新宿区指定有形民俗文化財
 正受院の脱衣婆像だつえばぞう
     昭和59年(1984)11月5日指定



 木造で像高70センチ。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「棉のおばば」とも呼ばれる。本像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永2年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。当時、綿は咳止めのお礼参りに奉納したと伝えられる。
 本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。像底のはめ込み板には「元禄十四辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる。
 平成9年(1997)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿2-15-20 (正受院)

新宿区登録有形文化財(工芸品)
 梵鐘(平和の鐘)
     平成14年(2002)2月1日登録



 宝永8年(1711)、江戸神田の鋳物師川合兵部藤原周徳により鋳造された銅造の梵鐘。
 総高135センチメートル、口径72.8センチメートル。竜頭は中央に宝珠を持つ両頭式、乳(突起)は四区に合計108個を配し、撞座は2個設けられている。
 池の相段は四区全体に銘文が刻まれている。それによるとこの鐘は、正受院第五世住職の覚誉上人が発願したものを、万人講の助力をえて第八世住職の仰誉が完成させたものであることがわかる。
 なおこの鐘は、太平洋戦争に際し、昭和17年(1942)に金属供出されたが、戦後アメリカのアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊にあるのが発見され、昭和37年(1962)12月に正受院に返還されたという数奇な来歴をもっており、「平和の鐘」と呼ばれる。
 江戸時代の梵鐘は、このような金属供出により現存数が少なく、価値が高い。
 平成15年(2003)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿4-3-19

曹洞宗
 護洞山 天龍寺



 天龍寺には『時の鐘』、『やぐら時計』があります。

 

所在地 新宿区新宿4-3-19 (天龍寺)

新宿区指定有形文化財(工芸品)
 やぐら時計
     昭和61年(1986)11月7日指定

 時の鐘とともに牧野備後守成貞が寄進したもので、この時計をもとに鐘を撞いたという。
 時計は、高さ103センチのやぐら型の台にのっているため、やぐら時計と呼ばれる。
 本体は縦24.5センチ、横16.5センチ、奥行16.3センチの箱型で、上に高さ11センチ、径15.1センチの鐘が付いている。
 文字盤は明治以後24時間制に取替えられているが、中央に牧野家の三つ柏の紋がついている。
 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿4-3-19 (天龍寺)

新宿区指定有形文化財(工芸品)
 天龍寺の時の鐘(追出しの鐘)
     昭和61年(1986)8月1日



 天龍寺の鐘は、元禄13年(1700)牧野備後守成貞により寄進されたもので、内藤新宿に時刻を告げた「時の鐘」である。
 現在の鐘は、銘文により元禄13年(1700)の初鋳、寛保2年(1742)の改鋳につづく3代目のもので明和4年(1767)の鋳造である。
 総高155センチ、口径85.5センチで多摩郡谷保村の関孫兵衛の鋳造になる。
 天龍寺の時の鐘は、内藤新宿で夜通し遊興する人々尾追出す合図であり「追出しの鐘」として親しまれ、また江戸の時の鐘のうち、ここあけあ府外であり、武士も登城する際時間がかかったことなどから30分早く時刻を告げたという。
 なお、上野寛永寺市ヶ谷八幡とともに江戸の三名鐘と呼ばれた。
 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿6-21-11

天台寺門宗
 梅松山 大聖院 五大尊寺








 大聖院には『紅皿の墓』、『大聖院文書』、『山吹坂』があります。



所在地 新宿区新宿6-21-11 (大聖院)

新宿区指定史跡
 紅皿の墓(紅皿の碑) 
     平成18年(2006)8月4日指定

 太田道灌山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(1基)、燈籠(2基)、水鉢(1基)、花立(2基)から構成される。
 板碑は区内で唯一のものとなる中世の十三仏板碑である。また、板碑の前には12代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられ、その存在が広く知られるようになった。
 伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し、『御拾遺集』の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
 紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中頃成立、展開し、幕末維新期を経て広まっていく様子を知ることができ、伝承、文献も含めた史跡として位置づけられ貴重である。
 平成18年(2006)10月 新宿区教育委員会











八重


所在地 新宿区新宿6-21-11 (大聖院)

 山吹坂やまぶきざか
 この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」にちなみ、こう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌山吹の里伝説で、雨具がないことを古歌に託して、道灌に山吹の一枝を捧げた女性である。
 平成17年(2005)2月 新宿区教育委員会

 

所在地 新宿区新宿6-21-11 (大聖院)

新宿区登録有形文化財(古文書)
 大聖院文書だいしょういんもんじょ
     平成3年(1991)12月6日

 大聖院に伝来する古文書・古記録類で、宝暦元年(1751)から明治4年(1871)におよぶ二巻五冊一葉である。
 内容は、大聖院と別当寺をつとめていた西向天神の由緒に関するものが多いが、文政7年(1824)の「東大久保村地誌書上帳」や境内にある紅皿の碑に関する「紅皿縁起」なども含まれている。
 点数は少ないが、残存する古文書の皆無な大久保地区にとっては貴重な史料である。
 平成4年(1992)2月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿7-3-13

曹洞宗
 昇龍山 観音庵





 観音庵には『筆塚』があります。


 


所在地 新宿区新宿7-3-13 (観音庵)

  筆塚
この筆塚は天保3年(1832)に当山に掛錫していた佛山禅苗和尚が天下泰平、国家安穏を祈願し、自らの小指の爪をはがし、その血で大般若経150巻を書写した時の血筆が納まっている碑です。
 曹洞宗 観音庵


所在地 新宿区大久保1-7

 新宿区立 小泉八雲記念公園
 


 明治時代の文人小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)はギリシャ・レフカダ町に生まれ、現在の新宿区大久保1-1でこの世を去りました。新宿区とレフカダ町は、この縁をもとに相互に交流を重ね、理解と友情を深めるため、平成元年(1989)10月有効都市となりました。
 新宿区は、この度、小泉八雲が没したこの地に小泉八雲記念公園をつくりました。この公園の設計に当たっては、コンスタンティノス・ヴァシス駐日ギリシャ大使並びにスピロス・マルゲリス・レフカダ町長から詳細な助言をいただき、ギリシャ風の公園として整備しました。
 ギリシャの雰囲気を出すため、古代の柱や集会場(アゴラ)をイメージした広場、中世風の建物、近代のイメージとしての白い壁などを設けました。
 この公園が、日本を世界に紹介した小泉八雲を偲ぶ場所となり今後、新宿区とレフカダ町の友好がより一層深まることを願います。
 平成5年(1993)4月 新宿区長 小野田隆



       LAFCADIO HEARN MEMORIAL PARK
 Lafcadio Hearn (in Japanese Yakumo KOizumi),a literary figure of the Meiji Era,was born on the Greek island of Lefks,and died in Shinjuku.Owing to this relationship,bonds of friendship were established between the municipalities of Shinjuku and Lefkas in October 1989.
 The Lafckio Hearn Memorial Park features characteristic elements of Greece,Yakumo's country of birth.
 I hope that this park will remind visitors ofLafcadio Hearn,who through his literary works greatly contributed in introducing Japan to the world,and that friendshop between Shinjuku and Lefkas will further deepen in the future.
 Takashi Onoda
 Mayor of Shinjuku City



 ギリシャのレフカダに生まれた小泉八雲は、明治23年(1890)に来日し、明治29年(1896)から亡くなるまで、新宿で暮らしました。
 八雲は失われつつあった、古き良き時代の日本の風俗を広く世界に紹介しました。
 『知られざる日本の面影』から始まる八雲の日本への研究は、『骨董』、『怪談』、そして、日本研究の集大成ともいえる『日本 一つの解釈』まで多くの著書として発表されました。自らの体験に基づいて書かれている八雲の作品には、現在でも高い評価が寄せられています。
 また、八雲は教育者としても多くの人々に影響を与えました。東京帝国大学(現・東京大学)文科大学や早稲田大学では、後に文芸界で活躍する多くの人々がその教えを受けています。
 このように、この新宿の地で晩年を過ごした小泉八雲は、近代日本に多大な影響を与え、今なお多くの人々に愛されています。
 東京都新宿区



 小泉八雲記念公園には『小泉八雲胸像』、『大久保サミットの記念碑』があります。


所在地 新宿区大久保1-7 (小泉八雲記念公園)

  小泉八雲胸像

ラフカディオ・ハーン(日本名小泉八雲)はギリシャの島レフカダに生まれ、新宿区でこの世を去りました
レフガタ町と新宿区は、この縁をもとに1989年10月友好都市となりました。
この度、新宿区が小泉八雲記念公園を造成するに際し、ギリシャ政府はレフカダと新宿を通してギリシャと日本の間の友好関係が一層深まることを願い、この胸像を新宿区へ贈ります。
 1993年4月 
 駐日ギリシャ大使
 コンスタンティノス・ヴァシス



 かりに、こんにち、すでに消滅してしまった古代ギリシャのどこかの都市生活のなかへ、しばらくでもはいることができたとしたら、そこに見いだされる家庭の祭は、おそらく、今もげんに残っている日本のそれと同じように、まことに楽しいものだろうと、わたくしはそんな気がしてならない。
 「日本 一つの試論」 小泉八雲著  平井星一訳


所在地 新宿区大久保1-7 (小泉八雲記念公園)

  大久保サミットの記念碑

私たちはこのまちがすきです
私たちはこの公園がすきです
そして、私たちはこのまちのひとがすきです

2004年、私たちは大久保小学校で「大久保サミット」をひらいたちいきの人、区役所の人、そして私たちが本気になってこのまちのことを考えた

だれもがともに楽しく、ゆったりできる公園
だれもが明日の希望をもてる大久保のまち
そんなまちづくりを子どもと大人が本気になっていっしょうけんめい考えた

一人のねがいが、みんなのねがいにつながり
みんなのねがいが、まちづくりにつながる

きいていますか、小泉八雲さん
あなたがこのまちを愛したように
私たちはこの公園をたいせつに
そしてこのまちを愛していきます
今、私たちはこのことをちかい未来の大久保の人につたえるためこのモニュメントをのこします
 2004年11月 新宿区立大久保小学校全児童制作
 協力 東京理科大学 理工学部 材料研究室
 (社)日本コンクリート工学協会関東支部

 


所在地 新宿区南元町20 (区立みなみもと町公園)

  鮫ヶ橋跡とせきとめ稲荷神
 南元町公園の西北隅に鮫ヶ橋の地名発祥の地と、せきとめ稲荷という小さな祠堂がある。鮫ヶ橋の地名は、この付近一帯の古くからの、呼称であり、その起源については、かって入り江が深かった頃に鮫が、橋下まで来たという説や、鮫馬がここで死んだので俗称されるようになったという説などがあるが、いずれにしてもはっきりしたことはわからない。
 「佐目河橋」「鮫馬が橋」と書く場合もある。現在はないが、ここに橋が架っていた。橋下の川は桜川といって、若葉町の低地を通って溜池に注いでいた。鮫ヶ橋の名は、現在南元町・若葉町にまたがる広い地域の呼称として、江戸の文学や俗謡によくでてくる地名である。
 いつの頃からかはっきりしないが、橋近くに稲荷社が祀られ、俗に「せきとめ稲荷」といわれている。かつて、川の堰があって用水の供給をしていたことから、堰がいつのまにか咳の意味に転化して、素朴な民間信仰となってきたものといわれている。
 『御府内備考』巻六十五には、「鮫河橋紀伊国坂の下に大溝あり、その所にかかる橋なり、今は此の辺の地名となりて、すべて鮫ヶ橋といえり。世の人鮫河橋を四ッ谷中の小字とするは誤りない。此辺古へ山中村と称せしを、家康御入国の後、伊賀者の知行に賜はりしより、一ツ木村と改めた。然るに橋の名殊に高かりければ、後年町並と成し時、橋名をおはせて町の名に唱へ来りしより、遂に此辺の惣名となれり」とある。
 昭和51年度 新宿区文化財総合調査報告書(二)より抜粋

 


所在地 新宿区南元町20 (区立みなみもと町公園)

 四谷鮫河橋地名発祥之所碑

沙美津川 千どり来なける古の 里の名ごりを伝ふ石ぶみ

 昭和50年(1975)3月建立 長尾保二郎 登女 建碑


所在地 新宿区歌舞伎町2-4

 島崎藤村旧居跡
 詩人・小説家の島崎藤村(1872~1943)は、馬籠(長野県)の生まれ。本名を春樹といった。明治学院を卒業後、明治26年(1893)『文学界』の創刊に参加。明治30年(1897)の『若葉集』にはじまる四詩集で詩人としての地位を確立した。
 明治38年(1905)4月29日、小諸義塾を退職した当村は家族とともに上京し、翌明治39年(1906)10月2日に浅草区新片町に転居するまでここに住んだ。ここは当時、東京府南豊島郡西大久保405番地にあたり、植木職坂本定吉の貸家に入居したのであった。(実際の場所はこの説明板の西側に建つ「ノア新宿ビル」のところ)。
 この頃から小説に転向した藤村は、ここで長篇社会小説『破戒』を完成し、作家として名声を不動のもんとした。
 しかし一方で、転居早々三女を亡くし、続いて次女・長女も病死するなど、藤村にとっては辛い日々をおくった場所でもあった。
 平成15年(2003)3月 新宿区教育委員会



所在地 新宿区南元町15-3

浄土真宗本願寺派
 銀樹山 林光寺
  林光寺の太子・高僧画像
 親鸞・蓮如・聖徳太子および7人の高僧を描いた四幅の画像で、寛延3年(1750)紀州家7代藩主徳川宗将が奉納したものである。

  林光寺文書
 林光寺に伝来する古文書・古記録類で、寛政元年(1789)から大正時代におよぶ64点である。
 中には隣接していた紀州家上屋敷との関係を示す史料も含まれる。
 

  林光寺の歴代宗主銘
 中央上部に親鸞上人を記し、以下信如上人から文如上人までの浄土真宗の歴代宗主の名を墨書した掛軸で、西本願寺の准如の筆になるものである。慶長7年(1602)の制作である。

  林光寺の高僧先達連座画像
 聖徳太子・小野妹子・蘇我馬子ら我国の仏教の先達と、源空・源信・親鸞ら高僧の肖像を配した画像で、その配置は林光寺独自の様式によっている。下地の絹と衣服の描き方から、南北朝時代(14世紀後半)の作と推定され、区内では貴重な中世絵画である。

 平成4年(1992)8月 東京都新宿区教育委員会













所在地 新宿区北新宿3-16-18

 鎧神社
 祭神
日本武命 大己貴命 少彦名命 平将門公
 縁起、氏子地
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として火帯との尊崇を受けて来たが、鎧の社名は日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を此の地に蔵めた事より社名起ると伝えている。天慶3年(940)関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、土俗の公を追慕して天暦(947)の始め、将門公の鎧も亦此所に埋めたという。別説によれば将門郡残党を追って此地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是れ皆将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円照寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔った所、病い悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰して来たものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の干渉で末社に移されたが、大戦後氏子全員の願いで本社に復する。氏子地は北新宿全域と西新宿一部
 平成3年(1991)11月吉日 宮司 新井義也 記











  江戸時代までh鎧大明神と称し、柏木村の古社といて村人の尊崇をうけてきた。平将門の陣営跡ともいわれ、狛犬型庚申塔は区指定文化財となっている。社内には保育園が建てられ、幼児の明るい声にみちあふれている。

 鎧神社摂末社の天神社には『狛犬型庚申塔』があります。


所在地 新宿区北新宿3-16-18 (鎧神社 天神社)

 狛犬型庚申塔
 素朴な一対の狛犬を用いた庚申塔で、台座正面に「庚申奉造立供養」。側面には武州豊島郡柏木村在住の講中の氏名と享保六辛丑天11月(1721)の紀年銘が記されている。
 向って右側が阿形像(雄)、左側が叫形像(雌)で、当時の姿をほぼそのまま残している。
 狛犬型の庚申塔は珍しく民俗学的にも貴重なものである。
 平成4年(1992)8月 東京都新宿区教育委員会










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