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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区西早稲田2-18 (源兵衛地蔵尊)

 彰忠碑

彰忠碑は四国松山と高知の間で採掘される大変珍しい「伊予の青石」で作られた日露戦争の凱旋記念碑です。表の字は投じの元帥陸軍大将・奥保鞏の書です。この周辺は当時、源兵衛村と呼ばれ、村から7名が従軍したことを記念して作られました。関東大震災でも倒れることはなく、東京空襲で戸塚地域がほとんど焼け野原になったとき、ここにある子育地蔵尊の周辺だけは奇跡的に焼け残り、お地蔵様が守ってくださったと地域の人々は感謝したそうです。
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所在地 新宿区市谷八幡町15 (市谷亀岡八幡宮)

 花のモニュメント「花物語」
 31億年前地球上に植物の祖先が誕生し、ストロマトライトという化石でそれを知ることができます。以降、植物や珊瑚はきれいな空気をつくり続け、そのお陰で今の地球があり、私たちは生きています。
 2億5千年前、地球上の大陸はゴンドワナ大陸ひとつであり、グロッソプテルスという植物で地上は覆われていました。その後大陸大移動により今の5大陸に分かれた訳です。人類のルーツもひとつだったかも知れません。
 緑豊かな地球を願い、中央の花にはグロッソプテリスの化石を使い、5大陸を5弁の花に喩えています。周囲の白い岩は沖縄の珊瑚を用いています。
 人々が植物の起源を知ることで植物の大切さを知り、植物を愛し育み地球の平和を願うきっかけとなうようにこの碑を建てました。
 花物語がいつまでも語り継がれることを祈ります。
 1998年(平成10年)4月



所在地 新宿区市谷八幡町15 (市谷亀岡八幡宮)

動き無き 御代画にとらば ふじの山
         明治三十六年八月建立





所在地 新宿区市谷八幡町15 (市谷亀岡八幡宮)

 八紘一宇碑
 「八紘一宇」とは世界を一つの家にするという意味で、太平洋戦争中、日本の海外進出を正当化するために用いられた標語です。




所在地 新宿区市谷八幡町15 (市谷亀岡八幡宮)

 名刀碑

名刀 長光ながみつを模した刀剣像に、昇り神竜がまきついている神秘的な碑です。明治三年建立されました。


所在地 新宿区信濃町35

 慶応義塾大学病院





 慶応義塾大学病院には『福沢諭吉胸像』、『食研跡地記念の碑』、『陸軍省所轄地境界石』があります。


所在地 新宿区信濃町35 (慶応義塾大学病院)

 食研跡地記念の碑
 塾祖福澤諭吉が唱えた食養の概念を具体化するため、大正15年(1926)益田孝ら財界人の厚意によりこの地に慶應義塾大学医学部食養研究所(食研)が設立された。
 研究所主任に大森憲太が就任し、栄養増進、食事療法およびビタミン学の研究を行った。昭和2年(1927)臨床と基礎の共同研究を推進すべく、小林六造のもと臨床最近研究室が併設された。食研は第二次世界大戦の戦火を免れ、大学の研究の灯はここに守られた。また中央検査室も食研に始まった。
 その後も食研は、慶應医学はもとより日本の医学の発展に大きく貢献し、平成2年(1990)11月27日その幕を閉じた。


所在地 新宿区信濃町35 (慶応義塾大学病院)

 福沢諭吉胸像
慶応義塾の創始者福澤諭吉先生は夙に医学教育の重要性を認め明治6年(1873)慶応義塾医学所を設け多数の名医を育成したが事情あり明治13年(1880)閉鎖するの巳むなきに至った その後福澤さんせいは適塾の同門長興専斎衛生局長の推挙により北里柴三郎医学博士と親交を結び福澤先生の御遺志はつがれて大正6年(1917)北里博士を部長として慶応義塾大学医学部が設立されるに至り今日に及んでいる
 昭和50年(1975)3月
 書 東龍太郎
 文 藤森章







所在地 新宿区信濃町35 (慶応義塾大学病院 東門)

 陸軍省所轄地境界石
信濃町には、青山練兵場とともに陸軍の重要な施設があり、現在の慶應病院周辺には、主に食糧や軍需品などを前線に補給するための基地や兵舎がありました。また、練兵場では陸軍の観兵式が行われていました。



 


所在地 新宿区赤城元町1-10 (赤城神社)

 狛犬
江戸時代、加賀白山犬とよばれて流行りましたが残っている物はわずかです。
型や表情はシンプルでスフィンクスに似ていますが胸を張り力がみなぎっています。
高天原からかみさまのお供をして来たような表情で澄まして座っていますが前肢は力強く全体に緊張感がみなぎっています。





所在地 新宿区新宿5-17-3 (花園神社 芸能浅間神社

 「圭子の夢は夜ひらく」の碑  作詞 石坂まさを  作曲 曽根幸明
赤く咲くのは けしの花 
白く咲くのは 百合の花
どう咲きゃいいのさ この私
夢は夜ひらく

十五 十六 十七と
私の人生 暗かった
過去はどんなに 暗くとも
夢は夜ひらく


所在地 新宿区新宿5-17-3 (花園神社)

 内藤トウガラシとカボチャ
 新宿御苑は、江戸時代高遠藩主内藤家の下屋敷でした。当時、武家では屋敷内の畑で、野菜などを栽培し自給する習わしが一般的で、内藤家でも野菜を栽培していましたが、中でも軽くて肥沃な土に適したトウガラシがよくでき、内藤トウガラシと呼ばれて評判となり、新宿付近で盛んに作られるようになりました。
 「新編武蔵風土寄稿」(1828)には、「四ッ谷内藤宿及び其辺の村々で作る、世に内藤蕃椒と呼べり」とあり、当時は新宿周辺から大久保にかけての畑は、トウガラシで真っ赤になるほどであったと言われています。
 このトウガラシは八房といって、実が房のように集まって付き、しかも上を向いて葉の上に出るような形になるため、熟すと畑一面が真っ赤に見えたのです。
 保存のできる調味食品として、庶民に喜ばれましたが、明治に入ると都市化により栽培も激減し、産地も西の方に移っていきました。
 この地域ではカボチャの栽培も盛んで、「内藤カボチャ」とか「淀橋カボチャ」ともいわれていました。
 平成9年度 JA東京グループ
 農業協同組合法施行50周年記念事業
 


   THE AGRICULTUREOF EDO & TOKYO
        Naito Bell Pepper and Squah
 The Shinjuku Imperial Gardens were the suburban residences of the feudal lord of Takatou clan,Naito Families.The land was light and ferile and suitable for the production of bell pepper.Famed as Naito bell pepper,it waspopularly grown in Shinjuku areas.Historical record tells that the fields around this shrine toward Okubo were full of mtured reddish peppers in the high season during the years 1830-1844.
 Squash was also grown abundantly here and renowned as Naito Squash or Yodobashi Squash.


所在地 新宿区新宿5-17-3 (花園神社)

 二宮金次郎像
 貧しい生活の中で、いっしょうけんめい勉強した二宮金次郎(のちの二宮尊徳)のこの石像は、昭和8年(1933)の校舎建築中のころ、長崎武文氏(昭和8年〔1933〕卒)の父、佐次郎氏が千葉か阿荷馬車で運んでこられたものです。
 平成2年(1990)10月27日



所在地 新宿区高田馬場3-29-11

 馬頭観音
 当馬頭観音は江戸時代の昔からこの地に在りました。当時は、農業が主で馬の使用が多く、また馬場では競馬が盛んに行われた関係で馬が死没した時は、現在の地に埋葬・供養をしたと謂う言い伝えがありましたが、その碑は戦災に遭い、戸塚村と刻んだ石のみが残っていました。そこで、宗教法人「解脱会」及び地元の方々の御協力を得て、現在の碑を昭和36年(1961)4月に再建し毎月17日を供養日と定め、通園・通学の児童達の交通安全と事故防止の祈願を込めて、この土地の御供養を致し今日に至って居ります。
 平成11年(1999)3月 同志 世話人一同










所在地 新宿区上落合1-1

 東京都下水道局 せせらぎの里





 


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