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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区北新宿3-23-2

真言宗豊山派
 医光山 瑠璃光院 円照寺(圓照寺



本尊 薬師如来像

豊島八十八ヶ所霊場8番

伝説 柏木右衛門桜ゆかりの地



真言宗豊山派の寺院で、医光山瑠璃光院円照寺という。もと鎧神社の別当寺であったといわれる。
縁起については定かではないが、「江戸名所図会」などによれば、次のような経緯を経て藤原秀郷によって建てられたという。
醍醐天皇の時代に、理源大師の弟子の貞崇僧都が現在の円照寺のあたりに、薬師如来像を安置した。承平5年(935)から天慶2年(939)にかけて平将門が関東に勢力をもつようになった。天慶3年(940)、藤原秀郷が将門を討伐するため軍勢を率いて出陣したが、中野のあたりで病に伏してしまった。あいにくと軍中に適当な薬もなくこまっていたが、その夜の霊示に従ってこの薬師如来像に祈ったところ、苦痛はたちまちのうちになくなったばかりでなく、あわせて行なった将門討伐の祈願も無事に達成された。喜んだ秀郷は、凱旋の後に堂塔を建立し、円照寺としたという。
また一説では、旧地頭の柏木右衛門佐頼秀の館跡であったとも伝えられており、境内にその由来にもとづく右衛門桜が植えられており、名木として有名だった(現在の木は三代目)。
 堂宇はその後何回か焼亡し、修覆をくり返した。寛永18年(1641)には春日局が施主となり再建されている。第二次大戦の戦災でも被害を受け、近年になり堂塔が新築された。
  新宿区



 閻魔堂





 
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所在地 新宿区弁天町1

曹洞宗
 雲居山 宗参寺



 宗参寺には『牛込氏墓』、『山鹿素行墓』、『山鹿修玄庵貞以墓』、『乃木将軍遺愛の梅「春日野」』、『藤原勝登重忝墓』、『大蔵龍河墓』、『由美原泉墓』があります。

 


所在地 新宿区弁天町1 (宗参寺)

 牛込氏墓
 牛込氏は室町時代中期以来江戸牛込の地に居住した豪族で、宗参寺の開基である。出自については「牛込氏系図」に藤原秀郷の後裔で上州大胡の住人であったとしているが定かではない。しかし「江戸氏牛込氏文書」(東京都指定有形文化財)によると大永6年(1526)にはすでに牛込に定住していたことが確認されている。
 小田原北条氏に属し、はじめ大胡とも牛込とも名乗っていたが天文24年(1555)には北条氏から宮内少輔の官位を与えられるとともに、本名を牛込とすることを認められた。領地として牛込郷・比々谷郷などを有していたが、天正18年(1590)の北条氏滅亡後は徳川家に仕えた。
 平成10年(1998)3月建設 東京都教育委員会

       Ushigome-shi Haka
 The Ushigome clan was a powerful family who settled in Ushigom,Edo since the middle of Muromachi Period.As per their origin,the Genealogy of the Ushigome Clan states that they were descendents of Fujiwara-no Hedesato and originally settled in Ogo,KOuzuke (in today's Gunma Pref.),which is however uncertain. It is confirmed by Documents on the Ushigome Clan,a Branch of the Edo Clan (tangible culturalassets designated by the Metropolitan Governmnt) that they already settled in 1526 in Ushigome.
 They were under control of the Hojo clan of Odawara,and originally used family name Ogo or Ushigome.The family head was entitled in 1555 to an honorary title unai shoyu and approved at the same time to use their official family name Ushigome.They held their own domains in Ushigome and HIbiya villages,and served for the Tokugawa clan after the destruction of the Hojo clan in 1590.
 Tokyo Metropolitan Board of Education 


所在地 新宿区原町2-30

顕本法華宗
 長遠山 常楽寺



 


所在地 新宿区早稲田鶴巻町568

 元赤城神社



 元赤城神社には『田島森碑』、『「神崎の牛牧」説明板』があります。

 


所在地 新宿区早稲田鶴巻町568 (元赤城神社)

 「神崎の牛牧」説明板
 文武天皇(701~704)の時代、現在の東京都心には国営の牧場が何か所もありました。
 大宝元年(701)、大宝律令で全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室の牛馬を潤沢にするため天皇の意思により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されましたが、ここ元赤城神社一帯にも官牧の牛牧が設けられました。このような事から、早稲田から戸山にかけた一帯は、牛の放牧場でしたので、「牛が多く集まる」と言う意味の牛込と呼ばれるようになりました。
 牛牧には乳牛院という牛舎が設置されて、一定期間乳牛を床板の上で飼育し、乳の出が悪くなった老牛や病気にかかったものを淘汰していました。
 時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年(1886)の東京府牛乳搾乳販売業組合の資料によると、牛込区の新小川町、神楽坂、白銀町、箪笥町、矢来町、若松町、市ヶ谷加賀町、市ヶ谷仲之町、市ヶ谷本村町と、牛込にはたくさんの乳牛が飼われていました。
 平成9年度JA東京グループ
 農業協同組合法施行50周年記念事業

    THE AGRICULTUREOF EDO&TOKYO
        Kanzaki Dairy Farm
 In the era of the Emperor Monmu(701-704),government-operated stock farms were established here and there in the center of the present metropolis.The area from Waseda to Toyama thronged with roaming cows and,therefore,called "Ushigome" (cow throngs).The area of this shrine was also cow ranches.
 In the dairy farm,there was established a dispensary where cows were reared on the floor for a period and unproductive old cows or sick cows were sorted out.



所在地 新宿区富久町7-30

 小泉八雲旧居跡
 ギリシアのレフカダ島に生まれ、数多くの作品により日本の姿を欧米に紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン、1850~1904)が明治29年(1996)8月、東京帝国大学文学部の講師として招かれ上京し、9月より東京で初めて居を構えた地である。
 彼の作品『異国情趣と回顧』にみられる様に、隣接する自証院(通称・瘤寺)の風致をこよなく愛し、縁深い境内を散歩などしていたが、開発により自然が失われていくのに心を痛め、明治35年(1902)3月、5年間住みなれたこの地から、武蔵野の面影がまだ残る豊多摩郡大久保村大字西大久保(現・大久保1丁目)に居を移した。
 「小泉八雲菖居跡」の碑は、小泉八雲生誕百年を記念して昭和25年(1950)に有志の手により建立されたものであり、英文はエドモンド・ブランデンの撰による。
 平成5年(1993)1月 東京都新宿区教育委員会







所在地 新宿区余丁町7先

 坪内逍遥旧居跡・文芸協会演劇研究所跡
 坪内逍遥は、明治22年(1889)から熱海の双柿舎へ居を移す大正9年(1920)まで、余丁町に居住した。
 この約30年間に坪内逍遥は、早稲田大学で教鞭を執る傍ら、雑誌『早稲田文学』の発行、シェークスピア作品の研究・翻訳等を行なった。
 また、後期の文芸協会を主宰し、明治42年(1909)には敷地内に文芸協会演劇研究所を設け、基礎理論のほか、実際の演技指導が行われ、後の日本の演劇界を担う多くの人材を養成した。
 現在、自宅として使用した建物や演劇研究所は滅失しているが、この地は、日本近代文学及び演劇史上重要な場所である。
 平成21年(2009)3月 新宿区教育委員会













所在地 新宿区榎町77

臨済宗妙心寺派
 蔭凉山 済松寺





 


所在地 新宿区原町1

 天祖神社
 慶長年間(江戸時代初め、400年ほど前)、諸国で神踊りが流行した時に、牛込の里は、とくに神踊りが盛んであった。この頃、この辺りに長兵衛という、たいへん信仰心の篤い里人がいたが、ある時、神が夢の中に現われ給うて、「我ここに住みて諸人の苦難を救わん」と言われることが、五晩続いた。そこで長兵衛はいよいよ信心を深めて、まるで、そこにあられるかのように神を祀った。それを聞いた大橋龍慶という長者が、天照皇大神宮を勧請して祠を建て、その後、諸難消除祈願、病気平癒祈願、安産祈願、弓術皆中祈願などえ、お参りするが人が絶えることなく、霊験あらたかな神社として知られ、原町1丁目の鎮守として、今日も多くの人々に信仰されている。
 御祭神じゃ天照皇大神、境内には桃の神を祀った桃祖神社がある。
 平成14年(2002)11月 原町1丁目町会



 天祖神社には『桃祖神社』があります。

 


所在地 新宿区原町1 (天祖神社)

 桃祖神社
 桃祖神社は、桃の神を祀る神社です。
古来、中国では桃は邪気を打ち払う霊力のある果実とされていて、『古事記』では、伊邪那岐命が黄泉の国からの帰途、邪気に追われ苦境に立たされた時に、桃の実を投げつけて、黄泉の国から脱出しました。そこで、伊邪那岐命は桃に感謝し、意冨加牟豆美命という神名を与えました。
以来、桃は神としてお祀りされるようになりました。
さて、何故に天祖神社の境内に、桃の神が祀られているのか。
それは、社伝によると、天祖神社は、天照皇大御神という女神を祀るという事から、多くの女性達が参拝しました。
その女性達の中には、慶事ではあるが、生命の危険もあった出産の無事を祈願する人も数多くいました。
そして神社側も、毎年盛大な安産祈願の祭を斎行して、その際に、「桃の御守」を参拝者に授与し、御神徳を広めたという事です。
この御守を受けて無事に出産をしたある女性が、桃の神に感謝し、一体の御神像を奉納しました。
この御神像をお祀りするためにお社を建立しました。
これが、現在の桃祖神社となりました。
以来、安産成就はもとより、子孫繁栄、あらゆる厄難消除などに御利益のある神様として、あつく信仰されています。
          
  


所在地 新宿区原町2-34

日蓮宗
 蓮紹山 瑞光寺

 


所在地 新宿区市谷柳町50

浄土宗
 護念山 宗圓寺(宗円寺)



 


所在地 新宿区若松町・原町3

 水野原通り
江戸時代に紀州徳川家の附家老水野家の屋敷があったことから「水野が原」と呼ばれていた。



所在地 新宿区西早稲田3

 茶屋町通り
江戸時代、この付近には旗本の馬術練習場があり、見物客等が多かったことから、地元の農家が茶屋を開いた。



所在地 新宿区余丁町4

 新宿区立 余丁町児童遊園



 余丁町児童遊園には『刑死者慰霊塔』があります。


所在地 新宿区余丁町4 (余丁町児童遊園)

 刑死者慰霊塔 東京監獄 市ヶ谷刑務所
昭和39年(1964)7月15日建之 日本弁護士連合会



所在地 新宿区西早稲田2-18

 源兵衛地蔵尊(子育地蔵尊)
 この地蔵尊がお立ちになっている付近は、元禄の末頃に源兵衛という人が来て、鉄砲玉を作り火薬の番をしながら荒地を開こんしましたところ同心の人々が集まって来て28戸から成る新しい村が出来ましたから源兵衛村という名がつけられたと言い伝えられています。
 その後、2、30年の間に、亡くなられた源兵衛をはじめ、同心縁者の菩提の供養をかねて、功績を記念するために村民の有志者が講中を結集して享保11年(1726)にこの地蔵尊を安置いたしました。
 源兵衛村、戸塚町、西早稲田と地名は変わりましたが、地蔵尊のお慈悲心は少しも変わることなく、信ずる人々の抜苦、与楽、子育、商売繁盛、交通安全などの諸願をすべて成就させてくださいます。   合掌
 昭和52丁巳年弥生 民族学研究家 三好圭十 記
 平成12年(2000)12月改修 西早稲田商店会




 源兵衛地蔵尊には『馬頭観音』、『彰忠碑』、『庚申塔』があります。

 


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