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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区南元町

  新助坂しんすけざか
 『新撰東京名所図会』には、「新助坂は四谷東信濃町に上る坂なり、一名をスベリ坂ともいふ、坂の下には甲武鉄道線の踏切隧道門あり」と記されている。明治30年代中頃には、新助坂の名で呼ばれていた。
 平成22年(2010)2月 新宿区


 
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所在地 新宿区南元町

  出羽坂
 明治維新後、この坂上に旧松江藩主であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになった。松平邸内には、修徳園と呼ばれる名庭があったが、太平洋戦争後取り壊された。
 平成9年(1997)3月 新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区弁天町100

真言宗豊山派
 照臨山 多聞院 吉祥寺
 山号
照臨山 吉祥寺
 本尊
大日如来
 開基
寛永年間(1624~1629)に法印覚賢により開創された
 宗派
真言宗豊山派
 総本山
長谷寺 奈良県桜井市初瀬
 祖師

宗祖  弘法大師(空海)
中興祖 興教大師(覚鑁)
派祖  専誉僧正
 開宗
真言宗は、その源を遠くインドに発し、平安時代の初め、弘法大師が中国(投じの唐)におもむいてこれをもたらされ、日本に確立されました。
 教え
偏ねく、ものの存在を肯定する曼荼羅思想やすべての人間にやどる仏性の光明を見つめる即身成仏思想をもとに、世のため人のためにお報いしようという「四恩酬答」の教えが基本です。
 霊場
弘法大師 御府内八十八ヶ所霊場 第三十一番
 境内
御府内八十八ヶ所霊場開基 正等和尚の墓、記念碑
大正時代の女優 松井須磨子の墓及び比翼塚
大正時代の詩人 生田春月の詩碑

 多聞院には『吉川湊一墓』、『松井須磨子墓』、『比翼塚』、『生田春月の詩碑』があります。


所在地 新宿区弁天町100 (多聞院)
 
新宿区登録史跡
 吉川湊一墓よしかわそういち
     平成14年(2002)2月1日登録

 江戸後期に平家琵琶の奥義を極め、検校にまで昇進した吉川湊一(1748~1829)の墓所。
 湊一は紀州熊野の生まれ。幼い時に失明。八重橋検校に入門し、平家琵琶を習得する。やがてその名人となり、寛政6年(1794)には検校に昇進。文政9年(1812)全国の検校を統括する職検校にまで昇りつめた。この時期、湊一は平家琵琶の第一人者として重きをなした。
 平家琵琶とは、「平家物語」を琵琶の前奏で語る伝承芸能で、平曲・平家・平家詞曲ともいう。検校は、平家琵琶語りの組織「当道座」の最高位にあたる。
 湊一は、職検校在任中京都で暮らしたが、文政11年(1828)に隠退して江戸に下り牛込に居を構え、翌年亡くなった。
 墓石は高さ121.5センチメートル。側面から裏面にかけて、湊一の出自と経歴が刻まれている。
 平成15年(2003)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区弁天町100 (多聞院)

新宿区指定史跡
 松井須磨子墓まついすまこ
     昭和59年(1984)12月7日指定

 大正時代のはじめに伊勢市を風靡した新劇所湯松井須磨子は、本名を小林正子といい、明治19年(1886)長野県松代に生れた。
 父の死後上京し、明治42年(1909)24歳のとき坪内逍遥が主宰する文芸協会の女優募集に応募し、第一期生となった。
 明治44年(1911)「ハムレット」のオフィーリア、島村抱月訳・演出「人形の家」のノラにより新劇の代表的女優となる。
 のち、島村抱月とともに文芸協会を退会し芸術座を組織、中心女優として活躍し、特に「復活」のカチューシャで全国的人気を博した。
 大正8年(1919)1月5日に、前年11月に病死した抱月のあとを追って自殺した。享年34歳であった。
 なお、墓前には芸術比翼塚の碑が建てられている。
 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区弁天町100 (多聞院)

  生田春月の詩碑
わが空しくも斃れなば   
  
あまたの友よあとつぎて
    
われにまされる詩を書けよ
ジヤン・コクトオやワ゛レリイの
伊達のすさびをやめにして
書けよ心の血の叫び     春月




所在地 新宿区歌舞伎町2-17-5

 稲荷鬼王神社

新宿山ノ手七福神
 恵比寿神

宇賀能御魂命うがのみたまのみこと(新宿の厄除け稲荷)〔お稲荷様〕
 生成発展・商売繁昌・家内安全・子孫繁栄・福招きの神様

月夜見命つきよみのみこと〔鬼王様(全国一社福授け)〕
 人の運勢を司どりツキを与えてくれる神様

大物主命おおものぬしのみこと(別名「大黒天」とも呼ばれています)
 商売繁昌・心願成就・病気平癒・身体健全・縁結びの神様

天手力男命あまのたじからおのみこと
 開運 武運長久の神様



 「鬼」というと私達はとかく悪いイメージをもちがちですが、古来、「鬼」は神であり「力」の象徴でもありました。又、「鬼は悪魔を祓う」といわれ、すべての災禍を祓う力があります。その為、鬼を祀ったり、鬼の名のつく社寺は全国に幾つもあります。しかし、その「鬼」の王様という意になる「鬼王」という名のある社寺は全国で当社のみです。この為、江戸時代は近在の農家の人達だけでなく、江戸から武士や商人、職人と多くの人が参拝にまいりました。現在では地図でみる新宿の中央にある唯一の神社としても注目を集め、全国から当社の御神徳を得ようとする方々が詣られております。扠この全国一社福授けの稲荷鬼王神社の由緒は左記の通りです。
 古来より大久保村の聖地とされたこの地に承応2年(1653)、当所の氏神として稲荷神社が建てられました。宝暦2年(1752)紀州熊野より鬼王権現(月夜見命・大物主命・天手力男命)を当地の百姓田中清右衛門が旅先での病気平癒への感謝から勧請し、天保2年(1831)稲荷神社と合祀し、稲荷鬼王神社となりました。それ故、当社の社紋は稲荷紋と巴紋の二つがあるのです。紀州熊野に於いて鬼王権現は現存せず、当社はそれ故、全国一社福授けの御名があります。この鬼王権現は、湿疹・腫物を初め諸病一切に豆腐を献納し、治るまで本人或いは代理の者が豆腐を断ち、当社で授与される「撫で守り」で患部を祈りつつ撫でれば必ず平癒するといわれ明治15年(1882)頃まで社前の豆腐商数件がこの豆腐のみにて日々の家計を営んでいたといわれたほどでした。今日でも広く信仰されています。この信仰について江戸時代の『新編武蔵風土記』だけでなく、時代は下って文豪、永井荷風も書き記しております。尚、当社では『鬼王様』の御名に因み、節分時鬼を春の神として『福は内、鬼は内』を唱えます。

  追記
 明治時代に旧大久保村に散在していた、火の神である火産霊神の祠や、盗難除けの神などの大久保村の土俗の神々が合祀されました。大祭は9月18日で、御輿はその前後の日曜・祝日に出御します。この宮御輿は鬼面の彫られた珍しいお御輿です。

  追記
 江戸時代に既に特異な『鬼王』という名の神社を勧請するのに地元に抵抗感が無かったのは、この土地がー文書では残っていませんがー平将門公(幼名・鬼王丸)に所縁があったのではないかとも言われています。



   境内特殊建造物・その他
 
 水盥台石(表鳥居左側) 
通称「力様」(リキサマ)。鬼形のこの水盥石は、相撲の力士が四股を踏んで病や苦しみを人に与える邪鬼を追い払ってる姿です。伝説は次の通り。『伝へ云う。この盥石もと加賀美某の庭内なる池汀にあり。文政3年(1820)の頃その処を更へした奇異を現わし、連夜庭内にて水浴の音を発す。加賀美某大に怪しみ一夜家宝の名刀を抜いて、これを斫れり。その後奇変熄みたるも家人病災頻りなるより、恐怖の念を生じ、天保4年(1833)、盥石斬りたる宝刀(鬼切丸と称す)と共に盥石を当社に寄進せりという。今も鬼形の肩辺に刀痕あり。賽者盥水をこれに注ぐと熱病又子供の夜泣き等は忽に平癒すると云い伝えられ、今に至るも信者頗多し。因に鬼切丸は翌天保5年(1834)盗み去られて今、その所在地を知らずとぞ。』
 
 稲荷鬼王神社霊泉
古来よりこの地にわくこの泉を、昭和3年(1928)につくられた井戸(水盥石の隣)は、現在もたえる事なく汲み上げています。

 泰平寺
江戸時代、神仏習合の時代に稲荷鬼王神社では当山脈修験青山風閣寺の末寺で、不動明王を祀る三宝山大乗院泰平寺というお寺があり、代々稲荷鬼王神社社家大久保家にて奉仕していましたが、明治の初め還俗して廃寺となりました。
  
 大久保家
当神社社家大久保家は新宿の有数の古い社家であり、昔大久保村といわれた地域の神社やお寺の多くは、大久保家が代々神職や別当職として奉仕していました。こお大久保村の「大久保」という字は、本来大きい窪地という意だったのが、当社家大久保家の名をとったという伝承があります。江戸時代、内藤家内藤新宿の領主)の信任も厚く、病気平癒等、祈祷を行なったと伝えられています。

 稲荷鬼王神社には『鬼王神社の水鉢』、『恵比寿神社(三島神社)』、『狛犬』、『浅間神社』、『天水琴』があります。


所在地 新宿区歌舞伎町2-17-5 (稲荷鬼王神社)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
 鬼王神社の水鉢
     昭和63年(1988)8月5日指定



 文政年間(1818~1829)の頃制作されたもおで、うずくまった姿の鬼の頭上に水鉢を乗せた珍しい様式で、区内に存在する水鉢の中でも特筆すべきものである。
 水鉢の左脇には、区内の旗本屋敷にまつわる伝説を記した石碑があり、これによると、
「この水鉢は文政の頃より加賀美某の邸内にあったが、毎夜井戸で水を浴びるような音がするので、ある夜刀で切りつけた。その後家人に病災が頻繁に起こったので、天保4年(1833)当社に寄進された。台石の鬼の肩辺にはその時の刀の痕跡が残っている。・・・・・」とある。
 この水鉢は、高さ1メートル余、安山岩でできている。
 平成5年(1993)1月 東京都新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区歌舞伎町2-17-5 (稲荷鬼王神社)

 恵比寿神社(三島神社)

新宿山ノ手七福神
 恵比寿神



 毎年10月19日、20日は新宿ゑびす祭
昔より当社ではこの日に『べったら』をもとめると金運がつき、食べ物をもとめると福がお腹にたまり、鉢植えの花は福が根付くと言われています。
その為、両日正午より境内に『べったら店』が出店します。


 恵比寿神社の水琴窟



 この水琴窟は平成16年(2004)3月に第16代宮司に大久保直倫氏が就任し、これを祝い氏子が恵比寿神社参道にある、手水に水琴窟師  田村光氏に依頼し建設致しました。埋蔵されている甕は常滑焼です。(稲荷鬼王神社拝殿脇の天水琴の甕は石州甕です。)
 手水鉢の水を柄杓ですくい左下方の紐の巻かれた石を目印に少しずつお掛け下さい。地中から弦を弾く様なかすかな響きが聞こえてきます。滴が作り出す、可憐で、聴くたびに不規則に変化する余韻が耳の奥にしみこみ人の心を包み込みます。竹筒に耳を近づけて聴いてみて下さい。
 平成17年(2005)2月吉日


 かえる石



 恵比寿様をお参りしてから手水から柄杓で、『かえる石』に水を掛け、次に『かえる石』をさすいながら、心の中で次の言葉を三度唱えます。

一日の無事を願う人、或いは交通安全や
旅行安全を願う人は『無事かえる』
開運を願う人は『良き運にかえる』
金運を願う人は『金かえる』
縁結びを願う人は『想い人の心が自分にふるかえる』『待ち人かえる』
健康を願う人は『若がえる』
あらゆる願いを『かなえる』
その後もう一度、恵比寿様にお参りします。


所在地 新宿区歌舞伎町2-17-5 (稲荷鬼王神社)

  稲荷鬼王神社の狛犬
 明治35年(1902)につくられたこの狛犬は全国でも非常に珍しい型をしています。向かって右の阿像は、親子の情愛を表わしています。何より特色があるのは、向かって左の吽像で、子獅子がしっかりと玉を加えてつかまえています。その為、その玉を吽[うん]の獅子の玉という事から、運を与えてくれる玉といわれ、子獅子がしっかりと持っている事から、子孫に福徳を与える玉ともいわれています。


 


所在地 新宿区歌舞伎町2-17-5 (稲荷鬼王神社)

 稲荷鬼王神社の天水琴

水琴窟の由来は小堀遠州の考えた、つくばいの排水装置、洞水門と言われています。
後に江戸期の庭師が水琴窟の名で音を楽しむ事を兼ねた装置として各地に作りましたが、残念な事に時代と共に忘れられた存在となりました。当社では往時の雅をしのび、平成16年(2004)11月3日に水琴窟師 田村光氏により雨水を利用した水琴窟、天水琴を建設致しました。
大神様のおわします社殿の屋根からの雨水を大きな甕に溜め、少しずつ水琴窟に注いで、音を奏でる仕掛けになっています。
耳を澄ますと、地中から弦を弾く様な、かすかな響きが聴こえてきます。
滴が作りだす、可憐で、聴くたびに不規則に変化する余韻が耳の奥にしみこみ人の心をつつみこみます。
竹筒に耳を近づけて聴いてみて下さい。
尚、つくばいの水は雨水ですので飲めません。


所在地 新宿区西新宿3-2-9 (新宿ワシントンホテル)

 野村専太郎・野村ます 夫妻像
韋駄天尊のご本尊は江戸中期の作とされ、明治、大正、昭和にわたり野村家が当地区の皆様とともに御守役を務めてまいりました。
このたび、都庁舎移転先が西新宿に決定されたのにともない、政治、経済、交通の中心としての新都心及び関係各位の将来を永劫にご守護賜るべくここにご尊殿を新築申し上げ、併せて精神的憩いの場ともなりますように、健康と長寿に恵まれている野村専太郎夫妻が衷心より韋駄天尊に対し感謝と奉仕を捧げる姿をご奉納申し上げる次第であります。
 昭和61年(1986)11月21日
 建立  藤田観光株式会社社長 田村雄平    
      野村建

 野村専太郎経歴

勲三等瑞宝章
衆議院議員(東京第一区選出)
小田急建設株式会社 社長
藤田観光株式会社 顧問
明治神宮責任総代
    制作  雨宮淳


所在地 新宿区西新宿3-2-9 (新宿ワシントンホテル)

 韋駄天尊

韋駄天尊は 増長天八将軍の一官として 甲冑に身を固め走ること疾風の如しと称され 仏法 衆生 交通の守護神として霊験あらたかなりと篤き信仰を集む
ご本尊は江戸中期の作とされ 上州館林の城主秋元但馬守礼朝公の守護神として当初江戸浅草に祭祀され 明治3年(1870)同公の下屋敷たる当地に遷座さる
その後広く地元の信仰を集め 大正8年(1919) 8坪の独立仏堂となるも第二次世界大戦末の空襲により昭和20年(1945)4月焼失破壊さる
戦後の混乱も漸く治まりたる昭和30年(1955) 地元に復興の機運高まり 本尊は仏画の大家宮原柳遷画伯の揮毫により 名工草野氏が仙台石に彫刻し 堂宇は大工頭領平田七五郎氏により総桧造りをもって再建さる
以来30年の星霜を経て 当地区は東京新都心として超高層ビルが林立し 且つ都庁舎も近く当地へ移転する時代を迎えんとす
ここに環境に相応しい近代的堂宇を新築申しあげ韋駄天尊が永劫に当地の守護神として御加護賜らんことを祈念す
 昭和61年(1986)11月21日 野村専太郎 建之

 


所在地
 【箱根山地区】 新宿区戸山2・3
 【大久保地区】 新宿区大久保3



 東京都立 戸山公園

 〔尾張藩徳川家下屋敷跡(戸山荘跡)・陸軍戸山学校跡

  箱根山地区の歴史
 この地区は、その昔源頼朝の武将和田左衛門尉義盛の領地で、和田村と外山村の両村に属していたことから「和田外山」と呼ばれていた。
 寛文8年(1668)に至り尾州徳川家(尾張藩)の下屋敷なり、その総面積は約13万6千余坪(約44万8千8百余m)に及び、「戸山荘」と呼ばれるようになった。
 この「戸山荘」は、寛文9年(1669)に工事を始め、天和(1681~1683)・貞享(1684~1687)の時代を経て元禄年間(1688~1703)に完成した廻遊式築山泉水庭である。
 庭園の南端には余慶堂と称する「御殿」を配し、敷地のほぼ中央に大泉水を掘り琥珀橋と呼ばれる木橋を渡し、ところどころに築山・渓谷・田畑などを設け、社祠堂塔・茶屋なども配した25の景勝地が造られていた。
 なかでも小田原宿の景色を模した「町並み」は、あたかも東海道五十三次を思わせる、他に類のない景観を呈していたと伝えられている。
 その後、一時荒廃したが、寛政年間(1789~1800)の初め第11代将軍家斉の来遊を契機に復旧された。その眺めは、将軍をして「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以て第一とすべし」と折り紙を付けしめたほどであった。
 安政年間(1854~1859)に入り再び災害にあい、その姿を失い復旧されることなく明治維新(1868)を迎えた。
 明治7年(1874)からは陸軍戸山学校用地とない、第二次大戦後は国有地をなりその一部が昭和29年(1954)から今日の公園となった。
 陸軍用地の頃から誰からともなく、この園地の築山(玉円峰)を「函根山」・「箱根山」と呼ぶようになり、この山だけが当時を偲ぶ唯一のものとなっている。
 平成2年(1990)3月公園整備を記念して   東京都



 戸山公園には『箱根山』、『陸軍戸山学校跡記念碑』、『戸山教会』があります。

 


所在地 新宿区戸山2・3、大久保3 (都立 戸山公園)

  戸山教会・私立戸山幼稚園(将校会議室跡)



 陸軍戸山学校の将校が会議を行ったところです。

 


所在地 新宿区戸山2・3、大久保3 (都立 戸山公園)

 箱根山
 現在の戸山ハイツ一帯には、江戸時代尾張徳川家の下屋敷があり、戸山山荘といった。その一画に高さ44.6mの築山があり、それが現在の箱根山である。







 


所在地 新宿区戸山2・3、大久保3 (都立 戸山公園)

 陸軍戸山学校跡記念碑
この地は和田戸という武士の館の跡で源頼朝が源氏の勢ぞろいをした所と伝えられ後代和田戸山と呼ばれた 寛文年間尾張徳川侯の下屋敷となり殿堂宮祠等かずかずの建物と箱根山を中心とし東海道五十三次に擬した風雅な庭園が造成された 明治6年(1873)その地に兵学寮戸山出張所が設けられ翌明治7年(1874)陸軍戸山学校と改称されて以来約70年にわたって軍事の研究教育が行なわれ国軍精強の基を培ったばかりでなく国民の体育武道射撃音楽の向上に幾多の寄与をした記念すべき地である この度東京都がこの地に緑の公園を整備されるにあたってこの記念碑を建てて東京都に贈る
 昭和42年(1967)11月 元陸軍戸山学校緑故有志一同

 


所在地 新宿区大久保1-1 (小泉八雲舊居跡碑横)

 小泉八雲終焉の地
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は嘉永3年(1850)ギリシアのレフカダ島に生れた。明治23年(1890)アメリカの新聞記者として来日、その後記者をやめ小泉セツと結婚 松江・熊本で教鞭をとった。
明治29年(1896)日本に帰化し、以来東京帝国大学早稲田大学で英文学を講じながら「怪談」等幾多の英文による名作を執筆した。
明治35年(1902)市谷富久町からこの地大久保に居を移した。
明治37年(1904)9月26日妻子の身を案じ、自分の仕事を気にしながら「ああ 病気のため・・・」の悲愴な一語を残し、帰らぬ人となった時に54歳であった。
伝統的な日本文化を広く欧米に紹介した彼の功労に対し、大正4年(1915)日本政府は従四位を追贈した。我が国の自然と文化をこよなく愛し、その真の姿を伝えた功績は偉大であり、高く評価されている。
 昭和61年(1986)10月23日 東京都新宿区長 山本克忠



          The Place Where Yakumo Koizmi Died
 Yakumo Koizumi(Lafcadio Hearn) was born in 1850 in Lefkadalsle,Greece.He came to Japan in1890 as a correspondent for the American Press.He later resigned from his job and married Setsu Koizumi,and taught in Matsue and Kumamoto.
 In 1896,he was naturalized as a Japanese citizen.He wrote several masterpieces in English,for example,"Kwaidan".During this time he taught Englesh literature in Tokyo Imperial University (the University of Tokyo) and Waseda University.
 He moved from Ixhigaya Tomihisa-cho to Okubo in 1902.
 He left this world on September 26 1904 at the age of 54 amidst worries about his wife,children and work,with the touching words "Ah,the sickness・・・".
 For his efforts in introducing traditiona Japanese culture,the Japanese Government admited him posthumously to the rank of "Jushii(Fourth Grade,Junior of the Court rank)" in 1915.
 His great love for the natureand culture of our country and hisefforts in introducing their true aspect is valued highly.
 October 23 1986
 The Mayor of SHinjuku Ward,Tokyo
 Katutada Yamamoto


所在地 新宿区大久保1-1 (小泉八雲終焉の地碑横)

小泉八雲舊居跡
明治35年(1902)3月ヨリ 明治37年(1904)9月マデ
 


所在地 新宿区市谷左内町11

曹洞宗
 鳳仙山 長泰寺





  長泰寺には『陸軍士官学校馬術教官部軍属之碑』、『祭馬碑』があります。

 


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