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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区愛住町9-3

天台宗
 円通山 安禅寺

 安禅寺には『たんきり子育地蔵尊』があります。


所在地 新宿区愛住町9-3 (安禅寺)

   たんきり子育地蔵尊
 このお地蔵さまはたん切り子育のお地蔵さまで子供のセキや老人のゼンソクのタンのきれない方が信仰すると効能がある霊験あらたかなお地蔵様です。
 その昔慶長13年(1608)真言僧行善によってこの寺が現在の和田倉門附近に創建され時から門前に安置されていた。
 その後江戸城の拡張工事があり寛永11年(1634)に安禅寺が現在地に移転した際にこのお地蔵様も一緒に引越してきました。
 降って幕末に近い安政6年(1859)の青山恩田の大火、大正12年(1923)の関東大震災に遭いその都度修復されて信仰を弘めて参りましたが近くは第二次世界大戦末期の昭和20年(1945)5月25日夜、お寺と共に焼失してしまいました。



 ところが形ある即ちお地蔵様の石の御佛体は亡びたが形なき者即ちお地蔵様の大慈大悲の御精神は亡びなかった。何故あらば、今またこゝにご縁ある人々の努力によって立派に復元建立された人々に篤く信仰されています。
(ご真言)おん・かー・かー・ひ・さ まえい・そわか
(ご縁日)毎月24日
 天台宗 安禅寺


所在地 新宿区河田町・若松町

 団子坂ざんござか
 昔この辺一帯が低湿地であり、この坂はいつも泥んこで、歩くたびにまるで泥だんごのようになったという。嘉永7年(1854)の『江戸切絵図』には「馬ノ首ダンゴサカト云」とある。
 平成15年(2003)3月 新宿区教育委員会




所在地 新宿区四谷4-15

  田安稲荷神社
  
 この地は、もと四谷永住町と云って町屋が出来たのは明治5年(1872)7月で戸数は27戸、人口94人(男46人・女48人)、車馬4台と、本当に草深い町で、その前年の明治4年(1871)5月迄は田安徳川家の下屋敷でした。
 田安徳川家は徳川8代将軍吉宗公が作った御三卿(田安・一橋・清水)の一つで吉宗公の次男宗武が享保14年(1729)田安徳川家の家祖(10万石)となり江戸城北の丸(現日本武道館のある北の丸公園)に上屋敷を構え、宝暦6年(1756)四谷大木戸御門(四谷4丁目交差点)内の地に下屋敷をつくりました。その折、田安徳川家の屋敷神様として田安稲荷神社をおまつりし代々の当主の崇敬深く、子孫繁栄、天下泰平を願ったものです。明治維新後下屋敷を明治政府に上納、明治4年(1871)5月に広大な家屋を撤去したのですが、稲荷社だけはそのまま取り残されました。翌年跡地に町屋が出来、四谷永住町と名付けられ、代々この地に住む人達が大切におまつりしてまいりました。


  鎮護稲荷神社
 鎮護稲荷神社は鎮火招福の守り神様として家内安全を願っておまつりしていたもので、当町10番地内にあった小祠で田安家と同じく明治4年(1871)迄は、徳川将軍家剣の指南役、柳生家(1万石)の下屋敷があった所で柳生家の稲荷神社でした。戦後、田安稲荷と合祀し、22番地内に田安・鎮護稲荷神社としておまつりしてまいりましたが、ビル建設のため、町会会館内にお移しちて町会が運営にあたり毎年二の午の日に祭礼を行い町民の皆様の崇拝をいただいておりました。当地におまつりして247年、始めは田安徳川家、柳生家の守護神として、明示維新後は代々この町に住む人々の守り神として、私達の町をお守り下さってまいりました。
 この度、当地15番地にマンション(パークアクシス四谷ステージ)を建設された近鉄不動産株式会社、マンション完成後、所有者になられた三井不動産株式会社には両稲荷神社の縁起をご理解され、マンション敷地内、緑地帯の一部に稲荷社の建設用地を提供して下さいました。町会は会員の皆様を始め、田安徳川家・地域の法人・団体・一般の方々の奉賛を得て稲荷神社の新社殿を竣工、町会会館内の仮宮より御遷座おまつり致しました。
 平成14年(2002)2月16日
 認可地緑団体 四谷四丁目町会
 田安鎮護稲荷神社奉賛会


所在地 新宿区喜久井町39

日蓮宗
 本妙山 感通寺
昭和20年(1945)5月25日當町ヲ含メテ山手地区ハ米空軍ノ空龍手ヲ蒙リ悉皆灰塵ニ歸セリ酸鼻ノ状タル死屍累々トシテ巷ニ倒レ残月白骨ヲ照シ遂ニ惨害シテ異物ト為スノ観ナリキ。殊ニ夏目坂台地ヨリ早稲田通リ向ケL字型ニ構築セル地下壕ノ中ニ避難ノ人々ハ爆撃炎上ノ■ト瓦斯ノタメ犠牲者参百余名ヲコエタリト。親ハ愛児ヲ抱キ、若キハ老タルエオ庇イ、夫ハ妻ヲ助ケント為シタル等、或ハ全身大焼炭化シ、或ハ生ケルガ如ク直立シ、或ハ両手ヲ虚空ニシテ落命セル等、目ヲ蔽イ言ヲ失フ恐怖地獄ノ惨状ナリキ。惨害無残非命ニ倒レシ犠牲ヲ念フトキ人皆歔欷シ或ハ慟哭シ、心折レテ生事ヲ悲シムノミナリ。屍ヲ積ンデ草木暒ク流血ハ瓦礫ヲ染メテ声ナシ、マコトニ国破レテ山河アリ、魂魄招ケドモ再ビ来ラズノ感懐ヲ深カラシム、ココニ春風秋雨メグリテ三十三年ノ歳月ヲ閲ミシ漸クニシテ観卋音菩薩一体ヲ造立シ奉ルコトヲ得タリ。願クバ日米彼我戦歿之諸英霊町内戦災殉難之諸精霊當寺戦死病没之諸英霊鎮魂供養ノタメナリ。今ヤ一会ノ大衆ト共ニ梵唄踊経修スル所ノ秘妙五段ノ加持ヲ以テ観卋音菩薩御尊像開眼供養ノ法儀ヲ営ナミ、仰而喜久井町観音ト名ケ奉ル者也、造立シ奉ル喜久井町観音、ソノ妙智之力ハ能ク群生ノ苦厄ヲ救イ、十方諸々ノ国土ニ於テ身ヲ現ゼザルナク、克ク生老病死ノ苦ヲ減ジ常ニ苦悩諸厄ニ於テ依怙トナラセ給ハン事ヲ。
 昭和52年(1977)5月25日 造立願主感通寺二十卋伝灯新間日恵■






 竹駒稲荷尊







所在地 新宿区四谷4-34

曹洞宗
 萬亀山 東長寺

 


所在地 新宿区若松町12・13

新宿区指定史跡 
 大久保の犬御用屋敷跡
     昭和61年(1986)6月6日指定

 厳島神社(抜弁天)の東側一帯(約1万坪)および余丁町小学校と警視庁第八機動隊を含む一帯(約1万3千坪)は、江戸時代に設けられた犬御用屋敷の跡である。
 5代将軍徳川綱吉は、男子徳松の死後世嗣にめぐまれず、これを前世の殺生によるものと深く悔い、貞享4年(1687)生類憐みの令を発し、生物の殺生をかたく禁じた。特に綱吉が戌年生まれであったため犬を重視したという。
 これに伴い元禄8年(1695)飼い主のいない犬を収容するため、四谷(千駄ヶ谷村、天龍寺の西)・大久保・中野(中野区役所一帯、旧囲町)の3ヶ所に犬御用屋敷を設置した。
 大久保の犬御用屋敷は、元禄8年(1695)5月25日に、四谷の犬御用屋敷とともに落成したもので、収容された犬は10万匹にのぼったと伝えられる。しかし次第に手狭になり、順次中野の犬御用屋敷にその役割を移し、元禄10年(1697)11月に閉鎖され、跡地は武家屋敷となった。
 平成8年(1996)10月 新宿区教育委員会



所在地 新宿区住吉町3

  飯塚正兵衛翁夫妻胸像
 大魂塔主旨
「丸正」創業者「飯塚正兵衛」は飯塚善次郎とりの五男として埼玉県北足立郡鴻巣町大字生出塚町(旧地名)に生れた。「正兵衛」23才の年、大正8年(1919)12月24日「青雲の志」を立て上京、四谷鮫ヶ橋にて引売八百屋を営む、大正10年(1921)5月25日牛込区市ヶ谷谷町百番地(旧地名)当地に妻「かね」を迎え、同時に八百屋商「武蔵屋」を開業した、創業以来58年その努力は実り、「正兵衛翁」80才にして「丸正チェーン店」は100店舗にまで発展した。「丸正」の発展に尽力した「物故者」の霊を慰め、「青果物」の供養と共に「翁」の創業の精魂を後世に伝えるために、ここ「丸正創業之地」に「大魂塔(大根塔)」を建立する。
 昭和53年(1978)5月25日

 建立者 丸正2代目 飯塚正司 
 建立実行委員
委員長 飯塚春男 
副委員長 長田幸雄
委員 小室実
委員 飯塚正司
委員 遠藤一之
委員 飯塚傳
委員 福田盛明
 物故者
中澤みわ 飯塚善作 飯塚登美 飯塚三平 飯塚留吉 飯塚きよ 飯塚かね 長田文代 鈴木清 飯塚すみ子 遠藤美佐子 中澤義夫 石川勝三郎 石川ふゆ 井上あき 鈴木久蔵 山埼義雄 伊藤宗盛 井上義晴 小室小四 大熊しげ 小倉正吾 福永清子 斉藤よし枝 伊藤正次 指田末之助 関岩夫 小宮実 岩淵司 矢部博一
 丸正会
飯塚正兵衛 飯塚すい 飯塚春男 長田幸雄 小林繁 飯塚正司 中澤光男 中澤重信 小室実 飯塚隆二 飯塚利勝 石川光春 飯塚一雄 飯塚実 鈴木長蔵 大熊一毅 峰岸吉五郎 木村重治 遠藤一之 勝又宗作 片岡吉伊 清水悠紀男 飯塚忠治 高倉和三 島田平吉 中正雄 田島三郎 緑川芳男 根本貢佑 窪田吉男 佐野雅雄 長田栄枝 小櫃登利 須藤勇 坂本多一 清水副次 松井正一 中島完治 湯山誠一 小山岱助 松村正 加藤正義 山崎清和 飯塚家記 伊藤亘 斉藤勲 田沼定雄 高橋正 岩月吉男 関有 武田克男 矢崎忠雄 飯塚五郎 福永幾弥 佐藤敏雄 星紀夫 内田正次 村上義勝 坂本友治 島野英行 今井利夫 庄司国之 古島信行 春木喜夫 染谷正五 菊池美智夫 窪田和男 柳川正平 柳田英雄 長田米蔵 矢部博晴 海老沢真 長田正幸 古牧正三 鈴木衛市 飯塚正男 保谷安茂 宮沢敬 綿貫英男 成島勇 鈴木時雄 熊田詔八 真道清幸 保谷保喜 長田藤雄 宮原藤夫 根岸米作 菊池将 手島進 林初夫 鯨井義一 河野安夫 伊倉常幸 梁瀬倉松 永井昌治 田尻勇 沢野靖 高橋宏 菊池孝雄 佐々木一三 下村正 野原秀夫 小野口秀雄 吉沢昭 栗原忠雄 山口光男 須藤正 山田政夫 雨沢正 伊藤洋司 山口清 木次悦治 星川今朝松 板野和吉 野口淳三 石川栄一 秋山政雄
 正進会
長田栄枝 飯塚正司 飯塚実 清水悠紀男 勝又宗作 岩月吉男 飯塚忠治 湯山誠一 保谷安茂 梁瀬倉松 津田吉男 福永幾弥 坂本多一 松井正一 須藤勇 坂本友治 菊池美智男 遠藤一之 高倉和三
 正和会
飯塚正司 小室誠一郎 長田耕一 鈴木久志 長田正幸 飯塚隆雄 鈴木衛市 中澤光男 飯塚正男 大熊勝 今井利夫 佐藤守一 長田和久 中一男 飯塚勇 小松頼明 中澤信行 小林正市 長田幸造 中光雄 小室保治 石川正春 島田謙司 清水正幸 飯塚司郎  飯塚善司 遠藤一美 飯塚雄二 長田茂
施主  丸正食品株式会社
協賛  丸正会 丸正チェーン商事 丸正商事
計画  彫刻家 津上昌平
設計  像制作 津上尚也
施工  ㈱明治石材商会 
 昭和53年(1978)正月

















所在地 新宿区市谷仲之町・河田町・住吉町

  念仏坂ねんぶつざか



 『新撰東京名所図会』では、昔この坂に老僧がいて昼夜念仏を唱えていたことにちなむという。また、この坂は左右を谷に臨み、屈曲しており危険だったので、仏名を念じて往来する人がいたことにちなむともいう。
 平成17年(2005)2月 新宿区教育委員会




 坂の途中には碑があります。碑には

ねんぶつ坂
 昭和五十五年十一月 
  念佛坂下 塩谷金次郎


 とあります。


所在地 新宿区住吉町10-10

浄土宗
 清光山 安養寺



 

 安養寺前には『安養寺坂』があります。


所在地 新宿区住吉町

 安養寺坂あんようじざか
 



 『新撰東京名所図会』に「安養寺坂は念仏坂の少しく北の方を西に大久保余丁町に上る坂路をいふ。傍に安養寺あるに因れる。」とある。安養寺は浄土宗知恩院末の寺院で、もと市谷左内町富士見坂のあたりにあった。そこが明暦2年(1656)、尾張藩上屋敷となるため現在地に移ったという。
 平成17年(2005)2月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿1-21 (区立花園公園)

新宿区指定史跡
 三遊亭円朝旧居跡さんゆうていえんちょうきゅうきょあと
     昭和61年(1986)6月6日指定



 このあたりは、明治落語界を代表する落語家三遊亭円朝(1839~1900)が、明治21年から明治28年(1888~1895)まで住んでいたところである。
 円朝は本名を出淵次郎吉といい、江戸湯島の生れ、7歳のとき小円太の名で初高座をふみ、9歳で2代目円生の門下に入門した。
 話術に長じ、人物の性格・環境を巧みに表現し、近代落語を大成した。また、創作にもすぐれ、自作自演に非凡な芸を発揮し、人情話を完成させた。代表作に「塩原多助」「怪談牡丹灯籠」「名人長二」などがある。
 屋敷地は約千平方メートルで、周囲を四つ目垣で囲み、孟宗竹の薮、広い畑、桧・柿の植込み、回遊式庭園などがあり母屋と廊下でつづいた離れは円通堂と呼ばれ、円朝の居宅になっていた。
 新宿在住時の円朝は、明治24年(1884)以降寄席から身を引き、もっぱら禅や茶道に心を寄せていたという。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿2-15-18

浄土宗
 成覚寺

 
文禄3年(1594)に創建された新宿区内でも比較的歴史の古い寺院で、浄土宗に属している。境内には、恋川春町の墓旭地蔵子供合埋碑(全て、区の指定文化財)などが残っている。



 成覚寺には『旭地蔵』、『子供合埋碑』、『恋川春町墓』があります。


所在地 新宿区新宿2-15-18 (成覚寺)

新宿区指定有形文化財(歴史資料)
 旭地蔵あさひじぞう
     昭和60年(1985)8月2日指定



 三界万霊と刻まれた台座に露座し錫杖と宝珠を持つ石地蔵で、蓮座と反花の間に18人の戒名が記されている。これらの人々は寛政12年(1800)から文化10年(1814)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人達で、そのうちの7組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であると思われる。これらの人々を供養するため寛政12年(1800)7月に宿場中が合力し、今の新宿御苑北側を流れていた玉川上水の北岸に建立した。
 別名夜泣地蔵とも呼ばれていたと伝えられる。
 明治12年(1879)7月道路拡張に伴いここに移設された。
 宿場町新宿が生みだした悲しい男女の結末と新宿発展の一面を物語る貴重な歴史資料である。
 平成5年(1993)11月 東京都新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区新宿2-15-18 (成覚寺)

新宿区指定有形文化財(歴史資料) 
 子供合埋碑こどもごうまいひ
     昭和60年(1985)8月2日指定

 江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女めしもりおんな(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。
 飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。
 もともと墓地の最奥にあったが昭和31年(1956)の土地区画整理に際し現在地に移設された。
 宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一面を物語る貴重な歴史資料である。
 平成5年(1993)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿2-15-18 (成覚寺)

新宿区指定史跡
 恋川春町墓こいかわはるまち
     昭和60年(1985)7月5日指定

 恋川春町(1744~1789)は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師・狂歌師・戯作者で本名を倉橋格俗称を寿平という。
 江戸小石川春日町に住んでいたところから恋川春町を号した。
 多くの書に挿絵などを描いていたが、安永4年(1775)自画自作の「金々先生栄花夢」を出版し、世相・人情の風刺を試み大歓迎を受け、多くの追随作を生み黄表紙という新しいジャンルを開拓し、文学史上に大きな影響を及ぼした。



 墓石には正面に一族の者二人と並んで戒名、俗名、没年が記され更に左側面に張る町の辞世の区が
 生涯苦楽四十六年
  即今脱却浩然帰天
   我も万た身はないものとおもひしが
    今ハのきハヽさ比しかり鳧

と記されている。
  平成5年(1993)11月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿6-15-2

浄土宗
 西光庵



 西光庵には『観無量寿経曼荼羅』があります。

 


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