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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区坂町

  坂町坂
 坂名は「坂町」という町名にちなんで、呼ばれていたようである。『御府内備考』では、坂の名称はつけられていないものの、百メートルを越す長さがあることが記されている。
 平成18年2月 新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区三栄町22

  新宿歴史博物館
 新宿区の文化財、郷土資料等の収集、保存調査研究のため平成元年(1989)に開館した。区の郷土資料、行政資料等を収集保管しており、調査研究のため気軽に利用できる。また、一巡すれば新宿の歴史がわかる常設展示のほか、年1回の特別展、2回の企画展が開催される。





 新宿歴史博物館入口には『四谷見附橋 高欄』があります。


所在地 新宿区三栄町22 (新宿歴史博物館)

  四谷見附橋 高欄
 大正2年(1913)10月に開通した四谷見附橋の欄干の一部です。四谷見附橋は、現在の国道20号線(甲州街道)にかかる橋で、JR中央線四ッ谷駅を跨ぎ、新宿区と千代田区を結んでいます。
 この橋がかかるまで四谷見附は、江戸城防備のため甲州街道の要衝として築かれたコの字状の枡形の名残をとどめ、麹町方面には直進することができませんでした。そこで東京市は、甲州街道を直行する橋を計画し、明治44年(1911)3月に着工、大正2年(1913)10月に完成しました。



 橋のデザインは、近くの赤坂離宮(現在の迎賓館)の外観と調和させたネオ・バロック様式(19世紀、ナポレオンⅢ世の頃パリで流行った荘重・華麗な建築様式)となっています。
 橋は、平成3年(1991)に道路拡幅のため架け替え、再使用できない部材の一部が当館に寄贈されまいた。また、架け替え前の四谷見附橋の姿は、八王子市南大沢の長池公園に復元されており、長池見附橋と名づけられています。


                   竣工時の四谷見附橋(「建築写真類輯 橋梁」より)


         高欄と装飾(「建築写真類輯 橋梁」より)


所在地 新宿区三栄町・荒木町・坂町

  津の守坂つのかみざか
 荒木町と三栄町の境を靖国通り手前までくだる坂である。別名を小栄坂ともいう。昔坂上の西脇に松平摂津の守の屋敷があったのでその名を略して津の守坂と称した。
  平成元年(1989)3月 東京都新宿区教育委員会






所在地 新宿区市谷山伏町1-3

  市ヶ谷小学校の煉瓦塀
 この煉瓦塀は、大正9年(1920)4月に、当時東京では珍しい木造3階建ての校舎と共に造られました。
 大正12年(1923)の関東大震災、そして、戦争を乗り越えました。
 その間、多くの子供達を温かく見つめ、そして見送り、卒業生一人一人の心に、懐かしい思い出をよみがえらせるものであり、又、いにしえの市谷小学校を想像させる記念すべきものであります。
 生涯学習が大切と言われる今日、心の故郷として、今後も校章と共に、いつまでもシンボルとして大切に保存して行きたいものです。
 平成7年(1995)10月29日 市谷小学校同窓会

 


所在地 新宿区市谷山伏町1-16

国史跡
 林氏墓地
     大正15年(1926)10月20日指定

 林氏、一世羅山が朱子学をもって徳川家康に仕え、以来すぐれた儒学者が続き、代々幕府の学制を司る家柄であった。
 墓地は、上野忍ヶ岡にあったが、元禄11年(1698)三世鳳岡の時この牛込の地を賜り、移設された。現在の墓地は次第に縮小されたもので、儒葬による埋葬様式をとどめているのは八世から十一世までの墓のみであるが、現存する希小な遺例として貴重である。この墓地には十二代の代々の当主の他、その家族など八十一基の墓碑等が林立している。
 昭和50年(1975)3月から墓地の適正な管理保全を期するため、新宿区の所有とした。これに伴い区では、墓地内の修理と環境整備を行い同時にぢん塾区文化財調査により墓地の調査を実施し、これらの調査記録を、「国民跡林氏墓地調査報告書」として刊行した。
 毎年11月初旬の文化財保護強調週間には、墓地の一般公開を行っている。
 平成5年(1993)11月 新宿区教育委員会



   林氏墓地
 江戸時代、朱子学をもって徳川幕府に仕えた林羅大とその一族・子孫の墓所で、国の史跡に指定されている。
 当時、儒学は武家の必須の学問であったが、幕府は特に朱子学をその正統とした。林家は朱子学の正統を武家の子弟に教授するため上野忍ヶ岡の別邸内に家塾を開き、孔子を祀る聖堂を建てた。
 この家塾は、五代将軍綱吉の時に湯島に移され、拡張されて昌平黌となり、さらに林術斎(第八世)の時に幕府に献上され、官学として整備されるに至った(湯島聖堂として現在ものこる)。
 なお林家は、当主が代々大学頭などに任ぜられ、学問・法制・外交などの分野で手腕をふるった。
 この墓地は、元禄11年(1698)鳳岡(第三世)の時に拝領した屋敷地の一部に造営されたものである。縮小整備されたため、往時の様相は失われているが、八~十一世当主の墓四基は、めずらしい儒葬の様式をとどめた貴重なものである。
 平成8年(1996)3月 東京都新宿区教育委員会




初代当主 林羅山
二代当主 林鷲峰
三代当主 林鳳岡
四代当主 林榴岡
五代当主 林鳳谷
六代当主 林鳳潭
七代当主 林錦峰
八代当主 林述斎
九代当主 林檉宇
十代当主 林壮軒
十一代当主 林復斎
十二代当主 林学斎


所在地 新宿区市谷船河原町

  逢坂おうさか
 昔、小野美佐吾という人が武蔵守となり、この地にきた時、美しい娘と恋仲になり、のちに都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で、再び逢ったという伝説に因み、逢坂と呼ばれるようになったという。
 平成19年(2007)3月 新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区市谷本村町2~本塩町

  高力坂こうりきさか
 新撰東京名所図会によれば「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の邸あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外濠線往復す。」とある。
 すなわち、高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名だったので、その松にちなんで、坂名を高力坂と名付けたものと思われる。
 昭和58年(1983)3月 東京都

 


所在地 新宿区市谷薬王寺町12

曹洞宗
 長昌寺


                                       子育地蔵尊


所在地 新宿区市谷柳町25

  試衛館跡しえいかんあと



 幕末に新選組局長として知られる近藤勇の道場「試衛館」は、市ヶ谷甲良屋敷内(現市谷柳町25番地)のこのあたりにありました。この道場で、後に新選組の主力となる土方歳三、沖田総司などが剣術の腕をみがいていました。
 平成16年(2004)3月 新宿区

 


所在地 新宿区若宮町

  神楽坂若宮八幡神社

若宮八幡神社は鎌倉時代に源頼朝公により建立された由緒ある御社で
 御祭神 仁徳天皇 応神天皇
当社の御由来は
若宮八幡宮は若宮坂の上若宮町にあり(或は若宮小路ともいへり)別当は天台宗普門院と号す 傳ふに文治5年(1189)の秋右大将源頼朝公奥州の藤原泰衡を征伐せんが為に発向す其の時当所にて下馬宿願あり後奥州平治の後当社を営鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を移し奉ると云へり(若宮は仁徳天皇なり後に応神天皇に改め祭ると云ふ)文明年間太田道灌 江戸城鎮護の為当社を再興し社殿を江戸城に相対せすむるなり当社は文明の頃迄は大社にして神領等あり美れいなりしという
神域は黒板塀の神垣南に黒門あり門内十歩狛犬一対(明和8年〔1771〕卯年8月奉納とあり)右に天水釜あり拝殿は南に面する瓦葺破風造梁間桁行三間向拝あり松に鷹象頭に虎を彫る「若宮八幡神社」の横額源正哥謹書とあり揚蔀にて殿内格天井を組み毎格花卉を描く神鏡晶然として銅鋼深く鎮せり以て幣殿本社に通ず本社は土蔵造りなり
本殿東南に神楽殿あり瓦葦梁間二間桁行二間半勾欄付「神楽殿」の三字を扁し樵石敬書と読まる背景墨画の龍あり落款梧堂とあり境内に銀杏の老樹あり
明治2年(1869)神佛混淆の禁令あるや別当光明山普門院(山州男山に同じ)復飾して神職となる
例大祭は9月15日小祭1月15日中祭5月15日に行はれ社務所は本社の東に在り現在氏子は若宮町神楽坂1著目2丁目3丁目の4ヶ町なり


                           
稲荷神社


所在地 新宿区若松町38-1

曹洞宗
 金谷山 寶祥寺

 


所在地 新宿区若葉1-1-6

浄土宗
 五却山 法蔵寺



 法蔵寺には『ビルマ独歩一八七大隊戦友会記念碑』があります。

 


所在地 新宿区若葉1-1-6 (法蔵寺)

  ビルマ独歩一八七大隊戦友会記念碑
この記念碑は当山第一世住職飯田観隆氏が第二次世界大戦に応召された部隊の戦友会記念碑である 記念碑の裏面には部隊の編成、経緯が銘板に明記してある
昭和18年(1973)12月7日赤坂の頭部六部隊にて編成九州門司港乗船南京上海経由19年(1974)3月佛印サイゴン上陸同地付近の警備につく 5月ビルマ風雲急を告げるや北ビルマへ進軍 英印支連合郡の反撃に対し阻止作戦に従軍する 20年(1945)1月エナジョンに終結 貫徹兵団に編入されイラワジ川右岸にて敵と対峙激烈なる戦斗を交え敵の進攻を防ぎやがて敵中突破 ベグー山系シッタン平原を踏破パプンにて友軍陣地到達後8月15日終戦となる モールメンに終結抑留生活に入る 21年(1946)6月帰還船にてモールメン港出帆 7月12日広島大竹港に上陸復員完結し3年振りにて懐かしの故郷に帰る
昭和38年(1963)第一回戦友会を開催法泉寺にて戦没者の慰霊祭執行 浅草公園料亭菊水にて懇親会開催し、以後各中隊毎に戦友会を行い部隊は隔年毎に旅行戦友会となりお互い親交を深め30年間継続し戦友愛その極に達し今日に至る
平成3年(1991)有志相図り記念碑建立の件 決意し末永く子々孫々に語り継がれる様住職の好意ある御理解と協力に依り現在地位建設した次第である
 平成4年(1992)9月23日
 元部隊長 佐藤達全
 ビルマ会発起人 西田邑雄
 育パコダ会発起人 中西善太郎


所在地 新宿区信濃町2

浄土宗
 深谷山 長安寺

 長安寺には『火除地蔵尊』があります。


所在地 新宿区信濃町2 (長安寺)

  火除地蔵尊
弘化2年(1845)の青山大火災(現明治記念館付近より出火)のおりこの寺の門前にあった地蔵尊の目で火勢が止まり、それにより当寺門前はもちろん、四谷方面が火災から免れた。以来「火防地蔵」と呼ばれるようになった。
 なお、現在の火防地蔵はこの災害の供養のため、弘化3年(1846)に造られたものである。


所在地 新宿区西新宿6-7-43

  成子子育地蔵尊
 成子子育地蔵尊は、享保12年(1727)に成子坂に北面して建立、その後天保年間に再建、以来二百数十年霊験あらたかに其の名も高く近郷近在の崇敬の対象となっていましたが、昭和20年(1945)不幸にも戦災の為壊滅の悲運にあわれました。
 しかし、昭和26年(1951)11月14日有志の協賛を得て、現在の慈悲深く温和な尊容のお像と木造のお堂が再建されました。爾来50余年、子宝祈願や家内安全を願う近隣庶民の拠り所となって参りました。
 昭和46年(1971)頃よりこの一帯は超高層ビル街に生まれ変わり、平成14年(2002)当地区も西新宿6丁目再開発地域として一新し、それを機にお堂も不燃化造りに建て替えられて安置され、入魂法要が執り行われました。
 平成14年(2002)7月18日

 


所在地 新宿区赤城下町・赤城元町

  赤城坂あかぎざか



 赤城神社のそばにあるのでこの名がある。「新撰東京名所図絵」によれば、「・・・峻悪にして車通ずべからず・・・」とあり、かなりきつい坂だった当時の様子がしのばれる。
 平成6年2月



 


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