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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区西早稲田2-1-14 (放生寺)

 神変大菩薩は、もとの名を役の小角または役の行者と申され、いまより1300年程前に大和国葛上郡掖上(わきがみ)村の高加茂家にお生まれになりました。御一代記に依れば、大和の葛城山を根拠に吉野金峯山、大峰山、冨士山等合わせて90余峰を開き、神仏習合に基づいた修行をされ修験道の開祖と仰がれた方で、法力の霊験不思議なこと古今を絶すると称されております。
 寛政11年(1799)光格天皇より神変大菩薩の諡号を賜りました。山野を駆けめぐって修行されたことに因み、特に足腰の弱い方をお救い下さると云われており、当山では「ぞうり」の懐中御守、「祈願の絵馬」を本堂にて授与しております。
 光松山 放生寺
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所在地 新宿区西早稲田2-1-14 (放生寺)

 お地蔵さまはそのお名前が示すとおり、大地のように踏まれても怒ることなく、屈することもなく大きな慈悲心で全てのものを育み救ってゆこうとする無尽蔵の力をもった菩薩さまであります。
 左手に蓮華宝珠、右手には鍚杖を持つ僧形で、お地蔵さまの御誓願は生と死の両界において、危ない処や淋しい処また、子供のように弱い者に対して力を貸してゆこうとするものであります。鎌倉時代、民間信仰にとり入れられ賽の河原では童児の救済者として和讃にまで唱えられ子育地蔵・子安地蔵の名で古くから信仰されております。
 光松山 放生寺


所在地 新宿区西早稲田2-1-14 (放生寺)

 観世音菩薩化身の内、唯一の忿怒像であり怒りが強い程、内には人を救うお力(慈悲の心)も大きく、また馬は大食いであるということから人々の悩みや苦しみ(煩悩)を喰べ尽くすと云われます。   光松山 放生寺


所在地 新宿区西早稲田2-1-14 (放生寺)

 放生会とは元々は殺生を戒める宗教儀式でありました。当山では全ての生きとし生けるものに対して命の貴さと慈悲の心を願い放生会を厳修しております。
 私達は多くの生きもののお陰で生命が養われています。現代はそれらの生きものに感謝する気持ちが薄れ、それらが当然であるかのように思いがちですが、これらの生きものがなくては私達は生きていけません。経典の中に「六道の衆生は皆是れ我が父母なり」とあるように、全ての生きもは私達と同じ生命を生きています。放生会とは、全ての生とし生けるものに感謝し、私達の為に貴い命を与えてくれた禽獣魚介類の霊を供養する法会です。この行事を通じて、生命の貴さ、大切さを思い、生ものに対する優しい心が育つことを願い、境内にある放生池に稚魚を放ち(後に秋川に放流)放生碑に塔婆を供えて御供養いたします。
 当山に於いては開創以来この放生会を修しており、徳川三代将軍家光公より、威盛院光松山放生会寺の寺号を賜ったことが「江戸名所図絵」及び「新武蔵風土記」に記載されております。


所在地 新宿区西早稲田3-5-43

  水稲荷神社  天慶4年(941)創建
御本社   大宮女大神
御祭神   豊受姫大神 佐田彦大神
例大祭   9月9日
初午祭   旧初午日




 水稲荷神社境内には『堀部安兵衛の碑(堀部武庸加功之遺跡碑)』、『太田道灌の駒繁松』があります。


所在地 新宿区西早稲田3-5-43 (水稲荷神社)

  堀部武庸加功之遺跡碑

文   東京信夫
筆   正五位 日下部東作
篆額  正二位勲一等 西園寺公望

 高田馬場は東京都城北と掴むラニある。武士が馬術の調練をする所として有名であった。ここに堀部武庸の加功の事を記す。武庸は通称安兵衛。本姓は中山氏越後の新発田の出身。江戸の遊学し、剣を堀田正春に学ぶ。叔父の菅野六郎左衛門が同僚(村上庄左衛門)と不和を生じ、高田馬場で決闘をすることとなった。六郎左衛門は単身決闘に臨んだが、堀部武庸は、六郎左衛門の妻から事情を聞き、駆けつけると縦横無尽に奮戦し二人を斬り倒した。六郎左衛門は深手を負い血を流しながらも庄左衛門と切り結んでいたが、危うしとみた安兵衛は加勢し、庄左衛門をも斬り伏せた。
叔父を解放して某屋敷の別邸に入って休んだが、そのうち六郎左衛門は深創のため息絶えた。4人が死んだこの決闘でただ1人生還した安兵衛は、たちまち天下の著名人となった。
赤穂藩士堀部金丸はこの話に感じいり、安兵衛を養子に迎えようとしたが、安兵衛は他人の姓は欲しないとしてこれを拒んだ。金丸の主君浅野長矩高田馬場の決闘の話を聞き、安兵衛の武勇は無比であると認めた。金丸は再三人を介して交渉した結果、遂に3年を経て堀部家の養子となった。浅野侯は事件によって死を賜り、国を召し揚げられた。これにより四十七士の復讐が行われた。安兵衛もその1人となった。ああ、一族の難に功を加えることを一族にこの人有りといい、一国に変事がありてこれを復讐することを一国にこの人有りという。今安兵衛の一身にこの2つの大きな難がふりかかったことからすれば、忠孝、節義をまっとうする豪傑の士といわないはずはないではないか。
村人行田久蔵は元禄以来の旧家である。武庸加功の地はその敷地周辺にある。現在は往時と異なり開拓され、家屋も多く、人はこのことを知らない。
赤穂義士のことは常に顕彰するけれど、最も感じ入るのはこの助太刀加功のことである。また、他の話として、金丸の娘幸は母とともに雑司ヶ谷鬼子母神の参詣の帰途、高田馬場で決闘に出会った。安兵衛ののタスキが無いのを見て腰紐を解いて渡した。これが縁で堀部家の婿となったという。
元禄5年(1692)安兵衛20歳。赤黒い絹の腰紐を渡した幸は僅かに5歳という。
この技師の談義は往々にしてかくの如き誤りとして伝わるものだ。
  明治四43年(1910)晩秋中旬


所在地 新宿区西早稲田3-5

  甘泉園公園
 甘泉園公園の地は、江戸時代、徳川御三家の1つである清水家の下屋敷があった場所であり、明治時代になって相馬家が購入し、屋敷や庭園を整備しました。昭和に入り早稲田大学の所有となり、学校関係者等に利用されていました。
 その後、昭和32年(1957)に都市計画公園として計画決定がなされ、東京都が用地買収を行い、昭和43年(1968)から公園瀬日工事が行われました。完成後に新宿区が東京都から移管を受け、昭和44年(1969)7月、新宿区立甘泉園公園として開園しました。



 公園名は、かつてこの地の湧水が清冽で常時枯れず、又お茶に適するところから「甘泉」と呼ばれていたことに由来しています。



所在地 新宿区西早稲田3 

旧跡 高田馬場跡



 西早稲田3丁目1・2・12・14番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡である。
 馬場は寛永13年(1636)に造られたもので、旗本たちの馬術の練習場であった。
 また、穴八幡神社に奉納するため催された流鏑馬などが行われ、将軍の供覧に入れたところでもある。
 享保年間(1716~1753)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされている。土地の農民が人出の多いところを見て、茶屋を開いたものと思われる。
 また、馬場の一角、茶屋町通りに面したところは堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたとされるところで、水稲荷神社の境内には「堀部武庸加功遺跡の碑」が建っている。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会



    高田馬場
 旧跡 高田馬場と将軍お立ち台
明治維新まで幕臣の弓馬の練習場として、ここに高田馬場があった。寛政5年(1793)2月4日に挙行された高田馬場流鏑馬場所絵図によると、馬場は東西二百間、南北二十五間とあり、東から西へ追いまわしと呼ばれた中土手が築かれ、土手の南側が馬、北側が弓の練習場となっていた。中土手から北の松並木の土手までは現在、ビルや住宅が密集し、往時を偲ぶことは難しいが、幸い南側の部分が早稲田通りの道路として残り(昭和の初年、道路南側を拡幅)、この大通りがまさに江戸の昔、旗本たちが馬で駆け回っていたところとなる。
馬場の中央で南に寄った西早稲田3~12~3あたりに将軍お立ち台が置かれていたと古老の言い伝えがある。流鏑馬場所絵図に見る検所がそれであろう。
慶長年間、家康の側室で、高田殿と呼ばれた茶阿の局がこの辺りの風景をこよなく愛し、遊覧の地とした。高田殿没後、寛永13年(1636)3代将軍家光がこの芝野に弓馬練習用の馬場を築造し、高田馬場となったと言われている。高田馬場の由来に他説もある。室町時代すでにここは高田郷戸塚村といわれており、北に高田村、西には上高田村もあり、この地名に因るものだと。
家光は御神木「光り松」の奇跡を耳にし、江戸城の西北に当たる穴八幡神社を将軍家の祈願所と定め、慶安元年(1648)諸侯に命じて社殿営繕を行った。のち4代将軍家綱5代将軍綱吉とそれぞれ社殿の造営を行っている。享保13年(1728)8代将軍吉宗は家光の馬場築造記念日の3月5日を選び、ここ高田馬場に於いて初めての流鏑馬を行った。以来、徳川将軍家では嘉例として代が代わる度に国家安泰を祈願して奉納神事流鏑馬を行い、、毎年の神社の例大祭にも行われた。
流鏑馬は馬場の南側の真ん中に検所の陣屋を置き、幕を張り、金屏風を立て、将軍はじめ名代若年寄方が座し、下座には諸侯方が並び、それは美麗を尽くしたと言われている。南の丘の一帯は万を越す人垣ができたほどの人気で、流鏑馬では、将軍お立ち台の北側を中土手に沿って、1、2、3の的が立てられ、西の馬場本から東の馬場末へと弾みよろしく騎射して、満場の喝采を浴びた。
元禄7年(1649)大江戸を沸かした安兵衛の仇討ちで世に一層知られるところとなり、寛政の頃になると、江戸市中で男伊達なるものが流行し、試合勝負の名所のようになった。昭和の初めまで旧馬場の中央西寄りに小学校があり、校庭に伝説の「安兵衛刀傷の松」があった。松の真偽のほどはともかく、果し合いはこの一画で行われたものと推測する。また、お立ち台の北側にある茶屋町通りはかなり古く、江戸名所図会にあるように、8軒の茶屋が並び、雑司が谷鬼子母神への参詣客や弓馬の旗本たちの休息所として、田楽や焼団子を名物とし繁盛した。

なお高田馬場駅は開業時、駅名の候補に諏訪の森、上戸塚が挙がっていたが鉄道側は東へ少し離れた旧高田馬場を駅名に希望、反対する当所住民を説得の末、駅に限り、江戸っ子の云うタカタノババをタカダノババとタに濁点を打つことで承諾を得、明治43年(1910)9月、高田馬場駅が誕生した。江戸名所図会に見る「高田馬場」に打たれたルビに濁点はない。



所在地 新宿区西早稲田3 ~ 豊島区

   面影橋
 目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。
 橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靭負(ゆきえ)の娘であった於戸姫(おとひめ)が、数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられたという説などが知られています。
 なお、姿見の橋は面影橋(俤橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。




            歌川広重の面影橋(東京メトロ東西線 早稲田駅の壁)
                   ※実物は太田記念美術館所蔵


所在地 新宿区西早稲田3-16-24

日蓮宗
 如意山 亮朝院 栄亮寺







新宿区指定有形文化財(古文書)
 亮朝院文書
     平成12年(2000)3月2日指定

 如意山亮朝院に伝来する古文書類で、亮朝院の開基である能勢の局の書状など年代不明のものを除くと、寛永2年(1625)の日閑筆「疫神遠離秘法」を最古とし、昭和15年(1940)の「福寿海無量」まで約400件に及ぶ区内最大規模の寺院文書である。
 内容は、江戸後期から明治時代のものが多く、亮朝院の由緒や経営、建物や境内の普請工事などに関するものが中心である。
 亮朝院は、江戸前期に徳川家の庇護のもと、その祈祷所として成立したが、明治以降は一般檀徒の寺となった。文書からは、このような寺の歴史的変遷を知ることができる。戸塚地区に残る数少ない古文書として貴重である。




 境内には『金剛力士石像』、『梵鐘』、『花塚』があります。



所在地 新宿区西早稲田3-16-24 (亮朝院)

新宿区指定有形文化財
 亮朝院の金剛力士石像
     昭和59年(1984)12月7日指定

 宝永2年(1705)に奉納された石製の金剛力士像である。
 像高は約1.6メートル、台座を含めると3メートルにもおよぶもので、素材を生かした巧みな造形に成功している。
 金剛力士像は一般に「仁王様」と呼ばれ、仏の浄域を示し、仏を守護するものとして、寺院の門などに二対(左が口を開いた阿形、右が口を閉じた吽形)で納められるが、木彫が大半で、このような石像は大変珍しい。この像は庶民に自由に手で触れて信仰してもらうため石像としたとされる。
 文豪大町桂月の「東京遊行記」(明治39年〔1906〕)にも、この像のことが書かれている。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区西早稲田3-16-24 (亮朝院)

新宿区登録有形文化財
 亮朝院の梵鐘
     平成12年(2000)3月2日登録



 江戸鋳物師の鋳造技術が極めて高かった元禄15年(1702)に造られた銅造の梵鐘。総高141.5センチ。銘文により、浅草権兵衛が発起人となり、市谷田町講・関口講などの講中のほか、506名の武士や庶民が鋳造に寄与していることがわかる。
 平成12年(2000)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区西早稲田1-6  (早稲田大学)

新宿区登録史跡
 富塚跡とみづかあと
     昭和62年(1987)3月12日登録

 このあたりは、昭和41年(1966)に甘泉園内に移転するまで水稲荷神社の敷地であった。神社の境内には、富塚という古墳(円墳)があった。
 戸塚の地名の起源は、この付近に塚(古墳)が多く「十塚」・「百八塚」などと呼ばれたからとか、其のうちの一つである富塚に因んだ、とかいわれている。
 水稲荷神社移転時に崩され、整地されたが、地名の由来を物語る史跡として貴重である。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区西早稲田1-7-1

真言宗豊山派

 慈雲山 観音寺

御府内八十八ヶ所 第五十二番札所

豊島八十八ヶ所 第五十二番札所




 本尊
十一面観世音菩薩
 開基
賢榮和尚
寛文13年(1673)
 総本
長谷寺 奈良県桜井市初瀬
 祖師
宗祖   弘法大師(空海)
中興祖  興教大師(覚鑁)
派祖   専誉僧正
 開宗
真言の教えは、仏教の神髄を説く密教としてインドに起こり、中国を経て平安時代初頭に弘法大師によって日本に伝えられ、真言宗として成立しました。
 教え
大日如来を中心として曼荼羅思想です。
 御詠歌
たいさんのぼれば汗の出でけれど後の世を思えば何の苦もなし
 お経
般若理趣経・光明真言など
 ご宝号
南無大師遍照金剛・南無興教大師
 真言
オンマカキャロニキャソワカ



 


所在地 新宿区西早稲田3-17

 天祖神社

祭神 天照大神



 天祖とは「アマツミオヤ」とも読み極めて尊い神のことで、天王の遠祖です。古典には彦火瓊々杵尊を天祖と称することもあります。天照大神、高皇産靈神、国常立神を称することもありますが、後世に至って、専ら天照大神を天祖と申し上げるようになりました。
 江戸時代には神明宮、神明神社と称していましたが、明治3年(1870)の大教宣布により、天祖神社と改められました。慶応3年(1867)迄は、豊嶋郡高田村真言宗新義派神靈山金乗院が、別当寺となっていました。 
 この天祖神社は豊臣家の遺臣、小泉源兵衛が大坂夏の陣、元和元年(1615)の戦いに敗れ、この地に隠れ住み、荒地を拓き、伊勢の内宮、外宮に参籠して靈感を受け、正保2年(1645)にこの神社を創祀されました。



 境内には
諏訪神社   祭神   建御名方命
須賀神社   祭神   素盞鳴命
稲荷神社   祭神   倉稲魂命
厳島神社   祭神   市杵嶋姫命
の四祭神が祭ってありましたが、明治27年(1894)4月、本社普請の時に、合祀されました。その後、大正11年(1922)奥殿、拝殿、神輿倉、神楽殿が改築され、昭和63年(1988)本殿の床上げの修復と神楽殿のみがき石材による玉垣が新調されました。
 天祖神社が創祀されて以来、357年の間、銀杏、欅の大樹の神木と共に、ここに住む人々を見守りながら参拝する人の心の支えとなって来ました。
 平成14年(2002)9月4日 天祖神社保存会 源兵衛村研究会

付記
源兵衛村は江戸文政年間(1818~1830)の戸数28戸、人口約100人、明治5年(1872)の戸数38戸、人口165人でありました。

 


所在地 新宿区西早稲田3

 茶屋町通り
江戸時代、この付近には旗本の馬術練習場があり、見物客等が多かったことから、地元の農家が茶屋を開いた。



所在地 新宿区西早稲田2-18

 源兵衛地蔵尊(子育地蔵尊)
 この地蔵尊がお立ちになっている付近は、元禄の末頃に源兵衛という人が来て、鉄砲玉を作り火薬の番をしながら荒地を開こんしましたところ同心の人々が集まって来て28戸から成る新しい村が出来ましたから源兵衛村という名がつけられたと言い伝えられています。
 その後、2、30年の間に、亡くなられた源兵衛をはじめ、同心縁者の菩提の供養をかねて、功績を記念するために村民の有志者が講中を結集して享保11年(1726)にこの地蔵尊を安置いたしました。
 源兵衛村、戸塚町、西早稲田と地名は変わりましたが、地蔵尊のお慈悲心は少しも変わることなく、信ずる人々の抜苦、与楽、子育、商売繁盛、交通安全などの諸願をすべて成就させてくださいます。   合掌
 昭和52丁巳年弥生 民族学研究家 三好圭十 記
 平成12年(2000)12月改修 西早稲田商店会




 源兵衛地蔵尊には『馬頭観音』、『彰忠碑』、『庚申塔』があります。

 


所在地 新宿区西早稲田2-18 (源兵衛地蔵尊)

 彰忠碑

彰忠碑は四国松山と高知の間で採掘される大変珍しい「伊予の青石」で作られた日露戦争の凱旋記念碑です。表の字は投じの元帥陸軍大将・奥保鞏の書です。この周辺は当時、源兵衛村と呼ばれ、村から7名が従軍したことを記念して作られました。関東大震災でも倒れることはなく、東京空襲で戸塚地域がほとんど焼け野原になったとき、ここにある子育地蔵尊の周辺だけは奇跡的に焼け残り、お地蔵様が守ってくださったと地域の人々は感謝したそうです。


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