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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区下宮比町3・揚場町2

東京都指定旧跡
 寒泉精舎跡かんせんしょうしゃのあと
     大正8年(1919)10月指定


 岡田家泉は江戸時代後期の儒学者で政治家。名は恕、字は子強、通称清助といい、寒泉と号した。元文5年(1740)11月4日江戸牛込に千二百石の旗本の子として生まれた。寛政元年(1789)松平定信に抜擢されて幕府儒官となり昌平黌(後の昌平坂学問所)で経書を講じた。柴野栗山(彦輔)・尾藤二洲(良佐)とともに、「寛政の三博士」と呼ばれ、寛政の改革で学政や教育の改革に当たった三人の朱子学者のひとりである(寒泉が常陸の代官に転じた後は古賀精里が登用された)。寛政6年(1794)から文化5年(1808)までの14年間は、代官職として現在の茨城県内の7郡82村5万石余の地を治め、民政家としての功績は極めて大きなものがあった。
 寛政2年(1790)8月19日この地に幕府から328坪6余の土地を与えられ、寒泉精舎と名付けた家塾を開いた。官職を辞した後も子弟のために授読講義を行い、「朝ごとに句読を授け、会日を定めて講筵を開き給えりしに、門人賓客にみちみちて、塾中いること能わざるになべり」とあって、活況を呈している様子を門弟間宮士信が『寒泉先生行状』に記している。文化12年(1815)病気のため寒泉精舎を閉鎖し土地を返上した。文化13年(1816)8月9日77歳で死去し、大塚先儒墓所(国指定史跡)に儒制により葬られた。著書に『幼学指要』『三札図考』『寒泉精舎遺稿』などがある。
 平成13年(2001)3月31日 設置  東京都教育委員会
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