東京都新宿区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 新宿区四谷1丁目~千代田区 (橋下 JR中央線) 四谷見附は、山口藩毛利秀就が普請を命じられ、寛永16年(1639年)完成した。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にあったが、明治5年(1872年)に撤去され、現在は石垣がのこるだけである。 当時の四谷見附は、現在の新宿区設四谷小売市場前の橋(当時は土橋)から城門を経て出入りする構造で、現在の四谷見附橋は無かった。従って、新宿方面からの甲州街道は、外堀に突き当たり左折し、すぐ右折して土橋を渡って江戸城郭に入る。 明治以降、このような喰い違い構造が交通に障害となったため、明治44年(1911年)四谷見附橋建設が着工され、大正2年(1913年)に完成した。現在の橋は、平成3年(1991年)に架け替えたものである。
PR 所在地 新宿区四谷3-12 (丸正食品総本店) お岩水かけ観音由来 所在地 新宿区四谷1-13 (Opus Royal) 新宿区指定史跡 二葉亭四迷旧居跡 平成3年(1991)12月6日指定 小説家二葉亭四迷(1864~1909)が、明治13年(1880)7月から1年間、東京外国語学校ロシア語科に入学し寄宿舎に入るまで過ごしたところで、彼の父の実家である水野邸が建っていた。 四迷は本名を長谷川辰之助といい、尾張藩士の子として市谷本村町の尾張徳川家上屋敷(現在の自衛隊駐屯地)の中で生れた。 少年期に、政治色の濃いロシア文学の影響を受け、東京外国語学校ロシア語科に入学するが後に中退し、坪内逍遥の指導で創作を始める。 明治20年(1887)に、言文一致体の文章により日本で最初の小説『浮雲』を発表し、さらに『あひびき』『めぐりあひ』などのロシア文学を翻訳するなど、日本の近代文学建設の先がけとなった。 明治41年(1908)に朝日新聞の特派員として渡露するが、翌明治42年(1909)、帰国の途中病死した。 平成4年(1992)2月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区四谷4-15 田安稲荷神社 この地は、もと四谷永住町と云って町屋が出来たのは明治5年(1872)7月で戸数は27戸、人口94人(男46人・女48人)、車馬4台と、本当に草深い町で、その前年の明治4年(1871)5月迄は田安徳川家の下屋敷でした。 田安徳川家は徳川8代将軍吉宗公が作った御三卿(田安・一橋・清水)の一つで吉宗公の次男宗武が享保14年(1729)田安徳川家の家祖(10万石)となり江戸城北の丸(現日本武道館のある北の丸公園)に上屋敷を構え、宝暦6年(1756)四谷大木戸御門(四谷4丁目交差点)内の地に下屋敷をつくりました。その折、田安徳川家の屋敷神様として田安稲荷神社をおまつりし代々の当主の崇敬深く、子孫繁栄、天下泰平を願ったものです。明治維新後下屋敷を明治政府に上納、明治4年(1871)5月に広大な家屋を撤去したのですが、稲荷社だけはそのまま取り残されました。翌年跡地に町屋が出来、四谷永住町と名付けられ、代々この地に住む人達が大切におまつりしてまいりました。 鎮護稲荷神社 鎮護稲荷神社は鎮火招福の守り神様として家内安全を願っておまつりしていたもので、当町10番地内にあった小祠で田安家と同じく明治4年(1871)迄は、徳川将軍家剣の指南役、柳生家(1万石)の下屋敷があった所で柳生家の稲荷神社でした。戦後、田安稲荷と合祀し、22番地内に田安・鎮護稲荷神社としておまつりしてまいりましたが、ビル建設のため、町会会館内にお移しちて町会が運営にあたり毎年二の午の日に祭礼を行い町民の皆様の崇拝をいただいておりました。当地におまつりして247年、始めは田安徳川家、柳生家の守護神として、明示維新後は代々この町に住む人々の守り神として、私達の町をお守り下さってまいりました。 この度、当地15番地にマンション(パークアクシス四谷ステージ)を建設された近鉄不動産株式会社、マンション完成後、所有者になられた三井不動産株式会社には両稲荷神社の縁起をご理解され、マンション敷地内、緑地帯の一部に稲荷社の建設用地を提供して下さいました。町会は会員の皆様を始め、田安徳川家・地域の法人・団体・一般の方々の奉賛を得て稲荷神社の新社殿を竣工、町会会館内の仮宮より御遷座おまつり致しました。 平成14年(2002)2月16日 認可地緑団体 四谷四丁目町会 田安鎮護稲荷神社奉賛会 所在地 新宿区四谷1-12 (新宿区立 四谷見附公園) われらの記念樹 大正5年(1916)3月学習院初等科卒業生49名は同年5月6日この銀杏の苗木を卒業記念として四谷仲町の院の一隅に植えた 大正15年(1912)その若木は鉄道省四谷駅信濃町駅間隧道新設工事のためこの地に移植され生長を続けている 昭和49年(1974)9月古稀を超えた24名の生存者は恩師93翁岡崎常太郎先生と共に銀杏の由緒を永く後世に傳えるためこの碑を建てるものである 岡崎常太郎 岩倉具榮 稲葉正弘 大村純毅 大鳥圭三 久我通顕 西郷従吾 島津忠承 清水順 田村義輝 中島精一 中村健兒 土方久顕 廣幡忠良 廣幡増彌 本荘正則 前島勘一郎 松平直一 松平文友 毛利元道 山内秀夫 山縣有光 山中勇三郎 米村長敏 渡辺光 昭和49年(1974)9月建立 山中勇三郎謹書 |
町名
サイト内検索
アクセス解析
プロフィール
HN:
永山
性別:
男性
|