東京都新宿区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 新宿区西早稲田1-6 (早稲田大学) 新宿区登録史跡 富塚跡とみづかあと 昭和62年(1987)3月12日登録 このあたりは、昭和41年(1966)に甘泉園内に移転するまで水稲荷神社の敷地であった。神社の境内には、富塚という古墳(円墳)があった。 戸塚の地名の起源は、この付近に塚(古墳)が多く「十塚」・「百八塚」などと呼ばれたからとか、其のうちの一つである富塚に因んだ、とかいわれている。 水稲荷神社移転時に崩され、整地されたが、地名の由来を物語る史跡として貴重である。 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会 PR 所在地 新宿区西早稲田1-7-1 真言宗豊山派 慈雲山 観音寺 御府内八十八ヶ所 第五十二番札所 豊島八十八ヶ所 第五十二番札所 本尊 十一面観世音菩薩 開基 賢榮和尚 寛文13年(1673) 総本 長谷寺 奈良県桜井市初瀬 祖師 宗祖 弘法大師(空海) 中興祖 興教大師(覚鑁) 派祖 専誉僧正 開宗 真言の教えは、仏教の神髄を説く密教としてインドに起こり、中国を経て平安時代初頭に弘法大師によって日本に伝えられ、真言宗として成立しました。 教え 大日如来を中心として曼荼羅思想です。 御詠歌 たいさんのぼれば汗の出でけれど後の世を思えば何の苦もなし お経 般若理趣経・光明真言など ご宝号 南無大師遍照金剛・南無興教大師 真言 オンマカキャロニキャソワカ 所在地 新宿区西早稲田3-17 天祖神社 祭神 天照大神 天祖とは「アマツミオヤ」とも読み極めて尊い神のことで、天王の遠祖です。古典には彦火瓊々杵尊を天祖と称することもあります。天照大神、高皇産靈神、国常立神を称することもありますが、後世に至って、専ら天照大神を天祖と申し上げるようになりました。 江戸時代には神明宮、神明神社と称していましたが、明治3年(1870)の大教宣布により、天祖神社と改められました。慶応3年(1867)迄は、豊嶋郡高田村真言宗新義派神靈山金乗院が、別当寺となっていました。 この天祖神社は豊臣家の遺臣、小泉源兵衛が大坂夏の陣、元和元年(1615)の戦いに敗れ、この地に隠れ住み、荒地を拓き、伊勢の内宮、外宮に参籠して靈感を受け、正保2年(1645)にこの神社を創祀されました。 境内には 諏訪神社 祭神 建御名方命 須賀神社 祭神 素盞鳴命 稲荷神社 祭神 倉稲魂命 厳島神社 祭神 市杵嶋姫命 の四祭神が祭ってありましたが、明治27年(1894)4月、本社普請の時に、合祀されました。その後、大正11年(1922)奥殿、拝殿、神輿倉、神楽殿が改築され、昭和63年(1988)本殿の床上げの修復と神楽殿のみがき石材による玉垣が新調されました。 天祖神社が創祀されて以来、357年の間、銀杏、欅の大樹の神木と共に、ここに住む人々を見守りながら参拝する人の心の支えとなって来ました。 平成14年(2002)9月4日 天祖神社保存会 源兵衛村研究会 付記 源兵衛村は江戸文政年間(1818~1830)の戸数28戸、人口約100人、明治5年(1872)の戸数38戸、人口165人でありました。 所在地 新宿区余丁町12-18 出世稲荷神社 御祭神 倉稲魂命 お稲荷様と一般にいわれ、福徳開運十種の徳をそなえた衣食住の守護神であります 御由緒 長禄元年(約520年前)江戸城主太田道灌によって当地の御鎮座されたものであります 元禄年中は徳川5代将軍綱吉の生母 桂昌院の信仰篤くしばしば角力も興行され特に賑いました 明治6年(1873)それまで粟津稲荷あるいは朝日稲荷と呼ばれていたものを出世稲荷神社と改めました 昔から農工商の神様として崇敬され特に当社は武士の信仰も篤く商売繁昌家内全隆除災特に火災を守る神様として霊験あらたかであります 御祭典 月例祭 毎月17日 大祭 10月17日 初午祭 2月初めの午の日 昭和51年(1976)10月17日 出世稲荷神社 所在地 新宿区納戸町・市谷加賀町1 中根坂なかねざか 昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。 平成17年(2005)2月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区百人町1-5-2 (長光寺) しあわせ薬師如来 そもそも当山に安置し奉る薬師如来の尊像は、弘法大師一刀三礼の作にして、そのかみ近江湖岸の地に病が流行したおり、大師がこの尊像を彫刻み護摩を修し、怨敵退散、悪魔隆伏を祈られたところ病の流行忽ち止み人民初めて安堵の思いを得たり。之に依って此尊像は近江国矢造村の石津寺に観請し之を祀った。 後年、久世三四郎は江戸幕府鉄砲百人組の頭を拝し、大久保百人町を開き、屋敷地を給はられ、此尊像を近江より懇請して持念仏として守護された。 ある夜、薬師如来忽然として三四郎の枕辺に現れ「我常に俗家にあることを厭う、この地に一宇を建立し宜しく我を移すべし、我永くこの地に止どまりて衆生に幸福を授くべし 汝疑うことなかれ」と。この悪夢によって久世屋敷に近い長光寺の境内に薬師堂を建立し尊像を安置せられた。 これより遠近の男女霊験の著しさを伝え聞き、除災招福、多幸成就の願い日々絶える事なく、祈願祈誓する者は利益の幸福を授かるものなり。 所在地 新宿区百人町1-11-16 皆中稲荷神社 寛永年間(1624~1643)に幕府鉄砲百人組がこの付近に居住し、百人組出陣の儀が奉納されるようになった。今も隔年9月の祭礼では、百人隊行列が行われる。また、多くの古銃と関係資料が保存されている。 皆中稲荷神社では『鉄砲百人隊行列』が行われます。 開催地 新宿区百人町1-11-16 (皆中稲荷神社) 新宿区登録無形民俗文化財 鉄炮百人隊行列(出陣の儀) 平成14年(2002)2月1日登録 皆中稲荷神社の例大祭で隔年(平成は奇数年)に開催される行事で、江戸時代に現在の百人町一帯に屋敷を与えられていた幕府鉄砲組百人隊が、神社に奉納したと伝えられる出陣式を再現したもの。 当日は、甲冑に身を固めた武将が百人町周辺を隊列行進し、火縄銃を携えた鉄砲隊が、数ヶ所で古式にのっとり試射を行う。 鉄砲組は4組あり(百人町に住んだのは二十五騎組、別称大久保組)、通常は交替で江戸城大手三之門を警備した。また、将軍の寛永寺・増上寺・日光東照宮参詣には護衛をした。 皆中稲荷神社は、鉄砲組から信仰された。ある隊士が稲荷の霊夢により百発百中の腕前に上達したことが起源という。皆中は「みなあたる」の意味がある。 平成15年(2003)3月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区富久町2-12 (善慶寺) 新宿区指定史跡 平秩東作墓へづつとうさく 平成2年(1990)6月1日指定 新宿で生れ育った江戸時代中期の狂歌師平秩東作は、本名を立松懐之、号を東蒙(のちに嘉穂)といい、享保11年(1726)内藤新宿に生れた。 生家は馬宿であったが、享保20年(1735)10歳の時に父を失い、幼くして家業に携わり、元文4年(1739)には煙草屋を開業するなど苦労を重ねるが、既にこの頃から狂歌に親しんでいたという。 宝暦12年(1762)頃より内山椿軒門下となり、ここで大田南畝と知りあい、以後狂歌や戯文学の興隆に尽力した。 寛政元年(1789)享年64歳で没した。 この墓は、東作が両親のために建立したもので、裏面の墓碑銘は東作の撰によるもんである。墓石は高さ98センチである。 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区富久町2-12 (善慶寺) 新宿区登録有形文化財(工芸品) 善慶寺の梵鐘 平成18年(2006)3月7日登録 善慶寺第五世沙門貞祐・貞岳の発願により、元文4年(1739)に鋳造された銅造の梵鐘。総高125.3センチで、江戸鋳物師大田近江大掾藤原正次の作である。 江戸鋳物師の梵鐘鋳造減少期における作品で、江戸鋳物師の作風・鋳造技術を知ることができる。また、銘文から当寺の住持等を知ることができ、史料的価値も高い。 太平洋戦争中の供出により区内の江戸時代の梵鐘は残存数が少なく貴重である。 平成18年(2006)3月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区払方町・市谷砂土原町2・3 鰻坂うなぎざか 坂が曲がりくねっているため、こう呼ばれた。『御府内備考』によると、幅約2間(約3.6m)、長さ約20間(約36.3m)にわたり曲がり登っているため、鰻坂と呼ばれたという。 平成11年(1999)3月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区四谷1-12 (新宿区立 四谷見附公園) われらの記念樹 大正5年(1916)3月学習院初等科卒業生49名は同年5月6日この銀杏の苗木を卒業記念として四谷仲町の院の一隅に植えた 大正15年(1912)その若木は鉄道省四谷駅信濃町駅間隧道新設工事のためこの地に移植され生長を続けている 昭和49年(1974)9月古稀を超えた24名の生存者は恩師93翁岡崎常太郎先生と共に銀杏の由緒を永く後世に傳えるためこの碑を建てるものである 岡崎常太郎 岩倉具榮 稲葉正弘 大村純毅 大鳥圭三 久我通顕 西郷従吾 島津忠承 清水順 田村義輝 中島精一 中村健兒 土方久顕 廣幡忠良 廣幡増彌 本荘正則 前島勘一郎 松平直一 松平文友 毛利元道 山内秀夫 山縣有光 山中勇三郎 米村長敏 渡辺光 昭和49年(1974)9月建立 山中勇三郎謹書 |
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