東京都新宿区の歴史
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昔の赤城神社
当神社は後伏見天皇の正安2年(1300年)に群馬県赤城山麓大胡の豪族、大胡氏が牛込に移住の際本國の鎮守であった赤城神社の御分霊を、牛込早稲田村田島(今の早稲田鶴巻町、元赤城神社の所在地)にお祀りし、寛正元年(1460年)に太田道灌が神威を尊び牛込台に遷し奉り、其の後、弘治元年(1555年)に至り大胡宮内少輔(牛込氏)の尊信特に深く現在の地に遷し奉ったものと伝えられております。 PR
昔の赤城出世稲荷神社
当社は宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)をお祀りしてあります。一般にお稲荷さんと言われ、福徳開運の威をそなえた衣食住の守護神であります。
昔の螢雪天神
江戸中期、学問の神として崇められている菅原道真公を祀り、横寺町に鎮座して北野神社又は朝日天満宮と称されていたが、氏子、信徒なく、明治9年(1876年)3月当境内に遷座。
<現在の赤城神社には見当たりません。>
所在地 新宿区赤城元町1-10 (赤城神社) 元師陸軍大將大勲位功二級侯爵大山巖篆額 于磋是明治甲辰匸巳■■陣■之碑乎■■也振古■未曽有而死者■不少無死者生者者何以■■功是故 朝廷■■祀之史官書■詩人詠■畫家像■市童邨婆■皆榮羨欽慕況生同■ ■死■遺族者何曽志之是東京牛籠區■■以連■碑顯其忠節也本區■既■兵事奨励會送迎将卒出入救恤家属窮乏護傷病■尸骨遂及■■郷黨相助之誼莫不畫■■以窺全國一心敵王愾奏大功之一斑■■内戦亡病■將校十九人下士七人卒四十八人勒其姓名■背属余書其由■碑面且作銘曰 忠魂■魄 曷来曷■ 故郷有侍 榮之敬之 一片碑碣 維君錦衣 明治三十九年■在丙午八月 東宮侍講■四位勲三等文學博士三島毅撰 ■五位日下部東作書
井■泉刻
<現在の赤城神社には見当たりません。>
所在地 新宿区赤城元町1-10 (赤城神社)
所在地 東京都新宿区神楽坂5-36
日蓮宗
所在地 東京都新宿区神楽坂5-36 (善國寺)
「神楽坂の毘沙門天さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。
所在地 新宿区揚場町・神楽坂2
所在地 新宿区築土八幡町2-1
昔、嵯峨天皇の御代(今から約1200年前)に武蔵国豊嶋郡(こおり)牛込の里に大変熱心に八幡神を信仰する翁がいた。ある時、翁の夢の中に神霊が現われて、「われ、汝が信心に感じ跡をたれん。」と言われたので、翁は不思議に思って、目をさますとすぐに身を清めて拝もうと井戸のそばへ行ったところ、かたわらの一本の松の樹の上に細長い旗のような美しい雲がたなびいて、雲の中から白鳩が現れて松の梢にとまった。翁はこのことを里人に語り神霊の現れたもうたことを知り、すぐに注連縄(しめなわ)をゆいまわして、その松を祀った。 現在、境内地は約2200㎡あり、昭和20年(1945年)の戦災で焼失した社殿も、昭和38年(1963年)氏子の人々が浄財を集めて、熊谷組によって再建され、築土八幡町・津久戸町・東五軒町・新小川町・下宮比町・揚場町・神楽可視・神楽坂4丁目・神楽坂5丁目・白銀町・袋町・岩戸町の産土神として人々の尊崇を集めている。
御祭神 応神天皇 大祭 9月15日
所在地 新宿区築土八幡町2-1 (築土八幡神社) 所在地 新宿区築土八幡町2-1 (築土八幡神社) 石造の明神型鳥居(みょうじんがたとりい)で、享保11年(1726年)に建立された区内で現存最古の鳥居である。高さ375cm、幅470cm、柱径35cm。 所在地 新宿区築土八幡町2-1 (築土八幡神社) 寛文4年(1664年)に奉納された舟型(光背型)の庚申塔である。高さ186cm。最上部に日月、中央部には一対の雌雄の猿と桃の木を配する。右側の牡猿は立ち上がり実の付いた桃の枝を手折っているのに対し、左側の牝猿はうずくまり桃の実一枝を持つ。
所在地 新宿区築土八幡町2-1 (築土八幡神社) 所在地 新宿区四谷1丁目~千代田区 (橋下 JR中央線) 四谷見附は、山口藩毛利秀就が普請を命じられ、寛永16年(1639年)完成した。城門は現在のJR四ツ谷駅麹町口付近にあったが、明治5年(1872年)に撤去され、現在は石垣がのこるだけである。 当時の四谷見附は、現在の新宿区設四谷小売市場前の橋(当時は土橋)から城門を経て出入りする構造で、現在の四谷見附橋は無かった。従って、新宿方面からの甲州街道は、外堀に突き当たり左折し、すぐ右折して土橋を渡って江戸城郭に入る。 明治以降、このような喰い違い構造が交通に障害となったため、明治44年(1911年)四谷見附橋建設が着工され、大正2年(1913年)に完成した。現在の橋は、平成3年(1991年)に架け替えたものである。
所在地 東京都新宿区神楽坂1・2丁目 所在地 新宿区天神町・矢来町・東榎町 江戸時代後期、小浜藩酒井家下屋敷(現在の矢来町)の脇から天神町へ下る坂を地蔵坂と呼んでいた(『砂子の残月(すなごのざんげつ)』)。坂名の由来はさだかではないが、おそらく近辺に地蔵尊があったものと思われる。 平成3年(1991)9月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区山吹町 江戸時代、坂の東側に旗本渡辺源蔵の屋敷があったのでこう呼ばれた。源蔵は500石取りの御書院番で、寛文7年(1667)に市谷鷹匠町の屋敷と引換えに、この屋敷を拝領し、渡辺家は幕末までこの地にあった。 平成13年(2001)3月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区榎町57 お化け銀杏といわれた大銀杏があった丸島家は元、九千石の本多家屋敷後で、空襲で庭の三重の塔が真二つにわれ、中から三面に二体づつ刻れた六地蔵様が出て来ました。 六地蔵様も世に出たいのでしょうと考え、当山にお預かりしていただきました。 修行された六地蔵様は当山有縁之方の夢枕に立たれたといふことで現在のように一体づつの立派な御姿になりました。合掌 南無妙法蓮華経 神楽坂 丸島家 所在地 新宿区市谷薬王寺町69 銀杏坂いちょうざか この坂道の北側に旗本久貝家の屋敷があり、屋敷内に銀杏稲荷という社が古くからあったので銀杏坂と呼んだという(『御府内備考』)。 平成21年(2009)12月 新宿区 所在地 新宿区市谷柳町・新宿区弁天町 宝竜寺坂ほうりゅうじざか 昔、この辺りは七軒寺町という寺町で、この坂の上に宝竜寺という寺があったためこう呼ばれた。 また明治頃、寺の樹木が繁り淋しい坂であり、幽霊が出るといわれたため幽霊坂とも呼ばれた。 平成16年(2004)2月 新宿区教育委員会
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