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東京都新宿区の歴史
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所在地 新宿区新宿6-15-2 (西光庵)

新宿区指定有形文化財(絵画)
 観無量寿経曼荼羅かんむりょうじじゅきょうまんだら
     平成15年(2003)5月2日指定

 感無量寿経にもとづく阿弥陀如来の浄土をあらわした阿弥陀浄土変相図で、四分一曼荼羅と称される大きさをもつ絹本著色の仏画である。
 奈良当麻寺に伝わる綴織本を根本曼荼羅として制作された「当麻曼荼羅」の一例で、縦222.3センチ、横194.2センチ、画面部は縦176.8センチ、横180.5センチとなっている。
 十三世紀広汎の制作と推定され、鎌倉仏画の様式展開を考える上からも貴重な作品である。また、蒔絵、螺鈿を施した表木・軸首も、室町時代の工芸技術を伝え、古い表装の形態をとどめた数少ない衣例となっており、区内に所在する絵画作品として最古のものに属する優品である。
 平成16年(2004)3月 新宿区教育委員会
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所在地 新宿区新宿6-20-9

真宗大谷派
 白蓮山 専福寺せんぷくじ



 この寺には、幕末から明治中期にかけて活躍した浮世絵師月岡芳年の墓(区指定文化財)がある。また、浄土真宗中興の祖と仰がれる、東本願寺第8世蓮如上人直系の高僧たちの遺品を蔵している。




 専福寺には『月岡芳年墓』、『二世太白堂 桃隣墓』があります。


所在地 新宿区新宿6-20-9 (専福寺)

新宿区指定史跡
 月岡芳年墓つきおかよしとし
     昭和60年(1985)7月5日指定

 月岡芳年(1839~1892)は、江戸時代末から明治時代にかけて活躍した浮世絵師である。
 芳年は、本名を吉岡米次郎といい、天保10年(1839)3月17日に大久保の商家に生まれた。
 嘉永3年(1850)12歳のとき歌川国芳の門に入り、3年後には一魁斎芳年と名乗り処女作「文治元年平家の一門亡海中に落入る図」を発表したとされ、慶応年間には師事した画家月岡雪斎の後を継ぎ、月岡と改姓した。
 歌川派の写実性と伝統の武者絵の正統を受継ぎつつ、葛飾北斎の影響も受け多くの傑作を発表し、明治初頭には浮世絵界の第一人者として水野年方・鏑木清方ら多数の門人を擁した。
 また一方で、維新前後の殺伐として風潮の中で、騒乱や事件などリアルな殺傷場面等も題材とし、「血みどろ絵」と呼ばれた。
 明治6年(1873)に前年の病気から回復すると、しばしば大蘇芳年を名乗り活躍するが、同25年6月9日、54歳で亡くなった。
 なお、現在の墓石は昭和48年(1973)に建替えられたものである。
 平成8年(1996)3月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿6-20-16

日蓮宗
 春時山 法善寺



 山の手七福神の一つ寿老神を祭る。法善寺の本堂には、極彩色の七面明神像(区指定文化財)が安置されている。この神像を前にしての読経供養が、毎年9月13日~19日までの一週間営まれる。




 法善寺には『七面明神像』があります。



 山の手七福神 寿老人



 


所在地 新宿区新宿6-20-16 (法善寺)

新宿区指定有形文化財(彫刻)
 法然寺の七面明神像
     昭和60年(1985)8月2日指定



 中正院日護上人(1580~1649)の作と伝えられる像高約30センチの木彫立像で、唐風の衣装をまとい宝冠をかぶり、左手に如意宝珠、右手に鍵を持つ。
 七面明神とは日蓮宗の守護神の一つであり、七面天女、七面大菩薩ともいう。
 「七面大明神縁起」によれば、十三世紀末の建治年間、身延山中の日蓮上人の庵堂に秀麗な夫人が法話を聴きに来たのでたずねると、自分は七面山の天女で、上人の説法を聴いて悪道の苦しみから逃れることができたとを告げ、未来永劫にわたり身延山を守ることを誓って立ち去ったという。
 華麗な彩色と、精緻な彫法による江戸時代の典型的な七面明神像であり、「七面様」と呼ばれ親しまれている。
 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会

 


所在地 新宿区四谷4

  四谷大木戸跡



四谷4丁目交差点は江戸時代は「四谷大木戸」と呼んでいた。それはここに大木戸という関所があったからである。 
天正18年(1590)家康は江戸入府にあたり、武田・北条の残党から江戸を防衛する為、家臣の内藤清成に陣をかまえさせた。後に、幕府は元和2年(1616)内藤氏の陣を廃止して、四谷大木戸門を設けた。
この年は、大阪夏の陣で豊臣が滅びた翌年で、その残党の侵入を防ぐのが目的であった。
寛政4年(1792)大木戸は取り払われた。
 四谷歴史研究会より

 


所在地 新宿区市谷左内町~市谷田町1

  左内坂さないざか



 この坂道は、江戸時代初期に坂上周辺の町家とともに開発された。名主島田佐内が草創したので町名を左内坂町と呼び、坂道も左内坂と呼んだ(『御府内備考』)。
 平成21年(2009)12月 新宿区


所在地 新宿区市谷砂土原町3・市谷田町2

  歌坂うたさか



 雅楽坂うたさかともいう。江戸時代初期、この坂道の東側には酒井雅楽(後の姫路酒井家)の屋敷があった(『新添江戸之図」)。坂名は雅楽頭(うたのかみ)にちなんで名付けられたのあろう。
 平成21年(2009)12月 新宿区


所在地 新宿区市谷砂土原町1・2

  浄瑠璃坂じょうるりざか



 坂名の由来については、あやつり浄瑠璃が行われたため(『紫の一本』)、かつて近くにあった光円寺の薬師如来が東方浄瑠璃世界の主であるため(『再校江戸砂子』)、などの諸説がある。江戸時代、坂周辺は武家地であった。この一帯で寛文12年(1672)に「浄瑠璃坂の仇討」が行われ、江戸時代の三大仇討の一つとして有名である。
 平成18年(2006)2月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区市谷鷹匠町

新宿区指定史跡
 浄瑠璃坂の仇討跡
     昭和60年(1985)11月1日指定

 浄瑠璃坂鼠坂の坂上付近は、寛文12年(1672)2月3日江戸時代の三大仇討の一つ、浄瑠璃坂の仇討が行われた所である。
 事件の発端は、寛文8年(1668)3月、前月死去した宇都宮城主奥平忠昌の法要で、家老奥平内蔵允が同じ家老の奥平隼人に、以前より口論となっていた主君の戒名の呼び方をめぐり、刃傷に及び、内蔵允は切腹、その子源八は改易となったことによる。
 源八は、近縁の奥平伝蔵・夏目外記らと仇討の機会をうかがい、寛文12年(1672)2月3日未明、牛込鷹匠町の戸田七之助の組屋敷付近に潜伏していた隼人らに、総勢42名で討入り、牛込御門前で隼人を討取った。
 源八らは、井伊掃部頭へ自首したが、助命され伊豆大島に配流となり6年後許されて全員井伊家ほかに召抱えられた。
 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会


所在地 新宿区市谷長延寺町

  長延寺坂ちょうえんじざか



 昔、この坂に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々がこの坂道を通ったことから、自然にそう呼ばれるようになったという。
 平成19年(2007)1月 新宿区


所在地 新宿区新宿7

 梯子坂はしござか



 坂道が急で、あたかも梯子を登るようであったため、梯子坂と名づけられた(『新撰東京名所図会』)。
 平成20年(2008)1月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿7

  久左衛門坂きゅうざえもんざか



 この坂は、徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになったという。
 平成11年(1999)3月 新宿区教育委員会


所在地 新宿区新宿7

  椎木坂しいのきざか



 かつて尾張藩 戸山屋敷(現在の戸山ハイツ)の内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎木坂の名がついた。また、古くはこの辺りが砂利取場で、東西に上る二つの坂があったことから向坂とも呼ばれた(『新撰東京名所図会』)。
 平成20年(2008)3月 新宿区



 


所在地 新宿区南元町20・若葉1~港区

  鮫河橋坂さめがはしざか
 


 みなみもと町公園一帯は、昔から低い土地で、ヨシなどの繁った池沼があり、周囲の台地からわきだす水をたたえ、東南の方向へ流れて鮫河となり、赤坂の溜池にそそいでいました。
 江戸時代になってからは水田となり、寛永年間に行われた江戸城の外堀工事の際に余った土で埋め立てられて、町になったといわれています。
 鮫河には橋が架かっていて、鮫河橋さめがはしと呼ばれていました。鮫河橋は「江戸名所図絵」にもとりあげられて有名になったので、この付近一帯を鮫河橋と呼んだ時代があり、今でもみなみもと町公園前の坂に「鮫河橋坂」という名前を残しています。
  新宿区


                         江戸名所図絵


所在地 新宿区富久町9・四谷4-34

 茗荷坂みょうがざか



この辺りは、市谷の饅頭谷から西南に続く谷で茗荷谷と呼ばれ、茗荷畑があったという(『江府名勝志』)。坂名はそれらにちなんだのであろう。
 平成24年(2012)1月 新宿区


所在地 新宿区富久町

  安保坂あぼざか



 この道路は、昭和19年(2007)7月に都道と認定されたもので、坂名がついたのもきわめて新しい。その時の東京都告示には「牛込区市ヶ谷富久町及四谷区四谷4丁目、花園町地内に於て(中略)市道の路線を認定し之が区域を決定し其の供用を開始す」とある。
 坂名の安保は、この地に男爵安保清種海軍大将が住んでいたことに由来する。
 昭和59年(1984)3月 東京都


所在地 新宿区富久町

 禿坂かむろざか

 坂名の由来はさだかではないが、金吾堂版の『江戸切絵図』(「大久保戸山高田辺之図」)には『里俗カムロ坂』とあり、江戸時代後期には「かむろざか」と呼ばれていたことがうかがえる。
 平成20年(2008)3月 新宿区


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