東京都新宿区の歴史
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優れた記憶力を認められ学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。 天明3年(1783)検校となり、水戸藩の『大日本史』の校正なども手がけたが、寛政5年(1793)には、和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。 文政2年(1819)『群書類従』を完成させ、文政4年(1821)には総検校となったが、同年9月『続群書類従』の編纂なかばで没した。享年76歳であった。 墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103センチである。 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区須賀町9 (戒行寺) 長谷川平蔵供養碑 池波正太郎の原作と中村吉右衛門のテレビ時代劇で広く世に知られる「鬼平犯科帳」の主人公である火付盗賊改の鬼平と長谷川平蔵は延享3年(1746)江戸赤坂築地中之町(現港区赤坂6の12)の拝領屋敷で生まれた。姓は藤原、名は宣以。称は初め銕三郎、後に平蔵といった。寛延3年(1750)鉄砲州築地湊町に転じ、明和元年(1764)本所三ツ目通り菊川町に移った。父宣雄が火付盗賊改のとき、目黒行人坂の放火犯を捕えて、京都西町奉行に栄進したが、わずか10ヵ月で急逝した。その後、宣以が家督を継ぎ、西城御書院番や御徒頭を勤め、御先手弓頭から火付盗賊改を兼帯。さらに石川島人足寄場を開設した。軽犯者や無宿者を収容して手業を習得させ、工賃の一部を積みたてて、出所時の更生資金に充て、授産所として成功させた功績は大である。 寛政7年(1795)、 50歳で病没、当山に葬られた。 尚、当山には、鬼平の父宣雄ら5人の火付盗賊改が葬られている。 安部式部信旨 享保9年2月24日(1724・3・19)卒 桑嶋肥後守政恒 宝暦7年11月10日(1757・12・20)卒 山岡豊前守景之 明和3年2月4日(1766・3・14)卒 長谷川備中守宣雄 安永2年6月22日(1773・8・10)卒 菅沼主膳正虎常 寛改元年4月16日(1789・5・10)卒 平成6年(1994)7月17日 釣洋一撰 所在地 新宿区須賀町9~若葉 戒行寺坂かいぎょうじざか 戒行寺の南脇を東に下る坂である。坂名はこの戒行寺にちなんでいる(『御府内備考』)。別名「油揚坂」ともいわれ、それは昔坂の途中に豆腐屋があって、質のよい油揚げをつくっていたからこう呼ばれたという(『新撰東京名所図会』)。 平成18年(2006)3月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区須賀町11-4 (西應寺) 新宿区指定史跡 榊原鍵吉墓さかきばらけんきち 平成2年(1990)3月2日指定 幕末から明治にかけて活躍した、最後の剣客榊原鍵吉は、天保元年(1830)麻布広尾に生れた。 12歳のとき、麻布狸穴の直心影流男谷精一郎門下となり、嘉永2年(1849)には免許をうける。 安政3年(1856)幕府講武所の剣術教授方に登用され、文久2年(1862)には同師範に昇進、元治元年(1864)には下谷車坂の屋敷で道場を開いた。 慶応2年(1866)には幕府遊撃隊頭取となり、上野戦争で活躍するが、明治元年(1868)8月徳川家達に従い静岡に移住した。 その後、明治政府より再三招かれるが断り、明治6年(1873)撃剣会を発足させ、維新後衰退した剣術の再興と普及に努めた。 明治27年(1894)9月11日死去した。 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区須賀町13-5 真言宗豊山派 金剛山 蓮華院 顕性寺けんしょうじ 御府内八十八ヶ所 第四十四番札所 本尊 大日如来 総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬 祖師 宗祖 弘法大師(空海) 中興祖 興教大師(覚鑁) 派祖 専誉僧正 開宗 真言宗は、平安時代初期に弘法大師によって、中国からもたらされ、わが国で開宗されました。 教え 大日如来の真実の言葉として示される教えを私たちが信仰し体得することによって、この身がそのまま仏さまになrことができるという教えです。 読誦するお経 曼荼羅の思想は大日如来の智慧と真理を現わし、すべての世界はその総徳に包括されるのです。 真言宗はこの教えに基き理想の社会をめざします。 般若理趣経・般若心経・観音経・光明真言等諸真言 ご宝号 南無大師遍照金剛・南無興教大師・南無専誉僧正 行事 初大師供養会(1月21日)施餓鬼会(7月18日) 所在地 新宿区西五軒町 新宿区指定史跡 国産飛行機発祥の地 昭和60年(1985)12月6日指定 明治42~43年(1909~1910)にかけて日野熊蔵大尉により最初の国産飛行機「日野式一号機」が製作された林田商会(のち日本醸造機械株式会社)跡地である。 明治時代末期、飛行機が欧米各国で長足の進歩を遂げているのを見て日野大尉はその将来性に着目し、全くの独力で英・米・独・仏の文献を参考に飛行機用発動機、および飛行機の設計と製作に着手し、明治43年(1910)2月この地で完成した。 一層式で翼長8メートル、全長3メートル、発動機は二衝程空冷式八馬力を登載し、完成まで3ヶ月の期間と約千九百円を費やした。大尉はこの飛行機に自ら搭乗して戸山ヶ原で試験飛行を実施した。 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区西新宿1-6-1 (新宿エルタワー) 東京都指定旧跡 策の井むちのい 昭和16年(1941)11月指定 当敷地内に存した「策の井」は江戸時代より名井として知られ、天和年間(1681~1683)に出版された戸田茂睡の「紫の一本」(むらさきのひともと)に「策の井は四谷伊賀の先にあり、いま尾張摂津下屋敷内にあり、東照公鷹野に成らせられし時、ここに名水あるよしきこし召し、おたづねなされ、水を召し上られ、御鷹の策のよごれをお洗われたる故、この名ありという」と書かれている。この地は尾張摂津下屋敷であった所であり、また、享保年間(1716~1735)に出版された「江戸砂子」(えどすなご)という本にも同主旨の文章が見られ「策の井」が名水とうたわれた。 平成元年(1989)6月建設 東京都教育委員会 所在地 新宿区早稲田町77 (龍善寺) 新宿区指定有形文化財 木造阿弥陀如来立像 平成9年(1997)3月7日指定 寄木造り、漆箔仕上げ。像高95・1センチ。十二世紀末(鎌倉時代初期)の作品で区内でも最も古い仏像彫刻のひとつである。 龍善寺は寛文7年(1667)に現在地に移ったが、この像は当時からの本尊である。頭部の螺髪は細かく刻まれ、表情には上品さが漂っている。体は丸く弧を描くようななだらかな肩をもち、穏やかな表情や腰の高い胴体と相まって優美さが感じられる。全身を包む衣は極めて浅く刻まれ、腹部から股間に沿って流麗な衣文線が施されている。 いわゆる定朝様(平安時代の仏師)の優品である。 このほか龍善寺には、三河上宮寺の旧本尊であった聖徳太子像の胎内にあった、像高30センチ程の聖徳太子像も安置されている。 平成9年(1997)5月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区須賀町5-6 須賀神社 御祭神 主祭神 建速須佐之男命・宇迦能御魂大神 相殿 櫛稲田姫命・ 右(御子)五男神 天忍穂耳命・天穂日命・天津彦根命・熊野樟日命・活津彦根命 ・左(御子)三女神 多紀理姫命・市杵島姫命・多岐都姫命・ 相殿 大鳥神社 御祭神 日本武命・天日鷲大神・大鳥連祖大神 相殿 大国主命 攝社 天白稲荷神社 主祭神 倉稲魂大神 相殿 天照大御神・應神天皇・神功皇后・大山祇神・別雷神・ 天之水分神・国之水分神・高龗神・火之迦具土神・大宮売神・ 大年神・御年神・菅原道真公・疱獠神・天之児屋根命・ 猿田彦神・大物主神・ 四谷の総鎮守「須賀神社」と三十六歌仙絵 (須賀神社について) 四谷の産土神(うぶすながみ)で、祭神は建速須佐能男命(すさのおのみこと)と宇迦能御魂命(うかのみたまのみこと)の二柱です。 かつては、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と稲荷社の二つの神社であったもので江戸時代は稲荷天王合社と呼ばれ、明治にはいり須賀神社と改められました。 稲荷天王合社のうち稲荷社の由来については、次の二説が伝えられています。 一つは、かつては麹町十一丁目清水谷にあり、一ツ木村の鎮守であったものが、同村にあった別当宝蔵院(神仏習合の時代、神社には別当寺があり、そこの僧侶が社僧おして神社の儀式に携わりました。)が、寛永11年(1634)に現在の須賀神社の場所に移ったのを機に、稲荷も移転してきたというものです。 もう一つは、稲荷社は、現在の勝興寺(須賀町八番地)境内にあった椎の大木の根元に祀られており、宝蔵院が清水谷にある頃から稲荷社まで注連飾りの奉仕に来ていたため、寛永11年(1634)に勝興寺が移転してきた時、相談のうえ宝蔵院(現在の須賀神社)に遷座したという説です。 牛頭天王社のほうは、寛永18年(1641)に、神田明神境内の牛頭天王社を四谷のお仮屋敷横町付近に小祠を立て祀ったものだそうです。 ところがこの牛頭天王社に参詣人が多かったため、寛永21年(1644)寺社奉行に願い出て、同年6月18日に宝蔵院境内の稲荷社と合祀し、現在の稲荷天王合社となったものです。 以来、稲荷は鮫河橋・権田原の、天王は四谷の鎮守として崇敬され、現在は四谷地区十八町会が氏子町となっています。 須賀神社には『三十六歌仙絵』、『祖霊社』、『「く組」梯子塚』、『飯塚正兵衛翁顕彰胸像』があります。 所在地 新宿区須賀町5-6 (須賀神社) 新宿区指定有形文化財(絵画) 須賀神社の三十六歌仙絵 昭和61年(1986)3月7日指定 三十六歌仙は、平安時代中期の公卿藤原公任(966~1041)が、過去および同時代の優れた歌人三十六にんを選定したもので、万葉歌人から柿本人麿・山部赤人・大伴家持の3名が、平安時代前期の「古今集」「後撰集」頃の歌人から紀貫之・在原業平・小野小町ら三十三名が選ばれている。 須賀神社の三十六歌仙絵は、三十六歌仙を一人一枚の絵に仕立てたもので、縦55センチ、横37センチの絹地に彩色したものを、額装の上社殿内に掲げている。 当時画家として高名だった四谷大番町(大京町)の旗本大岡雲峰(1764~1848)の絵と、和歌や書画で人気を博した公卿千種有功(1797~1854)の書により、天保7年(1836)に完成・奉納されたものである。 四谷の総鎮守として信仰を集めた須賀神社の隆盛を物語る文化財のひとつである。 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会 |
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