東京都新宿区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 新宿区新宿6-20-9 (専福寺) 新宿区指定史跡 月岡芳年墓つきおかよしとし 昭和60年(1985)7月5日指定 月岡芳年(1839~1892)は、江戸時代末から明治時代にかけて活躍した浮世絵師である。 芳年は、本名を吉岡米次郎といい、天保10年(1839)3月17日に大久保の商家に生まれた。 嘉永3年(1850)12歳のとき歌川国芳の門に入り、3年後には一魁斎芳年と名乗り処女作「文治元年平家の一門亡海中に落入る図」を発表したとされ、慶応年間には師事した画家月岡雪斎の後を継ぎ、月岡と改姓した。 歌川派の写実性と伝統の武者絵の正統を受継ぎつつ、葛飾北斎の影響も受け多くの傑作を発表し、明治初頭には浮世絵界の第一人者として水野年方・鏑木清方ら多数の門人を擁した。 また一方で、維新前後の殺伐として風潮の中で、騒乱や事件などリアルな殺傷場面等も題材とし、「血みどろ絵」と呼ばれた。 明治6年(1873)に前年の病気から回復すると、しばしば大蘇芳年を名乗り活躍するが、同25年6月9日、54歳で亡くなった。 なお、現在の墓石は昭和48年(1973)に建替えられたものである。 平成8年(1996)3月 東京都新宿区教育委員会 PR 所在地 新宿区新宿6-20-16 日蓮宗 春時山 法善寺 山の手七福神の一つ寿老神を祭る。法善寺の本堂には、極彩色の七面明神像(区指定文化財)が安置されている。この神像を前にしての読経供養が、毎年9月13日~19日までの一週間営まれる。 法善寺には『七面明神像』があります。 山の手七福神 寿老人 所在地 新宿区新宿6-20-16 (法善寺) 新宿区指定有形文化財(彫刻) 法然寺の七面明神像 昭和60年(1985)8月2日指定 中正院日護上人(1580~1649)の作と伝えられる像高約30センチの木彫立像で、唐風の衣装をまとい宝冠をかぶり、左手に如意宝珠、右手に鍵を持つ。 七面明神とは日蓮宗の守護神の一つであり、七面天女、七面大菩薩ともいう。 「七面大明神縁起」によれば、十三世紀末の建治年間、身延山中の日蓮上人の庵堂に秀麗な夫人が法話を聴きに来たのでたずねると、自分は七面山の天女で、上人の説法を聴いて悪道の苦しみから逃れることができたとを告げ、未来永劫にわたり身延山を守ることを誓って立ち去ったという。 華麗な彩色と、精緻な彫法による江戸時代の典型的な七面明神像であり、「七面様」と呼ばれ親しまれている。 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区新宿7 久左衛門坂きゅうざえもんざか この坂は、徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになったという。 平成11年(1999)3月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区新宿2-15-20 浄土宗 明了山 正受院 願光寺 文禄3年(1594)に創建された浄土宗の寺院で、咳をとめるなど庶民の信仰を集めた脱衣婆像は区の指定文化財となっている。毎年二月8日には盛大に針供養が行われる。境内には、江戸初期以来の古い墓石や石仏も多い。 正受院には『脱衣婆像』、『小見外次郎胸像・針塚』、『梵鐘』があります。 所在地 新宿区新宿2-15-20 (正受院) 新宿区指定有形民俗文化財 正受院の脱衣婆像だつえばぞう 昭和59年(1984)11月5日指定 木造で像高70センチ。片膝を立て、右手に衣を握った奪衣婆の坐像で、頭から肩にかけて頭巾状に綿を被っているため「棉のおばば」とも呼ばれる。本像は咳止めに霊験があるとして、幕末の嘉永2年(1849)頃大変はやり、江戸中から参詣人をあつめ、錦絵の題材にもなっている。当時、綿は咳止めのお礼参りに奉納したと伝えられる。 本像は小野篁の作であるとの伝承があり、また田安家所蔵のものを同家と縁のある正受院に奉納したとも伝えられる。像底のはめ込み板には「元禄十四辛己年奉為当山第七世念蓮社順誉選廓代再興者也七月十日」と墨書されており、元禄年間から正受院に安置されていたことがわかる。 平成9年(1997)3月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区新宿2-15-20 (正受院) 新宿区登録有形文化財(工芸品) 梵鐘(平和の鐘) 平成14年(2002)2月1日登録 宝永8年(1711)、江戸神田の鋳物師川合兵部藤原周徳により鋳造された銅造の梵鐘。 総高135センチメートル、口径72.8センチメートル。竜頭は中央に宝珠を持つ両頭式、乳(突起)は四区に合計108個を配し、撞座は2個設けられている。 池の相段は四区全体に銘文が刻まれている。それによるとこの鐘は、正受院第五世住職の覚誉上人が発願したものを、万人講の助力をえて第八世住職の仰誉が完成させたものであることがわかる。 なおこの鐘は、太平洋戦争に際し、昭和17年(1942)に金属供出されたが、戦後アメリカのアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊にあるのが発見され、昭和37年(1962)12月に正受院に返還されたという数奇な来歴をもっており、「平和の鐘」と呼ばれる。 江戸時代の梵鐘は、このような金属供出により現存数が少なく、価値が高い。 平成15年(2003)3月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区新宿4-3-19 (天龍寺) 新宿区指定有形文化財(工芸品) やぐら時計 昭和61年(1986)11月7日指定 時の鐘とともに牧野備後守成貞が寄進したもので、この時計をもとに鐘を撞いたという。 時計は、高さ103センチのやぐら型の台にのっているため、やぐら時計と呼ばれる。 本体は縦24.5センチ、横16.5センチ、奥行16.3センチの箱型で、上に高さ11センチ、径15.1センチの鐘が付いている。 文字盤は明治以後24時間制に取替えられているが、中央に牧野家の三つ柏の紋がついている。 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区新宿4-3-19 (天龍寺) 新宿区指定有形文化財(工芸品) 天龍寺の時の鐘(追出しの鐘) 昭和61年(1986)8月1日 天龍寺の鐘は、元禄13年(1700)牧野備後守成貞により寄進されたもので、内藤新宿に時刻を告げた「時の鐘」である。 現在の鐘は、銘文により元禄13年(1700)の初鋳、寛保2年(1742)の改鋳につづく3代目のもので明和4年(1767)の鋳造である。 総高155センチ、口径85.5センチで多摩郡谷保村の関孫兵衛の鋳造になる。 天龍寺の時の鐘は、内藤新宿で夜通し遊興する人々尾追出す合図であり「追出しの鐘」として親しまれ、また江戸の時の鐘のうち、ここあけあ府外であり、武士も登城する際時間がかかったことなどから30分早く時刻を告げたという。 なお、上野寛永寺・市ヶ谷八幡とともに江戸の三名鐘と呼ばれた。 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区新宿6-21-11 (大聖院) 新宿区指定史跡 紅皿の墓(紅皿の碑) 平成18年(2006)8月4日指定 太田道灌の山吹の里伝説に登場する少女・紅皿の墓と伝承される中世の板碑(1基)、燈籠(2基)、水鉢(1基)、花立(2基)から構成される。 板碑は区内で唯一のものとなる中世の十三仏板碑である。また、板碑の前には12代守田勘弥や歌舞伎関係者により石燈籠等が立てられ、その存在が広く知られるようになった。 伝説では、太田道灌が高田の里(現在の面影橋のあたりとされる)へ鷹狩に来てにわか雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立ち寄った。その家の少女・紅皿は、庭の山吹の一枝を差し出し、『御拾遺集』の中にある「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞかなしき」の歌にかけて、雨具(蓑)のないことを伝えた。後にこれを知った太田道灌は歌の教養に励み、紅皿を城に招いて歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。 紅皿の墓とされる伝承が江戸時代中頃成立、展開し、幕末維新期を経て広まっていく様子を知ることができ、伝承、文献も含めた史跡として位置づけられ貴重である。 平成18年(2006)10月 新宿区教育委員会 八重 所在地 新宿区新宿6-21-11 (大聖院) 新宿区登録有形文化財(古文書) 大聖院文書だいしょういんもんじょ 平成3年(1991)12月6日 大聖院に伝来する古文書・古記録類で、宝暦元年(1751)から明治4年(1871)におよぶ二巻五冊一葉である。 内容は、大聖院と別当寺をつとめていた西向天神の由緒に関するものが多いが、文政7年(1824)の「東大久保村地誌書上帳」や境内にある紅皿の碑に関する「紅皿縁起」なども含まれている。 点数は少ないが、残存する古文書の皆無な大久保地区にとっては貴重な史料である。 平成4年(1992)2月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区新宿7-3-13 (観音庵) 筆塚 この筆塚は天保3年(1832)に当山に掛錫していた佛山禅苗和尚が天下泰平、国家安穏を祈願し、自らの小指の爪をはがし、その血で大般若経150巻を書写した時の血筆が納まっている碑です。 曹洞宗 観音庵 所在地 新宿区新宿5-17-3 (花園神社 芸能浅間神社) 「圭子の夢は夜ひらく」の碑 作詞 石坂まさを 作曲 曽根幸明 赤く咲くのは けしの花 白く咲くのは 百合の花 どう咲きゃいいのさ この私 夢は夜ひらく 十五 十六 十七と 私の人生 暗かった 過去はどんなに 暗くとも 夢は夜ひらく |
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