東京都新宿区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 新宿区霞ヶ丘町・港区 明治神宮外苑には『聖徳記念絵画館』、『建国記念文庫』、『葬場殿跡』、『樺太国境画定標石』、『御鷹の松』、『銀杏並木』、『明治神宮外苑之記碑』、『御観兵榎』、『明治記念館』、『憲法記念館碑』、『なんじゃもんじゃの木碑』、『噴水』、『明治神宮水泳場跡碑』、『ウォーキング運動発祥記念碑』、『秩父宮記念スポーツ博物館』、『日本最古のワービット工法によるアスファルト舗装』があります。 PR 所在地 新宿区霞ヶ丘町1 (明治神宮外苑) なんじゃもんじゃの木碑 この木は、和名「ひとつばたご」俗名「なんじゃもんじゃ」と呼ばれ昔からこの地内にあった名木です。5月始めの頃、白い清楚な花が咲き、満開時は雪を被ったように見えます。 この木の親木は古く幕末の頃、ここから南へ約400メートルの六道の辻にあったので、「六道木」とも呼ばれた珍しい木である。 明治18年(1885)にこのあたりは青山練兵場となったが、時の政府は所有者、萩原三之助からこれを買上げそのまま残した。 明治36年(1903)、白井光太郎博士(元帝国大学教授)が政府にこの木の保護願いを出し、種々尽力したため大正13年(1924)12月天然記念物の指定を受け保護されることになった。 然し樹齢百数十年といわれた名木も遂に昭和8年(1933)枯死した。 練兵場に枝を広げて立つ明治39年(1906)頃の六道木の姿は、絵画館の壁画「凱旋観兵式」(小林万吾画)の中に描かれており、またその遺木の一部絵画館内に飾られている。 ここにあるひとつばたごは、2代目六道木で、明治36年(1903)頃白井博士が根接法により得たものであると伝えられている。 この由緒ある名木を、できるだけ多くの方にご覧いただくため、このたび碑石と共にここに移し植えたものである。 ひとつばたごの名称は、江戸時代の植物学者水谷豊文が、尾州二ノ宮山中(愛知県)でこの木を発見し名づけたものと伝えられるもくせい科に属する落葉樹で、国内では愛知、岐阜、対馬に産し、都内では十数ヶ所に見られる。 昭和53年(1978)12月 明治神宮外苑 初代 ヒトツバタゴ(六道木)俗名 なんじゃもんじゃ 大正13年天然記念物指定 所在地 新宿区霞ヶ丘町1 (明治神宮外苑) 樺太国境画定標石 時 明治39年(1906)~明治40年(1907) 所 樺太日露境界 明治37年(1904)、8年の日露戦役の講和条約でカラフトの北緯五十度以南は、日本の領土となりました。 その境界を標示するため、日露両国委員は、明治40年(1907)9月4基の天測標と17基の小標石を建てて境界を確定しました。 この境界標石は、外苑創設に際し、明治時代の1つの記念物として、樺太庁が之を模造し外苑に寄贈したものです。当時苑内北方隅の樹間に在りましたが、この度、全国樺太連盟よりの、これが顕彰周知方の篤い要望に応えて、絵画館前の現地に移し整備配置しました。 日本側の菊の紋章の背面には露国の鷲の紋章が刻んであります。 又、聖徳記念絵画館の壁画「樺太国境画定」(安田稔画)には、両国委員が境界標を建設する光景を史実に基づいて描いた絵画が展示されております。 昭和54年(1979)6月2日 明治神宮外苑 所在地 新宿区霞ヶ丘町1 (明治神宮外苑) 御鷹の松(お鷹の松) 大正7年(1918)明治神宮外苑競技場(現国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川3代将軍家光(1603~1651)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある2代目の松(樹齢推定200年 高さ4メートル)は昭和39年(1964)、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。 昭和54年(1979)10月 明治神宮外苑 所在地 新宿区霞ヶ丘町8 (明治神宮外苑) 建国記念文庫 昭和41年12月9日、建国日制定審議会は2月11日を建国記念の日として答申、即日法律によって発布された。この間、数十万通に及ぶ、記念日制定の希望・意見書が進達されたので、ここに建国記念文庫を建設し、これを保管する事にした。 建設費は総て国民の浄財である。これは、現下の国民が等しく建国を思う情熱の結果であり、千年万年の子々孫々に伝え、以て後日の語り草にしたいのが、記念文庫設立の目的である。 建物は、わが国が建国当時、米穀を以て立国としたことを想い、奄美大島の高倉様式を移築しその屋上にテンパガラスを施行し、ここに書類を保管した。書は、出雲大社の神門の布施杉の材に佐藤大寛が墨書した。 礎石は、坂上田村麻呂将軍の東征により、平和国家が確立された故事に鑑み、奥州厳作山の石垣白河石を以て施工した。 昭和44年(1969)2月11日 元建国記念日制定審議会長 菅原通済記 所在地 新宿区霞ヶ丘町10 (明治神宮外苑) 秩父宮記念スポーツ博物館 秩父宮雍仁(ちちぶのみややすひと)親王殿下は昭和天皇の弟宮で20世紀前半の日本のスポーツの発展に尽くされるとともに、自らも山岳やボートを楽しまれるなど、スポーツをことのほか愛され、「スポーツの宮様」として国民に親しまれておられました。しかし、不幸にして1953年(昭和28年)1月4日、50歳という若さで世をお去りになりました。 当博物館は、殿下のスポーツに対するご功績を永く記念するとともに、日本のスポーツの歴史的資料を収集、保存、公開するために、1959年(昭和34年)1月に、本格的な総合スポーツ博物館として開館しました。 館内には、殿下ご自身がご使用になられた数々のスポーツ用具や関係資料とともに、けまり、やぶさめをはじめとした日本の古いスポーツ、古代から現代にいたるオリンピックや国内外の競技大会等、スポーツの発展が一目でわかる資料を展示しています。 また、隣接のスポーツ図書館では、スポーツ史に重点を置いた資料を公開しています。 所在地 新宿区霞ヶ丘町 (明治神宮外苑) 明治神宮外苑の舗装 明治神宮外苑の道路の舗装は、東京市(当時)でも大規模で本覚益那加熟アスファルト混合物を用いた舗装であり、1926年(大正15年)1月に完成しました。 この工事は、我が国においてワービット(Warrenite-Bitulithicの略)工法を採用した最初の工事であったばかりでなく、アスファルトは国産品(秋田県豊川産)を使用し、当時の最新鋭機による機械化施工が行われました。 この舗装は長い年月の使用に耐え、左図の濃色の箇所(下の写真)が66年間(1992年改良)にわたって車道として使われてきたことは、驚嘆に値します。また、この案内板の前の舗装は当時のまま現存しており、日本における車道用アスファルト舗装としては最古のものです。 当時の工事概要 (1)発注者:明治神宮造営局 (2)施行面積:59,096㎡ (3)施行費用:167,135円 (4)工期:1924年5月~1926年1月 (5)監督者:工学博士・藤井眞透 平成16年度 土木学会選奨土木遺産 対象構造物 聖徳記念絵画館前通り 受賞理由 東京を代表する道路景観であり、ワービット工法を利用したわが国最古級の車道用アスファルト舗装である。 |
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