東京都新宿区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 新宿区若葉2-9 浄土宗 専称山 安養院 西念寺 服部半蔵の槍 「槍の半蔵」の異名を持つ服部半蔵(1542~1596)が徳川家康より拝領したと伝えられる槍で、半蔵が開基となったこの西念寺本堂に現在も保存されている。 槍先と柄の一部が欠けており、現状では全長258センチメートルである。 戦国時代の槍の標本として、また、同寺に伝存している点で貴重な歴史資料である。 服部半蔵と西念寺 服部半蔵は、徳川家康の旧臣で、槍の名手として、また、伊賀者の指導者として知られている。 主君家康の長男信康が切腹おり、半蔵は介錯を命ぜられたが、ついに果たすことができず、後に半蔵は信康の冥福を祈るため仏門に入った。 天正18年(1590)家康に従い江戸に入国し、麹町清水谷に庵居を設け、信康の遺髪をここに埋め、霊を弔った。文禄2年(1593)家康より寺院を建立するよう内命を受けたがこれを果せず、慶長元年(1596)11月14日、55歳で死去した。 その後、同所に寺院の建立が成り、山号、寺号は法名から「専称山安養院西念寺」となった。 寛永11年(1643)江戸城外郭拡張に伴う外濠新設のため、西念寺は現在地に移転した。(西念寺縁起より) 境内には、服部半蔵の墓と信康の供養塔がある。(共に区指定史跡) 平成5年(1993)1月 東京都新宿区教育委員会 境内には『服部半蔵墓』、『徳川信康供養塔』があります。 PR 所在地 新宿区若葉2-9 (西念寺) 新宿区指定史跡 服部半蔵の墓 昭和59年(1984)7月6日指定 服部半蔵(1542~1596)は、本名を正成といい、徳川家康の三河依頼の旧臣で、家康16将の1人に数えられる武将である。 「鬼の半蔵」として知られ、元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、天正18年(1590)小田原攻めで功をあげ知行8千石を賜り、同天正18年(1590)の家康の江戸入府後は、江戸城西門近くに居を構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。 半蔵は、天正7年(1579)家康の長男信康が切腹する際介錯役を命じられた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。 文禄2年(1593)には家康から寺院を建立するよう内命をうけたが、慶長元年(1596)11月、55歳で没した。 西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永11年(1643)江戸城の外堀拡張・新設の際現在地に移転したものである。 平成17年(2005)2月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区若葉1-1-6 (法蔵寺) ビルマ独歩一八七大隊戦友会記念碑 この記念碑は当山第一世住職飯田観隆氏が第二次世界大戦に応召された部隊の戦友会記念碑である 記念碑の裏面には部隊の編成、経緯が銘板に明記してある 昭和18年(1973)12月7日赤坂の頭部六部隊にて編成九州門司港乗船南京上海経由19年(1974)3月佛印サイゴン上陸同地付近の警備につく 5月ビルマ風雲急を告げるや北ビルマへ進軍 英印支連合郡の反撃に対し阻止作戦に従軍する 20年(1945)1月エナジョンに終結 貫徹兵団に編入されイラワジ川右岸にて敵と対峙激烈なる戦斗を交え敵の進攻を防ぎやがて敵中突破 ベグー山系シッタン平原を踏破パプンにて友軍陣地到達後8月15日終戦となる モールメンに終結抑留生活に入る 21年(1946)6月帰還船にてモールメン港出帆 7月12日広島大竹港に上陸復員完結し3年振りにて懐かしの故郷に帰る 昭和38年(1963)第一回戦友会を開催法泉寺にて戦没者の慰霊祭執行 浅草公園料亭菊水にて懇親会開催し、以後各中隊毎に戦友会を行い部隊は隔年毎に旅行戦友会となりお互い親交を深め30年間継続し戦友愛その極に達し今日に至る 平成3年(1991)有志相図り記念碑建立の件 決意し末永く子々孫々に語り継がれる様住職の好意ある御理解と協力に依り現在地位建設した次第である 平成4年(1992)9月23日 元部隊長 佐藤達全 ビルマ会発起人 西田邑雄 育パコダ会発起人 中西善太郎 所在地 新宿区若葉1-5-19 (ランテンヌ四谷) 文化放送発祥の地 1951年11月、ここ新宿区若葉1-5の地に文化放送(1956年までは日本文化放送協会)の局舎が完成。翌1952年3月31日に東京で2番目の民間放送(JOQR)として電波を発し、2006年7月まで54年にわたりこの地でラジオ放送を続けてきました。新ロマネスク様式の地上6階地下1階建て鉄筋コンクリート造りの局舎は、設立母体がカトリック聖パウロ修道会であったため、ステンドグラス風のファサード、礼拝堂を利用したスタジオ等、随所に教会の雰囲気を漂わせた個性的で味わい深い建物でした。 所在地 新宿区若葉2-4 日蓮宗 稲荷山 妙行寺 いなりさん みょうぎょうじ 抑、当山は凡そ五百年前、後奈良天王の御宇江戸城際に開闢草創せる、真言宗寺院なりしが、時の往持頻伽法印、身延山第十一世行学院日朝上人の教化を受け、寛正の頃、日蓮宗に帰属せしものなり。その後、西紀1457年長禄の年、本立院日純、開山となり基礎を確立す。慶長19年に於て徳川氏開府の砌、江戸城域拡張に従い、朱印内寺構への為現在地に移り今に至るまで伝統を保てるものなり。当山に祀る稲荷尊は身延山開創の草分分体にして草分稲荷尊と称し、日朝上人と並んで地民の鑽仰厚かりしという。又、本堂に安置し奉る日朝上人の御尊像は頻伽法印報恩の為、彫刻せしものなりという。 当山八世玉峯院日静は、身延山第三十六世潮師法縁々祖六牙院日潮上人と親交深く、当山に残れる書簡により信仰の交流細やかに布教者魂意気投合せるという。特に日静は法華経壹萬部・読踊の功徳を以って豆塚を築き、当時流行せる疱瘡をしずめたことにより、上人の徳を慕い諸人の参詣、後を絶たざりしという。 十代沿う群家治の時、当山篤信伊藤氏の娘、側室として仕え、その縁により、一族、大奥の中﨟等の薬務につくもの多く、とくに興善院殿篤誉諦泰大禅尼の法号を授与された方は将軍家の信頼ことの外厚く、その縁により当山に赤門建立を許されたという。故に四谷麹町界隈に赤門寺として有名を馳せ、多くの外護丹精を受けたりしといわれる。その由縁は墓地及び顕彰供養塔に刻記し後世に伝へらるるなり。赤門に彫られし龍の彫刻は、当時、安永の名匠飛弾の甚五郎作と伝えられ、そのすばらしさは衆目をみはらせるものありいという。 当山檀徒、瀬名貞雄は江戸の國学者として著書も多く「室町三礼記」「十二月故實」「関東補任記」「殿上故実附記」等を著し江戸の地理に詳しく太田南畝との瀬田問答は当山で行れしものという。 当山は其後、関東大震災には微動だにせざりしが、今次大戦により、赤門、土蔵造りの本堂日朝堂、稲荷堂等、悉く烏有に帰し現在の本堂、客殿、庫裡は戦後建立せしものなり。 昭和63年(1988)戊辰4月29日 妙行寺執事 寄進 山田馨 所在地 新宿区若葉2-7-8 真言宗 金鶏山 真成院 四谷霊廟 金鶏山真成院は慶長年間開基清心闍梨本尊潮干観音を感得して開創せる名刹にして久しく霊妙奇瑞四隣に輝く然るに昭和20年(1945)5月25日戦災に罹り堂宇悉く灰燼す現住職田隆弘師これが再興につき時代即應の結機に基つく葬送納骨回向等総べて一堂にて執行する道場所謂四谷霊廟を企画設計するに至る 茲に機縁循熟し芝本産業株式会社々長芝本龍子氏関係者の懇請によりこの趣旨に賛同され建築及び内部荘厳等一切の調達に当り終に荘重華麗なる霊廟を円成せられたり誠に感激に堪へざるなりされば吾等この芳志を肝銘し永くその亀齢鶴寿を祷請してその鴻恩に酬いんとす嗚呼法悦感喜何物かこれに比せん耶 願くは奉安せられたる精霊日々の香花供養を納受され速かに密厳浄刹に優遊し給はんことを仍って彫板を鋳しえ事由を疏す 昭和46年(1971)8月吉日 四谷霊廟建築委員代表 大僧正 添田隆俊謹んで書す 延命地蔵菩薩 雨宝稲荷大明神 所在地 新宿区若葉2-8-3 真言宗豊山派 獨鈷山 光明寺 愛染院 本尊 大日如来 総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬 祖師 宗祖 弘法大師(空海) 中興祖 興教大師(覚鑁) 派祖 専誉僧正 文政寺社書上に拠れば『當寺開闢之儀は人王五十二代嵯峨天皇御宇弘仁年中弘法大師関東弘法之為當國に一宇御建立今之麻布善福寺之地也然に當院は右奥之院にて御守本尊五指量愛染尊を安置し大日如来よりハ祖相承の獨鈷を納め給故に山号を獨鈷山と申候愛染尊は秘法にて不能住職之僧も拝其後星霜相移り年月相知れ不申候』と伝えて、その来由することの頗る古きを語て、慶長当時の開山正齋(寛永15年〔1638〕12月5日寂)は、その中興と称して居る 昭和9年(1934)発行の四谷区史より 愛染院には『高松喜六墓』、『塙保己一墓』があります。 所在地 新宿区若葉2-8-3 (愛染院) 新宿区指定史跡 高松喜六墓たかまつきろく 昭和59年(1984)7月6日指定 内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草の名主であった。 喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約十六キロ)の高井戸であり、大変不便であったので、元禄10年(1679)同志4人とともに幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。 翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋・本陣を経営した。 正徳3年(1713)8月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。 墓石は高さ80センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれている。 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区若葉2-8-3 (愛染院) 新宿区指定史跡 塙保己一墓はなわほきいち 昭和59年(1984)11月2日指定 「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享3年(1746)現在の埼玉県児玉郡保木野村に生れた。 姓は萩野、幼名は辰之助といった。 5歳で病にかかり、7歳で失明したが、13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。 優れた記憶力を認められ学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。 天明3年(1783)検校となり、水戸藩の『大日本史』の校正なども手がけたが、寛政5年(1793)には、和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。 文政2年(1819)『群書類従』を完成させ、文政4年(1821)には総検校となったが、同年9月『続群書類従』の編纂なかばで没した。享年76歳であった。 墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103センチである。 平成3年(1991)1月 東京都新宿区教育委員会 |
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