東京都新宿区の歴史
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所在地 東京都新宿区神楽坂5-36
日蓮宗
所在地 東京都新宿区神楽坂5-36 (善國寺)
「神楽坂の毘沙門天さま」として、江戸時代より信仰をあつめた毘沙門天立像である。 所在地 東京都新宿区神楽坂1・2丁目 所在地 新宿区神楽坂1-3 (東京理科大学) この建物は本学の前身東京物理学校が明治39年(1906)に現在の6号館の場所(当時の地番では東京市牛込区神楽町2-24)に木造2階建後者を新築した時撮影した現存するただ1枚の写真から忠実に復元したものです。敷地の関係で当時より規模は少し小さくなっており、また建築法規も違うため窓の構造が若干異なりますが、可能な限り明治の校舎に近いものとなるように心掛けて、明治建築様式を再現した建築物です。 所在地 新宿区神楽坂3丁目と4丁目の間 本多横丁 その名の由来は、江戸中期より明治初期まで、この通りの東側全域が旗本の本多家の邸地であったことによる。御府内沿革図書第十一巻切絵図説明に、本多修理屋敷脇横町通りとあり、往時は西側にも武家屋敷の立ち並ぶ道筋であった。なおこの本多家は、碌高1万5百石をもって明治を迎えた大名格の武家と伝えられる。 神楽坂界隈は明治以降、縁日と花柳界で知られる商店街として発展し関東大震災後より昭和初期には、連日の夜店が山の手銀座と呼ばれる賑わいをみせ、この横町も、多くの人々に親しまれるところとなった。 後の太平洋戦争末期には、この地も空襲により焼土と化したが、いち早く復興も進み、やがて本多横丁の旧名復活を期して商店会発足となった。 石畳の路地を入れば佳き時代の情緒を伝え、また幾多の歴史を秘めて個性豊かな商店通りとして歩みを続けている。 昭和60年(1985)7月 本多横丁商店会 所在地 新宿区神楽坂5 寺内公園(行元寺跡) この「寺内公園」」の一帯は、鎌倉時代の末から「行元寺」という寺が置かれていました。御本尊の「千手観音像」は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。寺の門前には古くからの町屋「兵庫町」があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、兵庫町の肴屋が肴を献上したことから「肴町」と呼ばれるようになりました。 江戸中期の天明8年(1788)、境内の東側が武家の住まいとして貸し出されるようになりました。この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。安政4年(1857)頃、この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。明治4年(1871)には、行幸寺と肴町を合わせて町名「牛込肴町」となりました。(昭和26年からは「神楽坂5丁目」になっています。) 行元寺は、明治40年(1907)の区画整理の際、品川区西五反田に移転し、大正元年(1912)に大久保通りができました。地元では、行元寺の跡地を「寺内」と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、毘沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。 文豪、夏目漱石の「硝子戸の中」大正4年作(1915)には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。また、喜劇王柳家金語楼と歌手・山下敬二郎の親子や、女優・花柳小菊、俳優・勝新太郎、芸者歌手・神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。このように多くの芸能人や文士に愛された「寺内」でもありました。 日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。 平成15年(2003)3月吉日 新宿区 「当時の寺内の風俗を描いたといわれる」 ノエル・ヌエット仏画「神楽坂」(昭和12年) 作品提供/クリスチャン・ボラック |
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永山
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