東京都新宿区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 新宿区中落合1 見晴坂 この坂上からの眺望は素晴しく、特に富士山の眺めは見事であったという。坂名はその風景に由来するものであろう。 なお、坂下の水田一帯は落合螢の名所として知られた(『江戸名所図会』)。 平成18年(2006)2月 新宿区教育委員会 PR 所在地 新宿区中落合2 西坂 西坂の名は、江戸時代後期の絵図に認められる(堀江家文書「下落合村絵図」)。『豊多摩郡誌』には「西坂、新宿道、字本村と字不動谷戸の間にあり」とある。 かつて坂上にあった徳川男爵邸の牡丹園は、盛時に一般公開され、落合の名所の1つになっていた。 平成16年(2004)2月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区中落合2 市郎兵衛坂いちろうべえざか 『豊多摩郡誌』によれば「市郎兵衛坂 中井道、字不動谷と前谷戸との間にあり」と書かれている。坂名の由来についてははっきりしない。この坂にゆかりのある人名をとったものと思われる。 平成19年(2007)3月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区中落合2 霞坂かすみざか 明治時代末に開かれた坂で、『豊多摩郡誌』には「大字下落合里俗中井より小学校前へ開穿したる新坂なり」」とある。 この坂下は一面の水田だったので、春がすみの立つ、のどかな田園風景が美しかったという。 平成18年(2006)3月 新宿区教育委員会 所在地 新宿区中落合4-18-16 中井出世不動堂 円空の作である本尊の不動明王像と、こんから・せいたかニ童子の三体(いずれも区指定文化財)があり、毎月28日の縁日に公開される。もとは中井御霊神社にあったが、明治の神仏分離により、現在地に移ったもの。 新宿区指定有形文化財(彫刻) 中井出世不動尊像 昭和59年(1984)7月6日指定 江戸時代の遊行僧円空(1632~1695)の作で、不動明王(像高128センチ)、矜羯羅童子(像高64センチ)、制咤迦童子(像高67センチ)の三体からなり、不動明王には火焔光背と台座、ニ童子には台座が付属している。 江戸時代後期に円空生誕の地に近い尾張国一宮の真清田神社の東神宮寺より移され、明治時代後期まで中井御霊神社の別当不動院に安置されていた。 彫法は円空の素木を生かした作風を良く示したもので、都内伝存の円空仏としては唯一の発見例である。 平成3年(1991)11月 東京都新宿区教育委員会 所在地 新宿区中落合4-31-1 (目白学園) 落合遺跡 昭和25年(1950)に目白学園の校庭から弥生時代の住居跡が発見され、その後の調査で付近一帯から、縄文・弥生・奈良時代の住居や土器などが見つかり、「落合遺跡」と名づけられた。 所在地 新宿区中落合2-4-22 (佐伯公園) 佐伯祐三アトリエの地(佐伯祐三・佐伯米子 旧居跡) 指定年月日 平成22年(2010)4月9日 近代日本を代表する洋画家の一人佐伯祐三(1898~1928)は、大正10年(1921)にこの地にアトリエ付住宅を構えた。当時の下落合は、武蔵野の面影が残り、静かな創作環境や魅力ある風景を求めて、多くの画家、文化人の活動拠点となっていた。 大正12年(1923)、家族とともにフランスに渡り、パリの街並みを数多く描いた佐伯であるが、大正15年(1926)に健康上の理由等で帰国した。再びフランスに渡る昭和2年(1927)までの約2年間は、パリで得た描写法を日本の風景に当てはめ、自己の画風を醸成させることに努めた。特に、30点余りあるとされる、下落合周辺に画題を求めた連作「下落合風景」は、このアトリエで制作されたものである。 この地は、佐伯が日本でアトリエを構え創作活動の拠点とした唯一の場所であり、北側の大きな採光窓等、当時の典型的なアトリエ建築を今に伝える建物が現存することから、日本近代洋画史の上でも、新宿の歴史や風土を理解する上でも重要な場所である。 佐伯公園(佐伯祐三アトリエ記念館) 日本のヴラマンクと呼ばれた洋画家の佐伯祐三の旧宅を区が購入し、昭和50年(1975)に「佐伯公園」として公開した。彼は昭和2年(1927)に渡仏するまでの数年間、ここに住み、当時まだ農村だった落合の風景を何枚もかいている。 |
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永山
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